2-8.先へ進む手立て
夕食後、一家は子供たちから少し離れてかたまり、ひそひそ声で相談した。
「駄目だよ!」ネリスが即座に反対する。「お兄が手紙を持って行かなかったら、どうなるの!? ナナイスの皆が助けを待ってるんだよ!」
「分かってるよ、ネリス」
落ち着け、とフィンは手でなだめる。ネリスは慌てて口を押さえた。その横でオアンドゥスが、うーむと低く唸る。
「しかしなぁ。イグロスがこれ以上行かないと言うのなら、俺たちだけではウィネアまで辿り着けないという意見には、俺も賛成だ。街道に一匹待ち伏せていただけで、あのざまだったんだからな。……俺が戦えたらな」
はぁ、とオアンドゥスはため息をついた。力はあっても武器はなく、たとえ武器があっても扱えない。斧や棍棒を振り回したぐらいでは、畑を荒らすイタチや家畜小屋を狙うキツネは追い払えても、闇の獣には何の効果もないのだ。
「全員が戦えたとしても、たぶん難しいですよ」
フィンは暗い顔でつぶやいた。四人や五人程度の力で追い払えるのなら、ウィネアの軍団が街道にそれぞれ一個小隊を派遣すればあっという間に片がつく。こんな状況に陥ること自体がなかったろう。
「でも、それじゃあ……」
ネリスは語尾を濁して沈黙した。どうしようもないのか、という言葉を飲み込んだのは、フィンにも分かった。どうにかしたいから話し合っているのに、結論は袋小路にばかり入ってしまう。
と、それまで黙っていたファウナが遠慮がちに口を開いた。
「街道を行かなければ、いいんじゃない?」
「え?」
「待ち伏せされているのなら、街道を通らずにウィネアへ向かうのよ」
どうかしら、と小首を傾げて問うたファウナに、「そんな無茶な」とオアンドゥスが呆れて頭を振った。
街道を外れたら、現在地が分からなくなる。方角は星や太陽で分かるにしても、行く手に湿地や沼があれば、あるいは川に橋がなければ、ぐるりと大回りを強いられる。そうこうしているうちに迷ってしまうだろう。
それに、街道を外れたところには人家がほとんどない。つまり、清浄な井戸水や、わずかばかりの食糧を手に入れる望みもない。
だが、オアンドゥスが否定の言葉を重ねる前に、フィンが鋭く制した。
「待って下さい。それなら、いけるかも」
「なんだって? 本気で言ってるのか、フィニアス」
「もちろん、あまり大きく街道から外れることは出来ませんが……少し、考えていることがあるんです」
フィンはそう言い、習慣のように剣を手にして立ち上がった。
「うまくいけば朝には決断できます。駄目でも数日中には」
その言い方に、ネリスがハッと顔を上げた。
「フィン兄、もしかして……あの精霊の助けを借りるんだね? あたしも一緒にお願いする!」
返事も聞かないうちに、ネリスはアウディアの角灯をつかんでいる。フィンはそれを止めた。
「慌てるなよ、ネリス。今までの状況なら、レーナは月夜にしか出てこない。それは必要ないよ。曇っていたら……あるいはあの音が聞こえたら、扉は開けない。おじさんとおばさんは、先に寝て下さい。レーナが現れても現れなくても、見張りは必要ないでしょうから」
「ふむ。俺もその精霊にお目にかかりたいもんだが、どうだろう、会ってくれると思うか?」
「私もご挨拶ぐらいしておきたいわねぇ」
二人からそんな返事があったので、フィンは少し困って目をしばたたいた。
「どうでしょう。レーナはあんまり、人間と話すのが得意じゃないようですから。人が大勢いて出て来なかったら困りますし、今夜はとりあえず休んで下さい。もしレーナが現れたら、皆にも会ってくれるか訊いてみます」
諭されて、オアンドゥスとファウナは残念そうに顔を見合わせたが、食い下がりはしなかった。それじゃ、と腰を上げ、子供たちが用意してくれた藁の寝床へ移動する。フィンとネリスは忍び足で、神殿の通用口に向かった。
扉はしっかりと閂が下ろされ、簡単な掛け金もされている。だが、小さな町の神殿であるから、扉は粗末な木製で、板の継ぎ目に隙間があった。
フィンはそこに目を押し当てて、外の様子を窺う。
「月が出ているようだな」
