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灰と王国  作者: 風羽洸海
第四部 忘れえぬもの
159/209

5-2. 警告の使者


 同じ頃、噂の皇帝陛下は王宮の客間でイスレヴと相談している最中だった。ネリスのみならず都の女性達を喜ばせる整った顔立ちも、憂いと苦悩が落とす影のため、すっかりやつれて見える。

 その原因は、現時点では皇都のみにあった。まだノルニコム州都は陥落しておらず、その知らせも届いていない。イスレヴと二人で取り組んでいるのは、しつこく皇帝の力を削ごうと画策するフェルシウスへの対策だった。

 エレシア再来によって、グラウス将軍に権限を与えておくことが満場一致で可決されたものの、ヴァリスに対する包囲は緩んでいない。ナクテから第四軍団を動かし、東部の戦に投入する決議も、それしか手がないとは言え、その可決に至る速やかさは不気味であった。

「次はナクテ竜侯が兵を率いて皇都に乗り込むことを、許可させようという算段やも知れぬな」

 ヴァリスが唸ると、イスレヴも険しい面持ちでうなずいた。

 皇都には、皇都守備隊以外の兵力を入れてはならない。軍団は最低でも半日行程の距離を空けて通過するか、それ以上近付く前に解散しなければならない。ディアティウス建国の時代から堅持されてきた法だが、そろそろ例外を作ろうという気配が見られる。

 イスレヴが、この件についてだけでも味方につけられそうな議員を挙げ、それぞれをどのように説得するか、また予想される敵方の主張をどう論破するか、法令集と首っ引きであの手この手を考える。

 その場には、セナトも控えていた。議論に加われるほどの知識経験はないが、二人の求めに応じて、過去の法令から役立ちそうなものを探すぐらいの手伝いは出来るからだ。それが自分の勉強にもなる。

 とは言え、気力体力の有り余る少年にとって、日がな一日室内にこもっているのは少々辛かった。せめて中庭を何周か走ろうか、などと、つい他所事を考えてしまって外を見やる。そして、

「――ん?」

 眉を寄せ、不審げな声を漏らした。

「どうされました、セナト様」

 イスレヴが気付いて問いかける。セナトは膝に広げていた法令集を閉じ、立ち上がって戸口に向かった。

「庭に誰かいるようです。また子供が迷い込んだのかも」

 植え込みが時々カサカサと揺れ動く。王宮の庭園は、外周に面した一部を市民に開放しているのだが、幼くかつ身軽な子供であれば、猫しか通らないような場所を越えて、この中庭にまで入り込むことが出来るのだ。

 むろん、大概はすぐに見付かってつまみ出される。それに、開放されている区域とて門には衛兵がいて、不適当な物を所持していないか、不審な行動をしていないかと目を光らせているので、保安上の問題はない。

 実際セナトが王宮で暮らし始めてから、誰かが中庭まで入り込んだのはわずかに数度、それもすべてが幼い子供の無邪気な冒険だった。今回も同じだろうと踏んで、セナトは特に警戒もせず、揺れる茂みの方へ歩いて行った。

 気付いた衛兵が、念の為にやって来る。だがむしろセナトとしては、探検に夢中の子供が怪我をしていないか、その方が心配なぐらいだった。

「出口が分からなくなったかい、迷子君」

 呼びかけながら膝をつき、茂みの下を覗き込む。次いで彼は、ぎょっと目を丸くした。生い茂った枝葉の下からこちらを見返したのは、明らかに青年の顔だったのだ。

 声を上げかけたセナトに、侵入者は人差し指を立てて「シッ」と鋭く制した。子供の態度ではない。セナトはどうすべきか迷い、その場に竦んだが、

「セナト様? こちら側から追い出しましょうか」

 衛兵が怪訝そうに声をかけたので、慌てて立ち上がった。

「いや、いいよ。怖がっているみたいだから、脅かさないでやって。後は僕が引き受けるから、持ち場に戻っていいよ」

「はあ……」

 衛兵は目をぱちくりさせたが、セナトに手振りで下がれと命じられ、腑に落ちない風情のまま建物の中へ戻って行く。セナトはその後姿が完全に隠れるまで待ち、背後を振り返って人目を確かめてから、もう一度しゃがんでささやいた。

