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灰と王国  作者: 風羽洸海
第四部 忘れえぬもの
157/209

4-8. 東部戦役終結


「とうに復讐の炎に焼かれて一握りの灰になっているかと思ったが。いざとなったら、やはり女の弱さが水を差すか。なんなら俺が代わりにやってやるぞ」

「わたくしの楽しみを奪わないで下さるかしら」

 エレシアは微笑みつつ、素っ気ない声で応じた。セニオンはおどけて肩を竦めると、グラウスを見下ろして愉快げに告げた。

「兵営に向かった連中は、一足先に旅立ったぞ」

「――!!」

 グラウスとレヴァヌスが同時に息を呑む。抗議しようとしてか、レヴァヌスが半歩踏み出した。が、その目の前に、セニオンは拳を突き出して止まらせる。指を開くと、バラバラと指輪が落ちた。帝国市民の多くが身分証を兼ねて携帯している、印章指輪だ。ひとつ、ふたつ、……二十個ちょうど。

 凝然とそれを見つめるグラウスの頭上から、セニオンの声が降ってくる。

「誰一人、投降しなかったからな。その潔さは褒めてやらんでもない。俺に言わせれば、馬鹿げた堅物どもだが」

 人を見下したいつもの口調に、わずかながら本物の敬意がまじる。だがグラウスは聞いていなかった。ゆっくりと手を伸ばし、二十個の中から、やや大ぶりのひとつを掴み取る。嘘だと疑うように、彼は長々とそれを見つめていた。いくら待っても指輪が消えてなくなるでなく、他人のものに変わるでもないのを確かめると、彼はぎゅっとそれを握りしめた。指が白くなるほど、強く。

 声もなく指輪を握り締めて突っ伏すグラウスを、エレシアもまた、言葉を失って見つめていた。

〈シャス。なぜ炎が静かなの? これがわたくしの望みだった筈。帝国の皇帝を、皇帝に連なる者を、打ち倒し平伏せしめるのが、望みだった。喜べない筈がないのに〉

 返事はない。エレシアは必死で、自身の内にある炎の力に手を伸ばした。いまやそれは輝きが失せ、小さく弱く、灰を被った燠のようになっている。

〈シャス! 答えなさい、この男が正しいと言うの!? わたくしはおまえの炎の輝きに目を眩まされ、怒りのほかに何も見えなくなっていたと? それが、絆の代償だと言うの!?〉

〈そうではない。分かっているはずだ、我が伴侶よ〉

 ゲンシャスの声が微かに届く。エレシアは唇を噛んだ。

 いかな竜の力と言えども、炎とは本質的に何かを消費するものだ。燃え草となるものがなくなってしまえば、自ら湧き出ることはない。

 かつてはエレシア自身の内から、とめどなく、いくらでも怒りが湧いてきた。皇帝への復讐を思えば、夫と子供達のことを思えば、いつでも炎を燃え上がらせることが出来た。そしてその炎が、エレシアを前へ前へと駆り立ててきたのだ。

 だがもう、怒りは湧いてこない。

 いつか皇帝をひざまずかせてやると、かつて夫がされたと同様に、命乞いさせた上でじわじわ殺してやると、そればかり願っていた筈なのに。目の前でうちひしがれている男を、この上さらに痛めつける気にはなれなかった。その首を皇帝に送りつけて、痛撃を与えてやることを考えても、まったく気分が高揚しない。

(これが本当に、わたくしの望みだったのかしら)

 だがむろん、簡単に許してやる気にもなれない。

 エレシアが沈黙していると、グラウスがようやくのこと、顔を上げた。

「……エレシア殿。俺の首だけでなく、アレクトの首も取ったのなら、きっと満足して貰える筈だ。アレクトは俺の甥だった。年の離れた姉の子でな。兄弟同然に育った。……これで、ティオル家の男は絶える」