白っぽい光が狭い視界を満たしている。ネリスが横で扉に耳を押し当てた。
「あの音も聞こえないね。それに……うん、たぶん……いないよ。あいつらは、いないと思う」
フィンは軽い驚きをおぼえて妹を見下ろした。ためらいがちな推測だが、しかし表情には確信が浮かんでいる。きっと彼女には“分かる”のだ、とフィンは察した。分かるのだが、それが確かに事実だと判明する経験を積んでいないから、断言するのを避けただけだろう。
フィンはそれでも慎重に、剣を構えたまま、ゆっくり掛け金を外した。閂を横手に置き、そっと扉を開く。青白い月光が足元にまで流れ込むと、フィンはほっと深い安堵の息をついた。
二人は滑るように外へ出ると、扉を閉め、一歩前に進んだ。
「……きれい」
ネリスが呆然とつぶやく。月光に照らされた町は、今だけは廃墟ではなく、神の庭にも思われた。すぐそこの路地を、女神がしずしずと歩いていそうな――
そんなネリスの想像をなぞるように、ふわりと白い影がどこからともなく現れた。
「レーナ」
フィンが呼びかける。その声音の優しさに、ネリスは眉を上げた。この墓石兄貴が、こんな風に誰かを呼ぶなんて聞いたことがない。おやおや。
何やら複雑なネリスの心中にフィンが気付くことはもちろんなく、彼はそのまま数歩、レーナに近付いた。
「こんばんは」
ようやく挨拶にも慣れたのか、レーナはつっかえずにそう言って、少し恥ずかしそうにぺこりとお辞儀をした。つられてフィンもちょっと頭を下げる。はたで見ていたネリスは背中がむず痒くなったが、おっとそれどころじゃなかった、と我に返って兄に駆け寄った。
「こんばんは、はじめまして」
急いで挨拶したネリスに、レーナはふわりと笑いかけた。途端にネリスはぽうっとなって見とれてしまう。月光の下で見るレーナは、先日よりも数段美しく思われた。
(あ、そうか)
しげしげ眺めて、その理由に気付く。フィンが言ったように、冷静に観察するとレーナの造作は際立って美人というほどではない。ただ、全身が柔らかく光っているのだ。それに、表情の無垢なことと言ったら。
(仔犬みたい)
白いふわふわの仔犬。フィンが喩えた通りだと思い、ネリスは手を伸ばして抱き締めたい衝動に駆られた。と、それを察したかのように、レーナの方が先にネリスを軽く抱擁する。
「あなたは、大地の匂いがする」レーナが夢見心地にささやいた。「ネーナ様の力。温かいわ。それに、とってもきれい」
「よくわかんないけど、レーナの方がきれいだよ?」
流石に少し照れ臭くなって、ネリスはそう答える。あ、と言うようにフィンが口をちょっと開くと同時に、レーナの頬が薔薇色に染まった。ネリスが驚いていると、レーナはあたふたとネリスを離し、隠すようにして両手を頬に当てた。
「あ、あ、そう、ええっと、そうなのよね。あ、ありがとう」
ちらちらとフィンを見ながら、なんとかそう言う。目をぱちくりさせるネリスの横で、フィンが笑いを噛み殺していた。
レーナの顔色が元に戻ると、フィンはこほんと咳払いしてから切り出した。
「君に頼みがあるんだ、レーナ」
「……なぁに?」
レーナはことんと首を傾げたが、その表情にさっと翳りがさしたのを、フィンは見逃さなかった。
――人に利用されることのないように、両親が封印をかけたの――
以前聞かされたあの言葉は、精霊が人間を見限ったという意味ではなかろうか。人が精霊を利用出来たのは、太古の大戦においてのみだった。以後、精霊も竜もほとんど人前には現れなくなり、神々でさえ人に大きな力を与えることはなくなった。
彼らは警戒しているのだ。人間たちがまた、世界をぐらつかせるほどの戦いを始めるのではないかと。
フィンはゆっくり息を吸い、レーナを刺激しないよう慎重に言葉を選んだ。
「俺たちはウィネアに行きたい。だが街道には、闇の獣が待ち伏せしているようなんだ。だからそういう場所では街道を外れて、荒野でも湿地でも、ぐるっと回って行かなきゃならない。地図はあるんだが細かい地形は描かれていないし、回り道した先にまた奴らがいたら、何にもならない」
