5-7. 足掻き
議題が一区切りついて休憩になると、ヴァリスはフィンのそばへ来てささやきかけた。
「さきほどは助かった。うまく辻褄を合わせてくれて感謝する」
「あれで良かったでしょうか」
「うむ。災厄がどうのと言うよりは、伝染性の狂気とでもした方が信じられやすかろうよ。思わぬ展開だったが、フェルシウスのお陰で説得の手間も省けた」
「……そうだ、これをお返しします」
フィンは何とも応じられず、代わりに預かったままだった鍵を取り出した。ヴァリスはまるで忘れていたと言わんばかりの表情で受け取り、どうだ、と問う。
「持ち出しておくべき物はあったか?」
「欲を言えば、魔術の道具以外はすべて、です。どれも、あまりに勿体無くて」
フィンは宝物庫の中を思い出しながら、正直にため息をついた。ヴァリスが少しばかり愉快げな表情になり、眉を上げる。
「それは竜侯としての言葉か、それとも芸術の一愛好家としての言葉か?」
「さあ。両方でしょうか」
フィンも自分に対して微苦笑し、首を振った。
最高級の芸術に接する機会こそなかったが、それでもかつてのナナイスには、本国仕込みの職人の手による作品が、そこかしこにあったものだ。伝承の時代に作られた工芸品がどれほど貴重なものか、そこに宿る力を別としても理解できる。だが今は感傷よりも、実際的な問題に集中すべき局面だ。フィンは気を取り直して続けた。
「おっしゃった通り、強い力を宿した物はありませんでした。ですが魔術の道具だけは、他所へやるか破壊してしまうべきだと思います」
「ふむ?」
「魔術とは本質的に、竜や精霊の力を無理やり引き寄せて使うものですから、あの災厄と似通っていると言えます。捨てて行っても問題はないかも知れませんが、用心の為に。それらを除けば十点ほどが残りますが、あまり大きな物もありませんから、全部持って行けなくもないかと」
宝物の数は予想よりも少なかった。フィンが鍵を渡されたのは、いわゆる財宝とは別に、古代の特別な遺物だけを保管する倉庫だったのだ。どれもが色褪せたり黒ずんだり、一部損壊していたりと、歳月を感じさせる有様になっていた。フィンが手にする前のフェーレンダインと同じだ。
フィンかレーナが軽く触れると、微かに歌うような音を立てる物もあった。千年近い歳月を経てなお、新しい主を待ち続けているのだろう。
「そなたが使えそうな物はなかったのか」
「もうフェーレンダインがありますから」フィンは端的に答え、柄に軽く手を触れた。「いずれお返しするつもりでいますが、思ったよりもずっと長く、借りたままになるかも知れません。どうやらこの手の武器は……使っていると、ある種の絆が生じるようなので」
皇都から北へ戻ると決めて以来、毎日のように使ってきた。今では柄も手にしっくり馴染み、最初の時とはかなり感覚が変わってきている。フィンはちょっと微笑んで言い足した。
「叙事詩の竜侯達も、武器と鎧、兜に盾と、全部特別製のもので固めていたという話は、聞いたことがありません。きっと一度にひとつしか持てなかったんでしょう」
「なるほど、それで残っている宝物の数も少ないのだろうな。分かった、では出来る限り運び出すよう計らおう。魔術の道具は、我々でも見分けられるか?」
「ええ。倉庫に竜眼がありましたが――あの大きな球体です――表面に描かれている模様と類似の模様が記されているのは、間違いなく魔術の道具です。一度王宮に戻って、それらの外見を書き出しておきましょう」
「一度? どこかに行くのか」
ヴァリスが不審げに眉をひそめる。フィンはうなずいた。
「議員の中にはもう、危険な人物は見当たりません。フェルシウス議員の影響下にあった人は多いようですが、蝕まれてまではいませんから。私は取り急ぎクォノス方面へ飛んで、警告を伝えながら地面にしるしをつけて来ます」
闇の獣を遠ざける要領で地面に天竜の力を注いでおけば、災厄が拡がりだした時、食い止められはせずとも、その進行を知ることは出来る。荷物をまとめる猶予があるのか、なりふり構わず着の身着のまま走ってでも逃げるべきなのか、それだけでもはっきりすれば、多少は混乱を抑えられるだろう。
フィンがその旨を説明すると、ヴァリスは納得して許可を出した。
「良かろう。ではそれが済んだらすぐに皇都へ戻ってくれ。重要な役目を頼みたい」
「……?」
何か緊急のことなら、先に片付けましょうか――そう問いかけるように、フィンは小首を傾げる。竜侯様にはそぐわない従順な仕草に、ヴァリスは危うく失笑しかけた。ごまかすように咳払いをして、早く行けと手振りで促す。
「竜の翼があるなら、明日には戻れるだろう。どうせ議会が閉会して実際に人が動き出すのも、明日以降だ。気にせず行って来い」
皇帝の微妙な声音に、フィンは釈然としない気分を抱きつつも、はい、と応じて敬礼したのだった。
ナクテ街道を東へ――クォノスへ向かうにつれ、引く力は強くなり、空は薄暗く翳ってゆく。ネリスは鞍の前に座るマックにしがみつき、止まって、と頼んだ。
「そろそろ限界みたい。これ以上近付かないで」
「分かった」
マックは手綱を引くと、前を行く軍団兵に声をかけて呼び止めた。先行していた二人が戻ってきて、心配そうに、ネリスの様子と街道の先とを見比べる。
「この先はもう、諦めましょう」