 あとは妹がひとり残されるだけだ、と彼はつぶやいた。そこに込められた意味は明らかだ。

 エレシアの頭の中で、割れた鐘がガンガン鳴った。

(わたくしは、同じことを――)

 かつてゲナス帝がティウス家に対して行ったのと、同じ仕打ちをした。憎み、蔑み、末代まで呪ってやると誓った男と、同じ所業を。

 心に歓喜の昏い炎が燃え盛り、一方で、真冬の湖に落ちたがごとく冷えてゆく。

 思わずエレシアは立ち上がっていた。立って何をしようというでもなく、ただその場に竦む。

 その様を、グラウスはじっと見つめていた。それから静かに、ささやくように言った。

「ヴァリスの首は諦めると、約束して貰えるだろうか。エレシア殿。ノルニコムの民は貴殿の帰りを待ち侘びていた。だがそれは、復讐の戦を再開する為ではない。力強く、輝きに満ちた主を戴いて、この地をより良くしてゆくためだ」

 そこまで言い、彼はふと手の中の指輪に目を落として、痛々しい苦笑を浮かべた。

「もっとも、刃の戦を諦めてくれたとて、ノルニコムが独立するとなれば、本国では別の、もっと厄介な戦が起こるだろう。ヴァリスには気の毒だが、どのみち俺では、その手の戦では大して力になれぬからな」

 一足先に、休ませて貰うとしよう。

 そうつぶやくと、彼は返答を求めてエレシアを見上げた。二人の視線の間に、他者の意志が割り込む余地はなかった。

「……良いでしょう」

 沈黙の末に、エレシアはかすれ声で答えた。喉元でつかえ、舌でひっかかった言葉は、しかし、出してしまうと一気に楽になった。怒りと憎しみと、ここで止められはしないという意地、それらがすべて解きほぐされて崩れ落ちる。

「現皇帝ヴァリスに対して求めてきた贖いは、そなたの首で良しとしましょう。ただし、ノルニコムは二度と帝国に隷従しないという点は、譲りませんよ」

「それで結構」

 グラウスは微笑み、うなずいた。

 彼は無言で、床にばらまかれたままの指輪を集め、アレクトの指輪をそこに加えた。己の指にはめていたものを抜き取って、てっぺんに載せる。小さな山は、墓の積み石に似ていなくもなかった。

「将軍……」

 マリウスが声をかける。何を言って良いのかわからない、だが何か言わずにはおれない、そんな風情で。グラウスはちらと一瞥をくれて苦笑しただけで、答えなかった。代わりに、膝をついたまま背筋を伸ばしてエレシアと向かい合う。

「最後にもうひとつ、頼みを聞いて貰えぬだろうか」

「しつこい」

 セニオンが舌打ちし、吐き捨てるように言う。だが他の誰も、それを相手にしなかった。

 エレシアが仕草で促すと、グラウスはちょっと照れたような顔をして、小首を傾げた。

「手に、触れさせては貰えまいか」

「……?」

 意外な頼みに、エレシアが面食らって瞬きする。グラウスは両手を広げて何の細工もないことを示した。

「含みはござらん。ただ、その……一度も貴殿に触れられぬままでは、いささか未練が残るのでな。せめて、御手を頂戴したいのだが」

「…………」

 気恥ずかしそうに申し出られて、エレシアは見る見る赤面した。

 未婚の貴族娘に対するならともかく、敵方の未亡人、それも竜侯であり一度は彼を焼き殺しかけた女に対して、グラウスの奥ゆかしさは、あまりと言えばあんまりだ。

 だがそんな羞恥も、グラウスの真摯なまなざしの前には、消え去るだけだった。

(どうせ、日が沈む前にはもう、この世にいない男なのよ)

 エレシアは自分に言い聞かせると、黙ってつと右手を差し伸べた。

「かたじけない」

 グラウスは畏まって礼を言い、膝で前へ進み出ると、恭しく両手で彼女の手を包んだ。

 束の間、祈るように目を瞑り――そっと、手を開く。

 エレシアが手を引くと、グラウスはにこりとして立ち上がった。

「では、御免」

 深く腰を折って一礼すると、彼はレヴァヌスとマリウスに連れられて、部屋を出て行った。処刑場に連行される捕虜ではなく、栄光の座に凱旋する将軍さながらの堂々とした歩みで。


