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灰と王国  作者: 風羽洸海
第四部 忘れえぬもの
156/209

4-7. 裏切り


 ドルファエ人の逃げ足の速さを証明するように、戦場に残された遺体の数は、負けっぷりに比して少なかった。むろん帝国側の死者は皆無だ。

 グラウスは、コムスのすぐ南に陣営を設置して負傷者の手当てをするように命じると、アレクトを含む精鋭二十人を連れて市街へ向かった。

 城門を守る軍団兵は、感激するでもなく疲れきった様子で一行を通した。街の空気も、動きなく澱んでいる。ドルファエ軍敗北の報は既に伝わっていように、喜ぶでもなく、かと言ってグラウス達を追い出そうと反発するでもない。

「不気味ですね」

 アレクトが不審げに眉をひそめてささやく。グラウスは油断なく周囲に目を配りながら、領主館へと歩き続けた。

 館の門前で、ようやく彼らは歓迎された。レヴァヌス自ら、外まで出てきたのだ。

 しかしそのあまりの憔悴ぶりに、グラウスもアレクトも、声を失ってしまった。コムスに籠城してわずか二十日ほどだろうに、まるで数年も戦い抜いたかのような形相だ。その理由は、レヴァヌス自身の口から説明された。

「待ち侘びておりました、将軍。こうしてコムスの街をお渡しすることが出来、やっと安心して眠れます。初戦の敗北で歩兵の大半を失い、弩を破壊されました。生き残りを集めてコムスに立て籠もりましたが、一部の兵が反乱を起こし……今や第五軍団の兵力は半分以下。まことに面目ない」

「いや……よくぞ持ち堪えてくれた」

 グラウスはなんとか労いの言葉を押し出し、レヴァヌスの肩を叩いた。仲間だった兵を相手に戦い、それを処罰――ないし処刑――せねばならなかったとは、敵と戦うよりも遥かに痛撃であったはずだ。人相が変わるほどやつれもするだろう。

「市民の様子はどうだ。兵を市内に入れても暴動の恐れはないか」

 コムスの兵営は、市内の一角にある。第五軍団が使用しているが、その数が激減しているのなら、野営している第二軍団の兵をいくらかでも屋根の下で休ませてやれるだろう。

「それはないと思われます」レヴァヌスはぼそぼそ答えた。「竜侯の帰還を喜ぶ者も、喜ばぬ者も、思いは内心に秘めて成り行きを見守っている様子。不穏な噂も聞かれず、ドルファエ軍の接近にも、市内での動きは見られませんでした」

「そうか。では先に兵営へ行って話を通して来よう。レヴァヌス、おぬしからの報告はその後で聞く。館で今しばし休息するが良い」

 グラウスは言って歩き出そうとしたが、レヴァヌスがそれを止めた。

「将軍、恐れながら……館で面会を望んでいる者が」

「なに?」

「マリウス=フィアルクです。ドルファエ軍侵攻の一報以来、館に監禁しておりますが、将軍がコムスに入られたら至急お伝えしたいことがあると」

 内々に、と小声で言い添える。

 その時なぜだか、グラウスはうなじの毛が逆立つような感覚をおぼえた。チリッ、と火花が走ったような。

「……今すぐに、か?」

 気の進まぬ返事が口をついた。マリウスに会うのは不快ではない。むしろこの三年で彼とはある種の信頼関係を築いていたし、エレシアが再来した今こそ、彼と話し合わねばならぬことがあるように思われる。だが。