「あなたは誰です? どうしてここに?」

 大人に対するように話しかけたセナトに、小さな侵入者はにこりとした。

「噂通り聡明な方だね、セナト様。伝言を預かってきた。ファーネインからだと言えば、聞いてくれるって話だったけど」

「――!?」

 セナトは危うく頓狂な声を上げかけ、辛うじて堪えた。驚いたところを誰かに見られなかったかと、慌ててまた周囲を見回す。手間取っていることに不審を抱いたイスレヴが回廊に出て来ていたが、どうやらセナトの姿を見つけられずにいるようだ。目蔭をさして、見当違いの植え込みの方を眺めている。

 セナトはほっと息をついて、より体を低くした。

「ここで聞いた方がいいですか。それとも、どこかに……」

「短い伝言だから、ここで済ませるよ。いいかい、よく聞いて。『危険が迫っている、出来るだけ海の近くへ逃げろ』、それだけだ。大森林のウティア様が、内陸部で異変が生じているのを察知されたらしい。遠からずそれが溢れ出し、手当たり次第に命あるもの全てを飲み込んで、拡がっていくだろうとの話だ」

「何ですって? そんなこと、いきなり言われても」

「信じられないだろうけど、ウティア様がそう仰るのなら、必ずそれは現実になる。だから、難しいだろうけど、出来るだけ大勢を逃がして欲しいと……ファーネインって子が言ったらしい。俺達エイファネス――あんた達の言う小人族は、もうどんどん移動を始めているよ」

「だけど……何が出てくるって言うんです? それも分からないのに、逃げろなんて誰が聞いてくれるか」

「何が出てくるのかなんて、俺にも分からないよ。でも、異変が起こるのがディアティウス本国中心部、つまり古の昔に闇の眷属が大地に封じられた場所だ、って聞いたら、それだけで充分じゃないか?」

「――!」

「あんたは次の皇帝なんだろ? それなら、都の人間をどこかへ連れ出す手も、何か打てるはずだ。でっかい催し物をすればいい。行けと言わなくても誰もが連れ立って出て行くようなやつを、どこか海辺の町で開けばいいんだよ。間に合うかどうかは分からないけどな」

 小人族の青年は早口に言うと、ちらっと外の様子を窺う仕草をした。セナトもそれで気付き、用心深く植え込みの上に頭を出して、三度、人目がないのを確かめる。

 セナトが顔を下ろした時には、もう青年はごそごそと腹這いで撤退し始めていた。

「あ、待って」

 慌ててセナトは呼び止めた。まだ何か、と青年が目顔で問う。セナトは自分でも何を訊きたいのか分からないまま、戸惑いがちに口を開いた。

「あの……、ファーネインは、元気でしたか」

 問うてから、思わず赤面する。馬鹿なことを訊いた。この青年は、ファーネインのことは伝聞形でしか話さなかったではないか。都の小人族が、大森林の彼女を直接知っているはずがない。

 青年はちょっと目をしばたいてから、悪気のない苦笑を漏らした。

「さあ、俺は会ってないからな。でも、訊かれたら、すっかり元気だと伝えるように頼まれた」

「…………」

 安堵にセナトの表情が緩む。青年は悪戯っぽい笑みを残して、今度こそ、驚くほどの素早さで姿を消した。

 小さな物音が遠ざかるのを茫然と聞きながら、セナトはその場に座って空を仰いでいた。

(良かった)

 傷ついてすっかり閉じこもっていたあの少女が、元気になった。ほんの短い間そばにいただけのセナトのことを忘れず、言伝を託してくれた。

(――本当に、良かった……)

 ほう、と、深い吐息。それからようやく我に返り、いや良くない、と彼は頭を振った。

 意味深長で謎めいた警告を思い返しながら、立ち上がって服の汚れを払う。内陸部から逃げろ、というからには、その“危険”が何であれ、海や川に出て来られないと見て良いだろうか。それなら、オルヌ河を船で下っていくような競技を催すか? しかしそれだけの資金が用意出来るだろうか。口実は何にする?

 ヴァリスとイスレヴが待つ部屋へと戻りながら、セナトは忙しく思案を巡らせていた。庭を挟んだ向こうの回廊で、ミオンがじっと虚ろな視線を注いでいることに、気付かないまま。

 部屋に戻ると、ヴァリスが何気ない口調で問うた。

「やはり子供だったか?」

「いえ、それが……」

 セナトは首を振り、どう説明したものかと悩みながら、椅子に腰を下ろした。ヴァリスとイスレヴは不審な顔になり、議会対策を一旦置いて向き直る。セナトは言葉を選びながら、先ほどの伝言を二人にも聞かせたが、予想通り、二人の反応は芳しくなかった。