 グラウスが出て行くと、部屋は急に薄暗くなったように感じられた。

 気詰まりな空気をごまかすように、セニオンがわざとらしく咳払いする。まったく、と彼は呆れ声を作った。

「帝国の男は気障ったらしい上に見栄っ張りだな。抱きたいなら抱きたいと、正直に言えば良いものを」

 返事はない。セニオンは鼻白んだものの、すぐに気を取り直してエレシアのそばへ寄った。

「さて、ようやく俺も約束のものを貰えるんだろうな。将軍を始末するまでは本当に都を取り戻したとは言えん、などとお預けを食わせてくれたが、それも終わりだ。あの程度の男なら、警戒するまでもなかったろうに」

 言いながら彼はエレシアの腰に腕を回して抱き寄せ、顎に手をかけて顔を上げさせた。

「そんな顔は似合わんぞ。いつもの強気で、俺を楽しませてくれ」

「……警告は、しましたよ」

 ふ、とエレシアが笑みをこぼした。小さくしぼんでいた炎が再び明るく輝きだしたように、生気が戻ってくる。セニオンは、おっ、と舌なめずりせんばかりの顔をした。が、次の瞬間、凄みのある笑みを向けられてたじろぐ。

「わたくしを抱くのは、炎を抱くのと同じ。灰になっても良いというなら、寝室へ参りましょう。その体が燃え尽きるまで、刹那でも楽しませて差し上げます」

「おい」

 セニオンは唸り、険悪な顔になってエレシアを離した。

「今更それはないぞ。何の為に俺が、一族郎党を率いてこんな南までやってきたと思っている。帝国人同士の争いになど、そもそも関る必要などなかったというのに」

「わたくしを利用して、一族の長たる地位を随分確実になさったようだけれど。ドルファエ人には政治が出来ないなどと、誰が言ったのかしらね」

 エレシアはにっこりして、本心と紛うがごとき賛嘆の言葉を添えた。

 暗黙の了解の内に演じてきた芝居を、ついにあからさまな言葉で暴かれ、セニオンは返答に窮した。

 竜侯を己の客分にすることで、彼は事実、民に対する権威を増した。のみならず、気前良さと侠気の証として今回の遠征を承知して見せ、しかも行く先々で帝国の穀物や贅沢品をたんまりせしめたのである。

 むろんその“戦果”は、エレシアのはからいとノルニコム人の協力があったからだが、大方のドルファエ人には、その部分は見えていない。落ちぶれた帝国女が若い族長に情けをかけて貰い、見返りに富を貢いでいる、と映るのだ。エレシアが承知の上で演じてきた姿、そのままに。

 おかげで族長の人気は、いまや天井知らず。そしてエレシアは遂に故郷を取り返し、憎い敵の一人を討ち取った。お互い、目的を果たしたわけだ。

 であれば――もう、芝居には幕を。エレシアの発言はそう示唆していた。

 セニオンは思案を巡らせながら低く唸った。

「俺を焼き殺せば、部族がてんでに勝手な行動を始めるぞ。この町の娘を犯し、店の物を勝手に飲み食いして暴れ、そこらの村で略奪もしよう。そして誰一人、これ以上この地に留まりはすまい。そろそろ皆、里心がついているからな。こんなに遠く帝国の土地まで入り込んだのは、ドルファエの歴史が始まって以来、俺が初めてだ」

