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灰と王国  作者: 風羽洸海
第四部 忘れえぬもの
161/209

5-4. 異変の始まり



 第四軍団はナクテを出発し、東へ向かって進軍を開始していた。

 皇帝と議会からの要請を受けるとすぐに準備にかかり、州都の守りに必要な兵力を残して動き出す。この四年ほど、セナト侯の意向で厳しい訓練を積んできただけに迅速ではあったが、しかし流石に大軍とあって相応の日数を消費していた。

 セナト自身は先にクォノスに向かい、現地で補給物資の準備を指揮している。よって、必ず軍団はクォノスを経由するようにと命じられていた。

 むろん、通常ならば念を押されるまでもなく、クォノスを経由するだろう。最短距離であるし、補給のことを考えても当然だ。ルフスは舅の妙なこだわりを訝りながらも、ごく当然の選択として街道を東へと進み続けていた。

 東部の火の手を鎮めるために、西の竜侯が軍を出す。何の不審もない成り行きと、その結果としての行軍なのだが、しかし、ルフスはどうしても違和感を拭いきれずにいた。

(ここで何をしているのだろう? 本当に、これで良かったのか?)

 漠然とした不安が胸に兆す。自身の背後からついてくる軍勢が、不意にひやりと冷たく感じられることさえあった。何もおかしいところはない、自分はまだ何の失策もやらかしていないし、兵が反乱を起こす気配もない。だのに、なぜ。

 異変を感じているのはルフスだけではないようだった。ごく一部の者だけだが、時々自分が場違いなところに紛れ込んでしまったかのような――所属する軍団を間違えたような、妙な気がする、と打ち明けてきたのだ。

 古参の百卒長もいれば、まったく経験のない新兵の中にさえ、そのような感覚を抱く者がいた。野営時などにルフスが見回っていて、落ち着きのない兵を見付け問い質してみると、大抵そのような返事がくる。入ったばかりで場違いも何もないと思われるでしょうが、と遠慮しながら白状するのだ。自分の名前は本当に名簿に載っていますよね、と確認した兵までいる始末。

 その違和感がはっきりと正体を現したのは、皇都からの伝令が駆けつけた時だった。

「司令官! ルフス軍団長!」

 東から街道を疾駆する騎影に、緊張が走る。それが勅使の肩章を着けていることに気付くと、ルフスは全軍に停止を命じておいて、自らは前へ進み出て迎えた。

 停止の号令が上がり、旗が振られる。勅使は馬から下りるのももどかしげに、封された書状を差し出しながら喋りだした。

「ルフス様、軍団の針路を変更せよとの御下命です。内陸部を避け、海岸寄りの道を選ぶようにと」

「なんだと?」

 意味不明の伝達に、ルフスは変な顔をしながら封をはがす。文面は簡潔だった。

 『ここに全てを記すことは出来ない。だが内陸部において危険な兆しが見られるとの知らせがあった。それゆえナクテ街道を直進せず、一旦南下し、最低でもオルヌ河を越えてから東進せられたし』

「内陸部で危険……? どういうことだ。そなたはここに来るまでに何かを見たか」

 ルフスは不審げに尋ねた。背後の兵達もざわついているようだ。騒がしい。

 勅使は荒い息を整えながら、やや考える表情で答えた。

「私はクォノスを経由せず、オルヌ街道を走って参りましたので……特段、異常は見受けられませんでしたが」

 皇都から西部へ向かう街道は幾本か敷設されており、一番広く、かつ直線的に敷かれているのがナクテ街道だ。皇都からやや北西のクォノスに向かい、そこから平野を真西へ突っ切ってゆく。勅使が答えた道はそれより旧いもので、ナクテ街道の南方を、オルヌ河に沿うような形で走っている。部分的には直線だが、帝国初期の道であるため曲折が多く道幅も狭い。

 ふむ、とルフスが唸ると、勅使は不意にぶるっと身震いして、ささやくように言い添えた。

「しかし、途中の宿駅で過ごした際……一晩だけ、ぞっとする気配を感じました。闇の獣かと思い飛び起きましたが、それらしいものは見られず……ただ、闇よりも濃い闇と言えば良いか、そのようなものが蠢いているような気配だけがしておりました。あれが皇帝陛下の危惧される『危険』であるなら、私もやはり、避けるべきであると申し上げます」

 心なしか青ざめた勅使を見やり、ルフスは顔をしかめた。眼前にいるのは、経験不足でも神経質そうでもない、いたって普通の一人の男だ。夢まぼろしにおびえるとは思えないが、しかし、その言うことはあまりに漠然としている。