「小人族に、伝説の竜侯ウティア。おまけに、古に封じられた闇の眷属か。いよいよ御伽噺じみてきたな」

 皮肉な苦笑を浮かべたヴァリスに、セナトは少しばかりむっとして応じた。

「大森林のウティア様には直にお会いし、言葉を交わしました。子供に聞かせる、遠い昔の御伽噺ではありません。小人族は初めて見ましたが……警告の内容はともかく、私が失踪中に大森林に隠れていたこと、ウティア様と面識があること、それにファーネインのことまで知っているからには、嘘偽りや計略などではあり得ません」

「であろうな」ヴァリスは淡白にうなずいた。「さればこそ、扱いに困るというものだ。対処はせねばなるまい。だが皇都の住民全員を、一時的にであっても立ち退かせるなど、現実問題として不可能だ。市民だけで十万を超えるのだぞ」

「それは……ですが、一部だけでも先に移動させられたら、危険がはっきりした時に避難させる人数がそれだけ少なくて済みます。もしウティア様の予想が外れても、催し事を隠れ蓑にすれば、混乱や不満は抑えられるのではないでしょうか」

 実際的な難点を目の前に突き付けられて怯みながらも、セナトは挫けず真摯に考え、意見を述べる。イスレヴはその様子を興味深げに観察していたが、ややあっておもむろに口を開いた。

「陛下。東部反乱に対する戦勝祈念として、奉納試合を催すという手がありますぞ。いささか遅まきではありますが、祭りとなれば市民は口実が何であれ喜びましょう」

「ふむ。河口のオルドスを終着点とした櫂船競争を催し、到着後に現地の神殿に奉納と参拝を行うとすれば、七日から十日は市民を引っ張り出せるか」

 ヴァリスもすぐにその案を検討し、受け容れる。オルドスには古の名君が建てた神殿がいくつもある。由来は様々だが、こじつければ戦勝祈念にふさわしい神殿を見付けられるだろう。

「主催は私個人になるな。農園をひとつ売るか……」

 やれやれ、とヴァリスは首を振った。他人の都合に合わせてあれこれ協議していられない以上、税金を使ったり、誰かと共催にしたりは出来ない。さしもの建国以来の名門も、昨今は台所事情が心もとないのだが、危急の際に使ってこその財産だ。ヴァリスに迷いはない。

「市民はそれで動かしにかかるとして、第四軍団の進路も変えさせねばならんな。あの御仁が聞き入れるかどうか分からぬが、急使を派遣しよう。軍団が動き出した後ならば、セナト侯も口出しは出来まい」

「さようですな。ルフス殿であれば警告を無視することはありますまい」

 イスレヴも同意した。第四軍団は実質的にナクテ竜侯セナトの軍だが、いざ行動を開始すれば、指揮を取るのは軍団長ルフスだ。具体的な指示はすべて、現場の司令官が下す権限を持つ。いちいち“上司”の意向を伺っていては、迅速な行動が取れない。

「最短距離ではなく迂回路を取らせるとなれば、当初の見込みより日数がかかる。グラウスにも知らせをやらねばな」

 やれ忙しいことだ、とばかりにヴァリスは眉間をこする。セナトは事態がどんどん大きくなっていくのを、いささか緊張した面持ちでじっと見ていた。

 彼のそんな様子に気付き、ヴァリスはふと表情を和らげた。

「そなたが焦ることはない。今はそなたが決められる事はあまりないが、仕事が出来次第、働いてもらう。そなたはひとまず部屋に戻るが良い。また新たな情報を持った使いが忍び込むやも知れぬから」

「……はい」

 やや逡巡したものの、セナトは大人しく承知して席を立った。ついでに書記や伝令を呼んでくれと頼まれたのには、少々情けなくなったが、現実問題として今の自分に出来るのは使い走りぐらいだ。皇帝とイスレヴの仕事ぶりを見学したかったが、未練を振り切って部屋を出た。


 頼まれた用事を済ませた後、彼は一人で自分の部屋に戻った。ネラが掃除を済ませてくれた後らしく、室内は片付いている。新しい果物の鉢と、水差しのそばに、伝言用の小さな蝋板が置いてあった。買い物に出ます、とある。

「ネラ、いないのか」

 ファーネインのことを知らせようと思ったのに。セナトは肩を落とし、何をするともなくベッドに腰を下ろした。

 王宮のこの辺りは人の出入りが少なく、静かだ。もし小人族が、何かセナトに知らせを持ってくるなら、召使や衛兵に見付かる心配は少ないだろうが……

(あれ以上の話は、聞けそうにないな)