マックが言うと、兵士は二人とも反論せずうなずいた。祭司の目はなくとも、燦々と日の照り輝く真昼だろうと、あまりに強い“飢え”の気配は心を暗くする。彼らもやはりそれを感じ取っているのだ。
それにまた、ここに来るまでの不首尾も、前進の意欲を殺いでいた。
「では、前の辻まで戻って南へ向かおう」
兵士が提案し、マックもうなずく。ここからクォノスまでの間にも、ふたつばかり宿場町があるはずだが、そこの住民については幸運を祈るだけだ。まともな祭司か、その素質のある者がいれば、もうとっくにどこか他所へ逃げ出しているだろう。これほど中心に近付けば、否応なく危険が迫っていると分かるはずだ。
――だが、ここよりも西の村では、そこまで切迫した感覚を持つ者は皆無に近かった。
ゆえにマック達が危険を説き避難を促しても、反応は鈍く、なかなか信用されなかったのだ。仕方なくマックは、第四軍団が暴動を起こしたという話に切り替えて、略奪されるから逃げろと説いた。元軍団の兵士らは屈辱的な顔をしたが、やむを得ない。
災厄などと言っても、己の命に関るとまでは、誰も想像しようとしないのだ。明らかに軍団の装備を身に着けた兵士がおり、ネリスが祭司服を着ていてさえ。否、そうだからかろうじて、石もて追われずに済んでいるという有様。
なお厄介なことに、彼らの言うことに耳を貸さない者の多くは、既にいくらか精神を蝕まれているのだった。希望もなく意欲もなく、目的意識もない。災厄が来ると聞かされても、それを現実のこととして受け取れず、仮にそうなったとしても、だからなんだ、と言うのである。その時はその時だ、どうせいつかは死ぬんだ、そんな風に。
それでいて、自分が何かを失っている、損しているという感覚だけはあるらしい。避難させるなら生活を保障しろだの、収穫できずに放置していく作物の代金を払えだのと要求し、応えて貰えないとなると鼻を鳴らして去っていく。
「ほかはもう少し、ましだと良いんだが」
兵士の片方がつぶやいた。手分けして街道をあちこちに向かったが、祝福を授けられるネリスが、一番危険なナクテ街道沿いを行くことにしたのだ。
「行く先で祭司が協力してくれたら、助かるんですけどね」
ネリスも独り言のように応じる。ここまで来た中でまともな対応をしてくれたのは、力のある祭司がいる町ひとつだけだった。その祭司は、夜毎に町の人々から活力を奪ってゆく何ものかの存在に、もう随分前から気付いていたという。彼女の尽力によって、その町でだけは、問題なくすんなりと避難準備が始められた。
猶予はほとんどない。馬のおかげで第四軍団より先行しているが、せいぜい一日か二日だろう。今頃はもう、最初に警告した村は死の歩みに踏破されているに違いない。一部の村人は避難を考えている風だったし、何らかの加護を授かっている者もいたから、全員が巻き込まれたことはあるまいが、しかし。
(お兄がいれば)
ネリスは詮無いことを思い、悔しさに唇を噛んだ。既に蝕まれた人々に女神ネーナの祝福を授けても、虚しくなるだけだった。受け皿となるべき魂が、完全に損なわれてこそいないものの、祝福を満たし保持するにはあまりに力不足になっているのだ。目の粗いざるに水を注ぐのと同じ、わずかな滴だけを残して全部素通りしてしまう。
フィンとレーナがいれば、状況は違ったのではないか。破れた網を繕うように、人々にもう一度、希望と活気を与えられたのではないか。
(竜侯だからってだけじゃない。お兄は竜侯になる前から、いつだって、あたし達に希望を取り戻させてくれた)
ウィネアまで行けば、ナナイスへ助けを呼べると信じて旅立った。それが駄目になった後も決して捨て鉢にならず、コムリスへ逃げ、山脈へ、果ては本国にまで行っても、最後にはやっぱりナナイスに戻るという希望を掲げ、さらには実現して見せた。
(レーナがフィン兄をきれいだって言うのは、多分、そういうことなんだろうな)
漠然と気付き、ネリスは少しだけ悔しくなった。自分では敵わない。あれほどまでの、不屈の精神をもって前へ進み続けることは出来ない。
己の力不足に、珍しく落ち込む。と、マックが心配そうに、肩越しに声をかけた。
「少し休んだ方が楽かい?」
「あ、ううん、大丈夫。休むより、急いでここを離れようよ」
「そうか。じゃ、もうちょっと我慢してて」
「平気だってば」
言いながら、鞍の上で姿勢を直す。二人の兵士もネリスに気遣いのまなざしを向けてから、街道を来た方に戻り始めた。
道すがら、図らずもマックがネリスと同じ思いを口にした。
「兄貴がいればなぁ。俺達だけで説得するより、きっと上手くいくのに」
「そんなことないよ」反射的にネリスは否定していた。 「あんなの、いたって役に立たないって。陰気で無口で話下手だし、無駄に人を怖がらせるだけでしょ」
「うーん、でも、兄貴が言ったら、災厄とか危険とか、すごく真実味が増すと思わないか?」
とぼけたマックの言い様に、思わずネリスはふきだしてしまう。続く爆笑の発作を堪えながら、そうかもね、と同意した。
「なんたって墓石だから」
そうそう、とマックもうなずく。ネリスはくすくす笑い、おかげで肩の力が抜けたことに気付いた。敏感に察してくれた、マックの優しさにも。
「ありがと」
小声でささやいて、温かな背中にふわりともたれかかる。新妻に抱きつかれたマックは無言で奇妙な顔をしていたが、強引に体をひねると、軽くキスをした。そして一言。
「背が低いと便利なこともあるね」