「危険があるなら避けねばならぬが、東部の戦況もあまり猶予はあるまい。斥候を出して様子を探らせてから……なんだ、何をしている!」

 ルフスはそこでようやく背後の異常に気がついて振り返り、怒鳴りつけた。

 軍団は止まっていなかった。ざわつき、揺れ動きながら、じりじりと前へ進み続けている。旗持ちが躍起になって停止の合図を送るが、わずかに動きが鈍るだけで効果がない。

「止まれ! 全軍停止だ、聞こえんのか!!」

 少し離れた場所で、百卒長が怒声を張り上げながら、部下に押されてやむを得ず後ずさっている。所々で同様の声が上がっているが、全体としては止まる気配がない。

「……これは、いったい……」

 愕然としたルフスの耳に、悲愴な叫びが届いた。

「司令官!! ルフス様、助けてください、助け……っっ」

 ぎゃっ、と声がくぐもり、何かが折れる鈍い音が次々に続く。ルフスがそちらに駆けつけようとすると、勅使がその袖を掴んで止めた。

「いけません! 見て下さい、あれを」

「ええい、離せ!」

 ルフスは憤然と腕を振り払ったが、彼が指差す先を見て凍りついた。

 隊列の間に整然と立っていた各部隊の旗が、一本、また一本と倒れていく。ゆっくりと動き続ける兵らに突き倒され、踏みにじられて。

 何が起こっているのかは明白だった。軍団は命令を無視し、勝手に動き出しているのだ。ルフスの目の前を、連隊長がゆっくり通り過ぎていく。

「待てッ! 止まれ、命令が聞こえんのか!?」

 ルフスが怒鳴ると、相手は虚ろな顔で振り向いた。暗いふたつの穴のような目に見つめられ、ルフスはぞっとなって後ずさる。連隊長の口は半開きになっていた。虚空の如きその奥から、唇はほとんど動いていないのに、言葉が漏れる。

「セナト様の、ご命令……です」

 そうして、くるりとまた前を向き、ゆっくり歩き出す。クォノスへ、とのつぶやきを残して。

 その頃には、異状に巻き込まれていない少数の兵が、隊列から逃げ出してばらばらと街道の端に退避し始めていた。ぼやっと隊列の中にいたら流されていつまでも歩き続ける羽目になるか、さもなくば押し倒され踏み潰されてしまう。

「なんなのだ、これは」

 もはや止めようという気力も失せ、ルフスは呆然と、自分を無視してぞろぞろ通り過ぎてゆく軍団を見送るばかりだった。いつの間にか、どうにかしようという意欲さえ失われたことを自覚しないまま、彼はがくりと膝をついていた。

 同じ光景をフィン達も上空から見ていた。ただし、目に映る景色はかなり違う。

「うわっ……何あれ、ひどい」

 ネリスが呻き、フィンも厳しい表情で地上を見渡した。雲霞のような影に覆われた軍勢が街道の上で蠢き、周辺一帯が生気を失って薄暗く翳っている。暗闇に蝕まれていない小さな点が、慌てふためいて黒雲から逃げ出しているのが見えた。

「俺には、混乱した軍団に見えるけど。ネリス、何が起こってるんだ?」

 マックが落ちないように用心しながら、翼の下を覗き込む。わかんない、とネリスは首を振った。

「あたしには真っ黒に見える。小さな黒い虫がびっしり集まってるような、でも全体でひとつのまとまりみたいな……気持ち悪い」

「巻き込まれていない人も少しいるみたいだ。あそこにルフス軍団長がいる。降りてみよう」

 フィンは街道脇にぽつんと佇む人影を見付け、指差した。レーナがふわりとそちらへ首を向け、一旦遠く南側へ離れてから、弧を描きつつ降りて行く。

「ルフス軍団長!」

 フィンの呼びかけで、ルフスはハッと茫然自失から醒めて空を仰いだ。巨大な竜が舞い降りると、その光を忌避するように軍団兵がざわざわと遠ざかる。だがそれ以上の反応はなく、虚ろな顔をした兵士らは相変わらずのろのろと東を指して歩き続けた。

「フィニアス殿か! まさに天の助けだ、ありがたい」

 ルフスは心底ほっとして、立ち上がりざま喜びの声を上げた。フィンはレーナの背から降り立ち、ルフスに駆け寄る。じきにレーナも少女の姿になり、ネリスやマックと一緒に恐る恐る近寄ってきた。