 彼らが既に避難を始めているというのなら、人間の為に留まって情報を流してくれることは期待しない方が良い。皇都に小人族がいたことには驚かされたが、つまりはそれだけ、彼らが巧みに存在を隠してきたということだ。それを今更、協力してくれとは。

(僕に出来る事はないんだろうか。奉納試合が決まったら、僕の名前でも一艘出すことになるだろうけど、漕ぎ手はどうしよう。市民がオルドスまで一緒に来て、試合の結果を見物する気になるように仕向けるには……)

 格安の乗合馬車を臨時に出さねばなるまい。それに、オルヌ河と並行する街道に並ぶ宿場町にも知らせをやり、大勢の観光客に対処できるよう準備させなければ。

(そんな時間があるんだろうか)

 伝言用の蝋板に、思いつく課題と解決案を走り書きしていく。その途中で、鉄筆がふと止まった。

(オルジンなら、何か知っているだろうか……いや、あいつは信用出来ない)

 魔術師の姿を思い浮かべ、即座にそれを打ち消す。ここのところあの老人は、しばしば一人で皇都の外に出ているようだ。いちいち所在を把握してはいないが、セナトがふと思い出して様子を見に行くと部屋が空であったり、あるいは人づてに、怪しい老人が城壁の外を歩いていたと聞かされたり、そういうことが増えた。

(何かを拾っているのか、埋めているのか――そんな風に見えた、と言っていたっけ)

 皇都の南側に並ぶ墓地の掃除夫が、困惑した顔で報告に来たのを思い出す。別段、邪魔をするでも散らかすでもないので無視していたのだが、後で誰かから、それが王宮に居候している魔術師だと聞かされて不安になったらしい。

 魔術師どころか、少し頭がおかしいだけの年寄りだ、心配ない。そう言いくるめて掃除夫を帰らせた後で、むろんセナトはオルジンを詰問したのだが、例によってはぐらかされただけだった。

 絶対に、市民に害なす事はしていないと、それだけは神々にかけて誓わせたが、不愉快には変わりなかった。

 セナトが一人、嫌なものを払うように首を振った時、遠慮がちな声が「セナト様」と呼びかけた。

 見ると、戸口にミオンが立っていた。何かの用事で来たという様子でもなく、落ち着かなげに身じろぎしている。セナトは眉を寄せた。

 以前、彼の様子がおかしかった時、ネラに頼んでミオンの行動を探らせた。だが不審な人物と接触することもなく、金銭授受などの現場を押さえることも出来なかったのだ。

 ただ、王宮の召使が親しくするのはどうかと思う相手と、街で話しているところを見かけはした。とは言え、それはごく普通の相手――ネラのささやかな感覚が警告する類の者ではない、まともな人間に過ぎなかった。好ましからざる者ではあれ、召使の個人的な交友関係に首を突っ込んでまで詮索するほどではない。

 以後も至って普通に生活しているだけなので、セナトもネラも、思い過ごしかと最近は警戒を緩めていたのだが。

「何か言いたいことがあるのなら、お入りよ」

 セナトが許可すると、ミオンはおずおずと部屋に入り、机から数歩のところで止まった。

「あの……皇都を離れるというのは、本当ですか」

「聞いていたのか?」

 セナトが咎めると、ミオンはさっと頭を下げた。

「申し訳ございません、立ち聞きするつもりではありませんでした。が、お話の端々が耳に入り……つい、何事かと。近々、都で何か異変が起こるのでしょうか」

「そういうわけじゃないよ」セナトは安心させようと優しい声を取り繕った。「ただちょっと、用心すべきかも知れない情報があってね。予防措置として、ひとまず一部の人だけでも皇都から引き離しておきたいんだ。何事もないかもしれないし、何かあっても、対処しやすいように、ね。心配は要らないよ」

 するとミオンは不安げに目を上げ、顔色を窺うように問うた。

「その際は、私共もお連れ頂けるのでしょうか?」

「当然じゃないか! 置き去りになんかしないよ」

 相手の想像していることを察し、セナトは思わず呆れ声で答えた。

 何か危険が迫っていて、そのことを知った皇帝が高貴の方々だけを引き連れて都を逃げ出し、自分たち使用人は何も知らされぬまま見捨てられるのではないか――そんな心配をしているのだ。

「誰一人、見捨てるつもりなんかない。ただ、一度に都の住民全員を動かすのは無理だろう? 第一、そこまでやって何も起こらなかったら、商売が出来ずに損害を被った人達に莫大な補償をしなきゃならない。だから最初に、皇都を離れても支障のない人達から自発的に出て貰いたいんだ。それだけだよ」