「もとより、遊牧の民をひとつ所に留めておけるとは考えていないわ。いつぞやの教訓もあることだし、強いて引き留めるつもりはなくてよ、セニオン」

 ちくりと刺されて、セニオンは渋面をする。

「……本気で、あの男との約束を守るつもりか」

「帝国市民は誓いを破らない。古の昔から重んじられてきた伝統よ」

 あなた方とは違う、との含みが言外に漂う。セニオンはチッと舌打ちした。怒りのまなざしで、しかし隠しきれない欲と未練を滲ませて、彼はエレシアを改めて上から下まで眺め回した。これを諦めるのと、あらゆる犠牲を払ってでも己のものにするのと、どちらが得かと計算しながら。

 もっとも、答えは最初から出ていた。

「一族を残らず満足させられるだけの見返りは、あるんだろうな。草原に帰る前に俺が八つ裂きにされたら、ドルファエの民は未来永劫、貴様ら帝国人と組むことはないぞ」

「どうかしら、少なくともその場合、あなたは結果を見届けられないのでしょう」

 エレシアは平然と脅しを受け流してから、真顔になって答えた。

「南進を始める前にお約束した時と、話を違えるつもりはありません。ノルニコムにおけるドルファエ人奴隷はすべて解放し、市民権を与えるか草原への帰還を援助します。そのほかの条件もすべて、あの時の合意のままに」

 かつてエレシアがリアネに言ったように、新たな隣人となるノルニコム王国は、ドルファエの良き友となる――その、具体的な約束だ。冬季に穀物を優先的かつ安価に提供すること。現ノルニコム領にあり、ドルファエ人が代償を払って利用する森林を譲渡すること、等々。

 セニオンは人前ではそうした実利的な話は匂わせず、エレシアを抱くことだけにこだわっているように振舞っていたが、見せかけに過ぎなかった。

 すべては先日果樹園で話したように、“取引”を皆の目から隠すためだ。族長すなわち最強の戦士である彼は、卑しい商人の真似事をすべきでないから。たとえそれが、ドルファエ人全体の利益になることであっても。

 さりとて、エレシアを求めたのが全くの偽装というわけでもないのだが。

 セニオンは大きなため息をついて、やれやれと頭を振った。

「俺は当分、一族の笑いものだな」

「約束のものを差し上げたと、話を合わせて差し上げましょうか」

「やめんか腹立たしい。……ああ、せいぜい笑いものになってやるさ。貴婦人は敵方の将軍に心を奪われた、魂のない体を抱いてもつまらぬから止したのだ、と言いふらしてな」

「なっ……!」

「怒るな、悪い噂ではないぞ。俺達は帝国人と違って、想い合う男女にはとても寛容だ。それを尊重した俺は男としての体面を保てるし、おまえも、憎しみに凝り固まった無慈悲な竜侯との汚名を雪ぐことが出来るわけだ。もっとも、帝国人の間でどう評されるかは知らんがな」

 セニオンは揶揄する口調で言い、羞恥と怒りで両手を拳にしているエレシアを、軽く鼻で笑った。それでようやくエレシアは否定せねばと気付き、真っ赤になって、

「わ、わたくしは……っ!」

 言いかけたものの、動揺がまさって声が詰まる。セニオンは白々しく耳に手を当てて催促したが、すぐに肩を竦めて背を向けた。

 部屋から出て行きしな、彼は思いついたように振り返って、痛烈な皮肉をくれた。

「せめて俺にも、手を握るぐらいは許してくれるか?」

 刹那、赤かったエレシアの顔からさっと血の気が引く。セニオンは己の言葉がもたらした結果をとくと眺め、そのまま、何事もなかったかのように歩み去った。

 一人残されたエレシアは、ゲンシャスの気配をも心から締め出して、長い間、本当に一人きりで立ち尽くしていた。

 のろのろと、グラウスに差し出した右手を、自分のものでないように感じながら持ち上げる。左手でそれを口元に運び、そっと唇をつけたまま、彼女はじっと動かなかった。

 伏せた睫毛の下から、光る雫が一粒、頬を伝い落ちる。肩がわななき、押し殺した嗚咽が喉をこすって漏れ出たが、それでも彼女は、その場に立ち続けていた。


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