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灰と王国  作者: 風羽洸海
第四部 忘れえぬもの
158/209

5-1. 振り上げた拳の


   五章


 時間を少し遡る。グラウスがエレシアの手に落ちる六日ほど前、フィンはノルニコムの情勢を何も知らぬまま、夏空の下を山脈へ向かっていた。

 北部には珍しく、湿気の少ないからりと晴れた日だった。陽射しは強いが、天竜の力で守られているから気にならない。フィンはレーナの背で風を受けながら、しかし、爽快とは程遠い風情だった。しょっちゅう口内や顎を気にして、落ち着きなく変な顔をしている。見かねたネリスが、胡散臭げな声をかけた。

「どうしたの、フィン兄。歯に何か挟まってるみたいな顔してるけど」

「いや、なんでもない」

 傍目にも分かるほど様子がおかしいとまでは、自覚がなかった。フィンは慌てて平静を装い、素知らぬふりで前を向いた。

 痛みはとうにない。だが、噛み合わせが少し、ずれたままのような気がする。

(こういう『負傷』は、治りが遅いのか)

 まさかこのままという事はなかろうな、と、彼は少しだけ憂鬱になった。

 このクソ馬鹿野郎!――怒鳴り声が脳裏でこだまする。顎の異状は、ヴァルトに殴られたがゆえだったのだ。


 出発までに、支援物資の運搬について確認しておきたいことがある、と言われて、フィンは何の疑いもなくのこのこヴァルトについて行った。確かにそれも、嘘ではなかったのだ。荷車の倉庫で車軸の強度と街道の状態について質問され、フィンはそれに答えた。

 だがヴァルトが話したかったのは、その後のことだったのだ。

「フィニアス。これでまたしばらくおまえの面を見なくて済むわけだが、東部の情勢如何によっちゃ、その“しばらく”が、ちょいと長くなるかも知れねえ。だからひとつ、言っときたいことがある」

「……? あんたがそんな不安を口にするなんて、珍しいな。何かあったのか」

「何もねえよ。今は、な」

 ヴァルトは鼻を鳴らし、それから荷車にもたれて、他人のような目でフィンをじろじろと検分した。その冷ややかさに、フィンは嫌な予感がしてたじろぐ。

「ナナイスも随分立派になったな」

 フィンの警戒など意に介さず、ヴァルトは独り言のように、どこか投げやりな口調で唐突なことを言った。ウィネアで出会ったばかりの頃に戻ったかのようだった。

「おまえが竜侯様になって、よそに支援まで出来るようになった。これでまた、おまえに感謝して平伏する連中が増えるわけだ」

「ヴァルト、俺はそんな目的を持っているわけじゃ……」

「前に言ったよな」

 フィンの反論を遮り、ヴァルトはぎろりと彼を睨んだ。フィンが言葉を飲み込むと、ヴァルトは剣呑な表情でささやいた。

「俺の女房とガキは、クソ野郎どもに殺された、って」

「……」

 ああとも答えられず、フィンはただ無言でうなずく。ヴァルトはふっと小さく息をついた。

「俺のガキが生きてりゃ、おまえより二つ三つ年上だ。もし生きてりゃ、今、おまえのいる場所に立っていたかも知れねえ」

「…………」

 何をどう言えというのか。フィンは困惑し、無言で立ち尽くした。

 世界は不公平だ。同じ年の同じ日、同じ場所に生まれてさえ、片方が生き残り、片方が非業の死を遂げるなど、ざらにある話。死んだ子の歳を数えても、何にもならない。ただ、親の心にある何がしかを除いては。

 フィンが黙っていると、ヴァルトはじろりと、彼の目を覗き込むような視線をくれた。そして、何を納得したのか「よし」とつぶやくなり拳を固めて一言。

「歯ァ食いしばれ」

「!? 待て、何だその脈絡のなさは! なんで俺があんたに殴られなきゃならない!」

「うるせえ! 黙って殴られろ!! ずっとてめえには一発食らわせてやりたかったんだ。これ以上、機会を逃してたまるか!」

 防御するフィンに、ヴァルトが掴みかかる。フィンはどうにかそれを逃れ、間合いを取った。そして。

「あんたの妻子を殺したのは俺じゃない。たとえ親でも、俺には関係ない」

 厳しい声で、そう言った。

 ヴァルトがぎくりと竦み、振り上げた拳をゆるゆると下ろす。

「……いつから……知ってた」

 力の抜けた声で彼がつぶやくと、フィンはいつもの平静な表情に戻って肩を竦めた。

「やっぱりそうか」

「てっ、てめッ……!! 鎌かけやがったな!」

 よくも、とヴァルトが喚く。フィンは手振りでそれをなだめ、首を振った。

「確証がなかっただけで、予想はついていたさ。ナナイスに戻ってから、昔のことを思い出す機会も増えて……自分なりに色々考えてみたんだ。それに昔から、自分が罪人か奴隷の子だってことは、知っていた」

「…………」

 今度はヴァルトが絶句する番だった。フィンは少しだけ片眉を上げて、なんでもない事だ、とばかりの表情を見せた。

「里子を探しに来て、俺を気に入ってくれたように見えた夫婦が、帰り際には全然違う目で俺を見た。この子がねぇ、とかなんとか、そんなことをつぶやいた人もいたな。子供でも察しがつくさ」

「おまえ……」

「だから、オアンドゥスさんには本当に感謝していたんだが……」

 ふと彼は懐かしむ口調になって目を伏せた。次に顔を上げた時には、感傷の気配は微塵も残っていなかった。

「あんたにも、嫌な思いをさせたな」

「――ッ、この、」

 クソ馬鹿野郎!!