 実際にはもちろん、避難するとなったら評議員や貴族階級が優先で、次に市民、最後に奴隷達となるだろう。だがそれでもセナトは、下層階級だからとて無視するつもりはなかった。フェドラス帝暗殺直後、幼い自分を匿ってくれた貧しい人々を忘れてはいない。

 セナトの真摯なまなざしに、ミオンもやっと安心したらしく、ほっと息をついた。いつもの如才ない表情に戻り、礼をする。

「ありがとうございます。出すぎたことを申しましたのに、そのようなお言葉をお聞かせ頂けて、安心致しました。まことに恐れ入ります」

「不安になるのも無理はないよ。だから……」

 下手な噂を立てないよう、このことは内密に。そうセナトが言いかけたのを制するように、ミオンはパッと顔を上げて朗らかに笑った。

「では、皆にもそのように伝えてよろしいでしょうか」

「……!?」

 何を言い出すのだ。セナトはぎょっとなって怯んだ。言葉の内容だけではない、ミオンの顔に張りついた異様なにこやかさに、背筋が寒くなる。

「皇帝陛下は都から逃げ出されるが、順次全員が出て行くように仕向けられるおつもりだと、フェルシウス様にお伝えしても構いませんね」

 あくまで笑みを浮かべたまま、ミオンはぺらぺら喋り続ける。だが目は笑っていない。自分の口が信じられないとばかりに大きく見開かれ、混乱と焦燥に忙しなく動き回っている。

 セナトは我知らず腰を浮かせ、じりじりと後ずさっていた。ミオンは尚も続ける。笑顔のまま、じっとりと脂汗をかいて。

「お優しいセナト様。私共の如き使用人にまでお気遣いを下さる。他家から金を貰って皆様の言動を逐一知らせているというのに、そのような者までお助け下さるとは」

「ミオン! しっかりしろ、目を覚ませ!」

「ああ、本当にお優しい。救う価値などない、救うべきでない者まで救おうとなさる。そんなことでは、誰一人として救うことが出来ませんよ」

 ゆっくりとミオンの手が、机の上に伸びる。何をする気かとセナトは目で追い、ぎくりとした。最前、蝋板に走り書きしていた鉄筆――ミオンの手がそれを握り締める。

 セナトは恐怖に駆られながらも、身を守る物、あるいは逃げ道を探して素早く目を走らせた。だがミオンは、セナトに向かっては来なかった。

「必要ないではありませんか。このような、金で主を簡単に裏切り、風向き次第でどちらにもつくような者ハ、そばニ置イてモ害ニナルダケ」

 声が割れ、虚ろに響く。どこか別のところから発せられているかのように。

 セナトは目をみはり、どうすることも出来ずに立ち尽くす。もはやそこにいるのは、見知った召使ではなかった。口元には他人の笑みを浮かべ、体は棒のように硬直している。鉄筆を握った手がじりじりと上がってくるのを、涙に濡れた目だけが恐怖におののきながら凝視していた。

「やめろ……やめるんだ、駄目だ」

 セナトは首を振り、近寄ろうと半歩踏み出した。途端にミオンの手が、ぐんと振り上げられる。反射的にセナトは飛びかかり、渾身の力でその腕を押さえ込んだ。

「やめろ! くっ……この」

「ナゼ止メル」

 ミオンの口から、人の声とは思われぬ声がこぼれる。その背後で、微かに本来のミオンの声が「助けて」とささやいた。セナトはきっと顔を上げ、ミオンの瞳を真っ向から睨みつけた。恐怖と混乱に揺れ動く瞳の、さらに奥に潜むものを射抜くように。

「命に身分や立場は関係ない!」

 セナトは叩きつけるように怒鳴った。

「ましてや好き嫌いで生死を決めるなど論外です! ミオンを離して下さい、お祖父様!!」

 瞬間、ビクンとミオンの体がわなないた。ちぐはぐだった表情が、束の間、ある一人の驚きを浮かべて――消えた。同時にミオンの体から一気にすべての力が抜け、腕を押さえつけていたセナトもろとも、ドシャッと床にくずおれる。

「っ痛ぅ!」

 セナトは呻いたが、咄嗟にミオンから鉄筆を取り上げることは忘れなかった。

 緊張が解けると、どっと疲労が押し寄せた。立ち上がれずに座り込んだまま、喘ぎがおさまるのを待つ。傍らではミオンが倒れた姿勢のまま、いつまでも小さくすすり泣いていた。


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