そこまで説明し、フィンはレーナをじっと見つめた。
「……君は俺たちより目が良くて、奴らがいるかいないか、正しい行き先はどっちか、見えるんじゃないかと思ったんだ。もしそうなら……それを、俺たちに教えてくれないか」
「道案内をして欲しいってこと?」
拍子抜けしたような顔で、レーナが問い返す。フィンはこくりとうなずいた。
「君が、月夜でなくても姿を現せるのなら、人間の手助けをしても構わないのなら、是非とも力を貸して欲しい。この神殿の中にいる子供たちが見えるかい?」
「ええ。大勢いるわね。皆……疲れて、傷ついてる」
「あの子たちを助けたいんだ。ウィネアまで連れて行けたら……」
「そこは安全なの?」
何気ない風にレーナが問う。一番不安なところを突かれて、フィンは返事に詰まった。代わってネリスが答える。
「わかんないけど、あそこは大きな町だし、軍団兵も桁違いに大勢いるからさ。無事なんじゃないかと思うんだ。レーナには見える?」
ふるふるとレーナが首を振る。ネリスは苦笑した。
「そっか。そうだよね。歩いて四日はかかるもん、いくらなんでも見えないよね」
「竜眼の術が使えたら、見えるけれど」
「何それ?」
「ずっと昔の魔法。見たい場所にあらかじめ竜の眼を模した術具を埋めたり据えつけたりしておけば、どこにいてもそこの様子が分かるの。大戦の頃は人間たちがよく使っていたわ」
「…………」
さらりと太古の魔法について述べられ、兄妹はしばし絶句した。目の前の少女が実際に人外のもので、人とは違う時を生きてきたのだと、いきなり実感させられたのだ。
ややあってネリスが遠慮がちに問うた。
「あのさ、レーナって……今、いくつ?」
「え? 私は私だけよ。ひとつだけ」
「?? えっと、そうじゃなくて、歳のこと。年齢。生まれてからどのぐらい時間が経ったかってことなんだけど」
「あ、ごめんなさい。ええと、多分、十六齢ぐらいだと思うけれど」
十六歳、ということだろうか。確かに見た目はその年頃の人間に近いようだが、自信なさげな口ぶりからして、時間感覚や年齢の意味が人間とは異なるのかも知れない。
兄妹は不思議そうに顔を見合わせた。レーナは戸惑い、不安げな顔をする。
「あの……それ、大事なこと?」
「いや、いいんだ。ちょっと気になっただけだよ」
フィンは何か言いたげなネリスを手振りで黙らせ、話を本筋に戻した。
「それより、どうかな。俺たちの頼み事、引き受けてくれるかい?」
「ええ。喜んで」
こんなに快い承諾の返事を聞いたのは、随分久しぶりだ。フィンは思わず感動した。レーナはフィンの心中が分かるのか、自分の方が嬉しそうな顔になった。が、それも束の間、すぐに彼女は申し訳なさそうに眉を下げた。
「あ、でも……あのね、私、あなたたちの前に立って歩くことは、出来ないの」
相変わらずレーナの言い方は、微妙に“人間流”とずれている。この場合、前に立てないのか歩けないのか、はたまたもっと別の意味があるのか、人間である兄妹には判然としなかった。
二人の当惑顔に、レーナはあたふたと説明を続けた。
「ええとね、その、つまり、こんな風に、夜にフィンだけと会うなら――あ、ええと、ネリスも大丈夫だけど、それはいいの。でも私、あまり大勢の人が起きている時には、出て来られないから」
「君の両親がかけたっていう封印のせいで?」
「そう。憎しみとか欲望とか怒りとか、そういう感情に触れると、私は……弱ってしまうの。人に見える姿を取れなくなるの。つまり……そういう気持ちになった時、人は力を求めやすくなるから。そういう人の前からは、隠れていられるように、ってこと」
たどたどしい説明だが、理屈は通る。フィンはネリスと顔を見合わせて、それから少しばかり落胆を感じながら言った。
「でもレーナ、俺たちはそんな……」
「それが全部悪いわけじゃないの。ただ私の封印は、そうなっているから。一人一人の欲や怒りは小さくても、何十人もの子供たちが、おなかを空かせて木の実を取り合ったり、それを連れて行く何人かの大人たちが、疲れて苛々して怒ったり、自分の不甲斐なさを嘆いたりしたら……駄目なの。そうでなくても、昼間は世界に人間たちの“気”が満ちているから」