「むろん後でも結構です」

 レヴァヌスがいささか鼻白んだように答えた。そして、疲れた声音で付け足す。

「しかし、出来るだけ早くおいで下さい。ドルファエ軍はいつ戻ってくるか分かりませぬゆえ」

「うむ」

 グラウスは渋面で唸った。アレクトが二人を交互に眺め、小首を傾げて提案する。

「会見が終わるまで待機していましょうか。そう長くはかかりますまい。あるいは、私が何人か連れて兵営に参りますが」

「……そうだな」

 尚しばし逡巡してから、グラウスは曖昧にうなずいた。

「暴徒に襲われる心配はあるまいが、念の為、全員連れて行け。こっちは、必要なら館の兵を使う」

「了解しました。ではレヴァヌス殿、後ほど改めて」

 アレクトはぴしりと敬礼すると、返礼を受け、部下を率いて二列縦隊で通りを去って行った。グラウスは何となく落ち着かない気分のまま、レヴァヌスに先導されて館に入った。

 彼が査問のため召還された時には、まだエレシア再来の兆しもなかった。館に仕える召使らも、マリウスらノルニコム人に対すると同様、グラウスにも少しばかりの親しみをもって接してくれたものだ。しかし今は、帝国軍人と被征服者という立場を思い出してしまったのか、誰もがよそよそしかった。

 館そのものに拒まれているような気がして、グラウスは辛辣な苦笑を口の端にのぼせる。これでまた三年前に逆戻りしたわけだ。

「監禁したのはマリウス殿だけか」

「いいえ。マリウス殿の妻やその親類など、コムスで影響力を持つ顔ぶれは皆、この館ないし自宅に監禁中です」

「手荒にしてはおるまいな」

「むろんです。多少の不自由は、如何ともなりませぬが」

 レヴァヌスは陰気に応じて、マリウスの私室の前で止まった。ドアを叩き、将軍がお越しだ、と告げる。事務的な、微塵も温かみのない声で。

(捕虜と支配者か)

 グラウスは内心ため息をついた。三年余りの月日をかけて、僅かずつでもノルニコムの民の信頼を取り戻してきたのに、その崩れ去る速さときたら。

 視界の隅で、廊下の角からこっそり様子を窺っている召使の姿を捉える。あれもまた、今までのように会釈を返しはせぬのだろう――そう思いながら、無意識に少しだけ顔を向ける。と、意外にも、まるでその一瞥を待っていたかのように、召使は切羽詰ったまなざしをひたと返してきた。

 刹那、グラウスはぎくりと身を竦ませた。召使のこわばった表情が、青ざめてわずかに首を振ったその仕草が、意味するところを直感的に悟ったのだ。

 反射的に彼は腰の剣に手をやっていた。だがより早く、開いた扉の向こうから突き出された槍が喉元で交差し、動きを封じる。

「お静かに、将軍」

 レヴァヌスが、ほとんど沈痛に告げた。

「竜侯閣下の御前です。見苦しい振る舞いのなきよう」

「レヴァヌス……!」

 グラウスは信じられない思いでかつての部下を凝視した。が、じきに、有無を言わせぬ力に引き寄せられるように、室内に目を転じる。

 館の前で感じたあれは、本能の警告だったのだ。遅まきながらグラウスは悟り、悔しさに奥歯を噛みしめた。

 長椅子に腰かけて彼を待っていたのは、竜侯エレシアその人だったのだ。マリウスは椅子の傍らに立ち、硬い表情でこちらを見つめている。グラウスに槍を突きつけているのは、勝ち誇った顔のドルファエ人だった。

 グラウスは剣を奪われ、乱暴に突かれたせいで倒れ込むようにして、エレシアの足元に両膝をついた。

「御機嫌よう、グラウス将軍。以前まみえた折には、大層なもてなしをしてくれましたね」

 エレシアが辛辣に微笑む。グラウスはその顔をつくづくと見上げ、悲しげな目になった。

「再び相まみえることが叶うならばと願いはしたが、このような形でとは望まなんだ。エレシア殿、貴殿の炎は三年の間に濁ってしまったようだな」

「この期に及んで挑発とは、帝国の総司令官とも思えぬ悪あがき。失望させないで貰いたいわね」

「そうではない」グラウスはふっと息をついた。「貴殿の怒りは正当であったし、それゆえに炎が自ら輝いていた。だが今の貴殿は、炎をかき立てんが為だけに怒っているようだ。それが炎竜侯となったがゆえの代償であるなら、怒りを忘れえぬ貴殿が憐れでならぬ」