「いったい何があったんです?」

 フィンが問うと、ルフスは面目なさそうに首を振った。

「私にも分からない。突然軍団が命令を無視して歩き出したのだ。皇帝陛下から、クォノスを通らずオルヌ街道まで南下するようにと、勅使を通じて伝えられたところだった」

「皇帝陛下が?」

 不可解な顔をしたフィンに、ルフスは書状を見せた。フィンは一読し、なるほどとうなずく。

「小人族の知らせが届いたんだな」

「良かった」ネリスがほっと息をつく。「皇帝陛下なら、警告を無視したりはしないよね。皇都の人が少しでも避難できたらいいんだけど」

「何の話だ? フィニアス殿、私の手紙をご覧になって、クォノスへ向かわれていたのではないのか?」

 ルフスはつい詰問口調になる。フィンは「手紙?」と訝りながら首を振った。

「手紙は受け取っていません。いつ送られたのです?」

「そんな馬鹿な、もう半月以上も前に伝令を遣ったのに。クォノスの西側で、何か不穏な気配があるからと……」

 言って、ルフスはぎくりと身をこわばらせる。

「まさか、この事態もそれと関係があるのか? フィニアス殿、何をご存じなのだ」

「私が知っていることはごく一部です。あなたも気付かれたように、禍々しい気配が動き始めている。小人族は既にそれを察知して、避難を始めているそうです。山脈にいる闇の竜侯と、大森林の竜侯、それぞれが災厄の拡大を食い止められるように手を打っているので、私は内陸部の住民を少しでも避難させようと、ここまで来たのですが……第四軍団がああなったのは、その“災厄”に、早くも取り込まれてしまったのかもしれません」

 痛ましげに兵らを見やったフィンに、ルフスは「しかし」と唸る。

「なぜだ? 私はこうして無事だし、逃げ出した者も幾許かはいる。我々と同じように、彼らを救うことは出来ないのか?」

「すみません。手遅れです」

 フィンは痛恨の表情で短く答えた。

 見るだけでもう、どうしようもないのは分かった。軍団兵は完全に暗闇に飲み込まれている。生きた人間なら必ず多少は帯びているはずの、精神の色彩が、どんなに竜の目を凝らしてもまったく見えない。

 どうにか一人二人を闇から引きずり出すことが出来たとしても、既に魂は空っぽだろう。あの“飢え”にすべて食い尽くされた、抜け殻だけだ。レーナの光を注いだところで回復する望みはない――器となる魂がないのだから。

「たぶん、生まれつき神々や精霊の加護を授かっている人か、あるいは出発前に神殿で祝福を授けて貰った人だけが、呑まれずに済んだんでしょう。ああなってしまった後から救い出すのは……」

 そこまで言って、彼は小さく身震いした。自分が何を相手取ろうとしていたのか、実感として理解したのだ。とんでもない思い上がりだった。

 ルフスも青ざめてそれを聞いていたが、言葉が途切れるとハッと目をみはった。

「待ってくれ。何かは知らぬがその災厄が現に今、我が軍を蝕んでいるというのなら、クォノスは」

「恐らく既に異変が始まっているでしょう」

 フィンも表情を引き締めてうなずき、マックとネリスを振り返った。

「ぐずぐずしていられない。二人とも、ルフス軍団長と手分けして近隣の村に警告してくれ。ネリス、おまえはネーナ様の加護を頼む。お年寄りや病人、怪我人……逃げ遅れそうな人を優先してくれ」

「分かった。聞く耳持たない鈍牛の類も、ってことね」

「その類は軍団兵に頼んで強制的に追い立てて貰え。マック、俺はクォノスの状況を確認したら、そのまま東へ向かう。村を見つけたら警告に降りるが、とにかくまず皇都へ知らせないと」

 いくらレーナの翼が速くても、一人で四方八方へ飛んでいては効率が悪い。避難に時間を要する皇都にまず知らせ、各地へ警告の使者を送る方が賢いだろう。幸い、今もなお離れた場所を通過中の軍団兵は、牛歩並の遅さだ。その全体を覆う闇や、足元で少しずつ色褪せてゆく草が見えなければ、疲れ切った敗残兵の一群にさえ思えるほど。

 フィンの意図を理解し、マックは「了解」と敬礼した。

「それじゃ俺はネリスと一緒に、この辺りの主だった村に警告してから、南へ逃げるよ。兄貴は多分、皇都で避難を手伝うだろうから……そうだね、オルドスかシロスで落ち合えるかな」