ごめんなさい、とレーナが寂しそうに謝る。フィンは首を振った。
「君が謝ることはないよ。それじゃあ、今の世界は君には生きづらいだろうな」
「封印されてなければ本来、そのぐらいは平気なんだけど。だから……夜しか出て来られないけれど、それでもいい?」
「もちろん。助かるよ。それで……っと、早速だけど」
フィンはポケットから折り畳んだ羊皮紙を取り出して広げた。
「朝の内に出発するとしたら、どの辺りまでなら安全かな」
地面に置かれた羊皮紙に、月光がたゆたった。レーナが屈んで覗き込むと、淡い暖かな光がそれにまじる。
「今いるのは、ここよね。それなら……」
レーナはすっと首を上げて、周囲を見はるかす。その金の瞳には、人間の視界とはまったく違うものが見えているのだろう。じきに彼女はまた地図に目を戻して、指で街道を辿った。
「子供の足で行けるのは、この辺りまでかしら? 日のある内にここまで行けたら、安全よ。でも、闇の眷属は必ずしも一箇所に留まっていないから。待ち伏せているところを離れることはなくても、別のものが見回っているかもしれない。それは気をつけてね」
街道の少し先を指差してレーナが言う。フィンは地図を眺めて目をしばたいた。
「君の指差してるそこ、何か目印になるものがあるかい?」
「あ、そうだったわ。ごめんなさい。えぇと……そうね、道端に青い花がいっぱい咲いてるわ。それに、うーん……小さな井戸がある。その辺りなら、夜を越すのも安全よ」
「分かった。ありがとう」
フィンが礼を言って地図を畳むと、レーナはにっこりした。その指がすっと上がったことに気付き、慌ててフィンは手振りで止めた。
「待ってくれ、今夜は神殿の中に戻るよ。ネリスもいるし」
そこまで言い、彼は首を傾げているレーナに向かって苦笑した。
「たまには人間らしく、おやすみの挨拶をして、自分で寝床に入りたいんだ」
「そうなの? それじゃあ」
怪訝な顔をしながらも、レーナは兄妹それぞれの額に指先で軽く触れた。すぐに眠気は差してこなかったが、フィンは自分の体が眠りの準備に入っていることをぼんやりと感じた。横でネリスがあくびをする。
「おやすみなさい」
レーナはにこりとして言うと、一瞬だけためらい、それから少しぎこちなく屈んでネリスの頬にキスをした。それから、ちょっと爪先立ちになって、フィンにも……
「うわっ、いや、いいよ俺は」
慌ててフィンが逃げる。ネリスが失笑し、レーナは目をぱちくりさせた。
「おやすみの挨拶って、こうじゃないの?」
「いやまぁその、親が子供にするのとかは、そうだけど。あんまり、その……、つまり、俺はもう子供じゃないから」
フィンはしどろもどろに言い訳する。その脇腹をネリスが肘で小突いた。
「変なこと考えずにお兄も挨拶しとけば? じゃ、あたしもう寝るね。おやすみレーナ」
にやにやしながら言うだけ言って、ネリスはひらひらと手を振って先に中へ戻っていく。フィンは情けない顔でそれを見送り、大した順応力だと感心した。
振り向くと、レーナがまだじっとフィンを見つめている。それこそ仔犬のように。
「…………」
どうしたものか。フィンは口元に手を当てて考え込み、ひとつの妥協点を見出した。
「そうだ、レーナ、君がその……十六なんだったら、俺の方が年上だから」
言いながら身を屈め、レーナの額にほんの一瞬、唇をつける。雲に触れるようなものだろうかと思ったが、意外にも普通の人間と同じような感触だった。レーナは目を丸くして、触れられたところに手をやる。その仕草があどけなくて、フィンはつい微笑んだ。
「おやすみ」
ささやいて、そそくさとその場を離れる。扉をくぐる前にもう一度振り返ると、レーナはまだ額に手を当てたまま、赤い顔で立ち尽くしていたが、フィンの視線に気付いて我に返ると、恥ずかしそうに笑って手を振った。
「おやすみなさい」
嬉しそうな声は、まるで子供のようだ。フィンがうなずきを返すと、レーナの姿は月光に溶けるようにふわりと消えた。