「……っ!」

「怒りが憎しみを生じ、憎しみが毒を生じるだろう。それに蝕まれる貴殿も、貴殿の濁った炎に焼かれる多くの民も、救われぬな」

「グラウス殿」

 仲裁に入ったのはマリウスだった。グラウスが見やると、かつて館の楼で並んで話した時と同じ、相反する情のせめぎ合うまなざしが注がれていた。

「将軍がエレシア様不在の間、竜の力もなしにノルニコムの民を闇の獣から守ってきたことは、エレシア様も認めておいでです。それゆえ命は助けると……軍団兵も、抵抗せず投降するなら命までは取らぬと、約束して下さいました。どうか、自らを危うくなさいますな」

「レヴァヌスにもそう言って、寝返らせたのか。それとも、命の他にも金や地位を約束したのか」

 グラウスが唸り、レヴァヌスが身じろぎする。言い訳しようと口を開いたレヴァヌスを遮り、エレシアが答えた。

「あれこれ駆け引きをする必要もなかったわ。そなたの兵らは初戦で力の差を見せ付けられ、すっかり腰が萎えていましたからね」

 嘲りを込めた視線をレヴァヌスにちらりと投げて、彼女は艶やかに微笑んだ。

「皇帝の兵士など一人残らず焼き尽くすのが筋というもの。そなたの首がまだつながっているのは、マリウスの嘆願があればこそですよ。感謝なさい」

「…………」

 グラウスはうつむき、床についた両膝の上で拳をぎゅっと握り締めた。

「エレシア殿。貴殿も竜侯家の当主ならば、忠誠とはどのようなものかはご存じの筈。皇帝陛下の将軍ともあろう者が、命惜しさに祖国と戦友を裏切ると思われるか? 遠慮は無用、その手でこの首を落とされよ。それが貴殿の望みなのだろう」

 言って彼は顔を上げ、曇りのない目でエレシアを真っ直ぐに見つめた。

「願わくば、俺の血でその憎しみを洗い流して欲しい。マリウス殿の願いを無下に出来ぬと言うなら、代わりにヴァリスの首を諦めて貰いたい」

 途端にエレシアの面が怒りの炎で紅く彩られた。だがグラウスは怯まず言葉を重ねる。

「貴殿も王たらんとする身ならば、人の命さえ駆け引きの材料でしかないと承知されよ。亡き夫君や子息にかける情とは別の問題だ。支配者が血の贖いに固執すれば、破滅を招くぞ」

「ご親切だこと」

 かろうじてエレシアは皮肉を返したが、声は怒りに震えていた。グラウスは厳しい目つきになり、語気を強めた。言を弄して命乞いしているのではない、との思いを込めて。

「エレシア殿。俺がノルニコムの民を案じてはおかしいか。かつて第一軍団に務めてドルファエとノルニコムのいざこざを何度も調停し、この三年は本国側から不当な仕打ちを受けぬよう守ってきた。生まれ故郷ではなくとも、長い時間をこの土地で過ごしてきた。だから言うのだ、俺の首ひとつで手を打ってくれと」

「わたくしの知る限り、そなたを失えば皇帝は無力な赤子同然の筈だけれど、今は変わったと言うのかしら。そなたの復讐のため、その赤子が武器を取って立ち上がるとでも?」

「いいや。新たな皇帝が立つだけだ。西から軍勢を率いて駆けつける、もう一人の竜侯がな。それでも貴殿は、あくまで帝国と皇帝を倒す為に戦うのか」

 正論で諭されて、エレシアが言葉に詰まる。怒りと憎しみが色褪せ、果てしない戦いを前にして逡巡する理性が戻ってくる。グラウスはそれを見て取り、さらに畳みかけようと口を開いた。と、その時、

「なんだ、まだ生きていたのか」

 嘲笑を含んだ声が割り込み、グラウスはギッと奥歯を噛んで、声の主を睨みつけた。セニオンが、まるで館の主のような態度で入って来たところだった。


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