「ああ、それがいい。どっちにしても、俺がお前達を見つけるよ。ルフス殿、警告の使者は念の為、北や西にも派遣して下さい。クォノスより北の地方では山脈へ、海より大森林が近ければ大森林へ、避難するようにと」

「承知した。ナクテも皇都ほどではないが、人口は多い。早く知らせを届けるに越したことはあるまい。だがともかく、先ずはあの軍団の進路にいる人々を、逃がさなければならんのだな」

「ええ。お願いします」

 フィンはルフスに頭を下げると、もう一度マックとネリスを見つめ、

「気をつけろよ。無理はするな」

「そっちもね」

「また南で」

 短い言葉を交わして、レーナと共に空へ舞い上がった。

 不気味な行進を続ける軍団を追い越し、東へ飛ぶ。じきに、冷え冷えする気配が忍び寄ってきた。闇の獣の憎悪の方がまだましだと思えるほどの、永遠に満たされない虚無が。

 空は所々に白雲がぽっかり浮かんでいるだけの晴天なのに、行く手の地上はなぜか薄暗い。もっとも、そう見えるのは竜の目でだけで、フィンが強いて人間の視界に意識を限ると、彼方まですっきりと見渡すことは出来たが。

 しかし、その景色が現実だとは、到底思えなかった。

〈これ以上は、近寄らない方が良さそうだな〉

〈もう少しやってみるわ。うんと高く上がれば大丈夫かも〉

 レーナが言うと同時にぐんと上昇する。雲の上に出ると太陽の光が強烈に照りつけ、地上の薄暗さが遠のいた。だがむろん、暗がりがなくなったわけではない。

 高みに上がると、クォノスの兵営がぽつんと遠くに見て取れた。大渦の縁に浮かぶ小船のような頼りなさで、暗がりに覆われながらもその存在を保っている。

 予想通り、渦の中心は兵営の西側、かつてフィンがヴァリスやグラウスらと共に歩いた古戦場の辺りだった。既に飢えは地表すれすれにまで近付き、真昼間だというのに、巨大な口で周辺のものを吸い込み続けている。マズラで感じたような、夜の闇と眠りに隠れて静かに餌を引き寄せていた程度の動きとは、もはや比ぶべくもない。

 ――来イ……

 正体不明の意思がフィンの精神にも微かに届く。途端にぞわっと肌が粟立ち、反射的に、さらに高く舞い上がっていた。

 流石に空気の薄さが身に堪えるほどとなり、フィンは慌ててレーナの力を引き出して纏う。まだ少し息苦しかったが、高度を下げる気にはなれなかった。これほど離れていても、地表で蠢く暗がりは強い存在感を放っている。

〈あれじゃあ、クォノスにいた人は全滅だな〉

 軍団兵も街の市民も、補給物資の準備をしていたというセナト侯も……

 フィンの脳裏を老貴族の記憶がよぎったその時、暗がりの中にひとつの明瞭な気配が現れた。

「――ッ!?」

 思わずフィンは息を飲み、愕然と目をみはった。

 奈落の口に、巨大な顔が浮かび上がっている。

「馬鹿な」

 知らず、声が震えた。瞬きし、改めて目を凝らすと、そこには何もない――と言うか、何を見ているのか理解出来ない虚空があるばかり。

「セナト侯……?」

 つぶやいて、一瞬のまぼろしを反芻する。確かにあれは、セナト侯の顔だった。虚ろで、猜疑と憎しみと失望に取りつかれた老人の顔。

 一切が飲み込まれ虚空に消えていく“飢え”にあって、彼だけが存在を失わずに残っているかのようだった。

 フィンの動悸が速まった。彼を見つけた“飢え”が無数の手を伸ばす。ゆらり、ゆらり。手はゆっくりと揺れながら、引き寄せ喰らいつこうと迫り来る。

 ――寄越セ……

 その光を、竜の力を、若さと活力を。

 ――喰ワセロ……

(冗談じゃない!!)

 フィンはぞっとなって、レーナにしがみついた。同時にレーナも大きく羽ばたき、猛烈な速さで逃げ出す。ほとんど本能的な恐怖ゆえの逃走だった。

(あんなものが、地上に溢れ出したら)

 本国は滅びる。

 青霧の言葉がこだました。あれは、単なる予測、あるいは他人事についての見解ではなかったのだ。ほかにどう言いようもない、避けられない事態の帰結を凝縮した一語。

〈レーナ、急ごう〉

 一刻も早く、皇都に知らせを。

 フィンはその一念で、もはや地上をちらとも見ず、流星のように空を横切っていった。


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