 罵声はろくに聞こえなかった。その瞬間には顎を殴られて、意識が飛んでいたからだ。我に返った時には、地べたに倒れていた。よろめきつつ身を起こし、せめて予告しろ、と抗議しようとする。だが声を出せるようになるまでに、矢継ぎ早の罵声を雨あられと浴びせられるはめになった。

「大間抜けの唐変木、ど阿呆が!! 寝惚けるな、なんでてめえが謝るんだ、筋が通らねえだろうが! 怒れ!! てめえは怒る立場だろうが、俺にも、てめえの親にも、怒って罵って、殴りかかる権利があるだろうが!!」

 フィンはくらくらする頭を押さえ、なんとか立ち上がると、

「そうか」

 不吉に唸って拳を固めた。途端にヴァルトはぴたっと口をつぐみ、半歩下がって身構える。そら見ろ、大人しく殴られるつもりなんかないくせに、とフィンは呆れてため息をついた。構えた拳を下ろし、痛む顎に手を当てる。早くも治癒が始まっているのが分かったが、どうにも不快感は拭えない。

「別にあんたに謝っちゃいない。事実を確認しただけだ。あんたに不愉快な思いをさせたのは、俺の責任じゃないし、俺が詫びる筋でもない」

「可愛くねえな……」

「今更何を」

 フィンは素っ気なくいなし、一息ついてから言った。

「俺が知っているってことは、黙っておいてくれ。皆が知らせずにおこうと努力しているのに、それを無駄にしたくない」

「もっぺん殴ってやろうか」

「遠慮する。おじさんやネリスならまだしも、あんたにこれ以上殴られて堪るか」

「……あのなぁ……」

 ヴァルトはうんざりと何事か言いかけたが、結局そのまま、ふうっと深いため息をついたのだった。


(いずれは話すことになるだろうな)

 俺はもう知っているから、そのことに囚われてはいないから、と。何かの折に告げねばなるまい。フィンは行く手に霞む山脈を見ながら、両親や、院長の姿を思い浮かべていた。

 推測が確信に変わった今でも、フィンの心は静かだった。

 おまえは特別なんだ、と力を込めて説いたオアンドゥスの声。謂れなき敵意を向けながらも、おまえの親父はオアンドゥスだろう、と言ったヴァルトの横顔。様々な出来事を通じて何ひとつ変わらなかったファウナの深い優しさ。

 そうした記憶が、フィンを守ってくれた。しかもそれだけではなく、いまや彼にはレーナがいる。かつて抱いた、自分はどこかおかしいのだろうか、という不安は、もはや何の力も持たなかった。

(俺は恵まれている)

 時折しみじみそう思う。もしも孤児院の院長が、罪人の子だというだけでフィンに辛く当たっていたら。いつまでも引き取り手が現れなかったら。ヴァルトが憎しみに駆られて一切を暴露し、周囲の者にも悪意を植えつけていたら。

 ――もしも、レーナに出会っていなかったら。

 色々な可能性が考えられる中、現状は最善と言っても良いだろう。だからこそ彼は、今の己に出来る限りのことをせねばと感じていた。本国で何が起こっていようと、あの暗く飢えた奈落が何であろうと。

 そんなことを考えていると、不意にネリスが「ねえ」と声をかけてきた。顔だけ振り向いたフィンに、ネリスは小首を傾げて言った。

「何が起こっているにしても、皇都に知らせる必要はあるよね?」

「ああ、そうだな」

「ってことは、また皇帝陛下に会えるかな?」

 本人は我慢しているようだが、瞳は正直に、期待に輝いている。フィンは失笑してしまった。

「機会はあるだろうな。あんまりはしゃぐなよ、マックがひがむぞ」

「別にひがみやしないけど」マックが諦め口調で応じた。「俺じゃどう頑張っても、皇帝陛下に太刀打ちはできないからね。それに、ネリスにうっとりされるからって、皇帝陛下と入れ替わりたいとは思わないよ」

「あたしだって、マックがあんな顔してたら嫌よ」

 ずばりと遠慮なくネリスが言ったもので、思わず男二人は目を丸くする。

「あんな顔、って」

 好みなんじゃないのか、とフィンは呆れながら訝る。するとネリスは口を尖らせた。

「遠くから眺めるから良いのよ。隣にいられちゃ、あたしの立場がないじゃない」

「……おまえそれは、マックに対して二重に失礼だぞ」

 流石にフィンは少し厳しい声音でたしなめた。マックが身長を気にしているのは知っているし、そこへもって引き立て役扱いされたのでは自尊心が傷つくだろう。

 だが当のマックは、いいんだ、と笑っただけだった。フィンは二人の間に無言のやりとりがあったのに気付き、少しばかり当惑しながら、肩を竦めて前を向いた。

 妹と弟分の両方に対して、今までなかった遠慮の一線を引く日が来ようとは。

 何がなし複雑な気分になり、フィンは黙って、レーナの背中をぽんぽんと軽く叩いたのだった。


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