4-4. 人間でいること
深い眠りの後で自然に目覚めた時、フィンは自分のベッドでレーナと一緒に横たわっていた。レーナは人の姿のままだ。ぐっすり眠り込んでいて、すぐ傍で動く気配にも目覚める様子がない。
まず彼が無意識にしたのは、仰向いて天井の無事を確かめることだった。
(夢だったのか?)
違う。身体には確かに昨夜、レーナと愛し合ったと信じられる感覚があった。だが、本当に竜の姿に変わったわけではないらしい。恐らく実際には人の姿のままで、意識だけが一時的に『あちら側』へ入り込んでいたのだろう。
フィンはゆっくり体を起こし、幸せそうに眠っているレーナを見下ろして微笑んだ。
それから、深く静かに息を吸い、伸びをする。両腕を上げて、背をうんと反らし――
「……っ!?」
いきなり、冷水を浴びせられたように竦んだ。喉がヒュッと音を立てて息を吸い込む。心身に満ちていた幸福感は、跡形もなく消え去った。
(今、俺は何をしようとした)
彼は愕然とし、青ざめながらゆっくり腕を下ろす。そして、無意識に己の背中を見ようと首を捻った。だがもちろん、自分では見えない。
肩越しに視界に入るような、大きな翼もなければ長い尾もないのだから――。
動悸が速まった。
フィンは我が身を抱いて身震いし、何かに追われるように服をひっつかんで頭からかぶると、裸足のまま外へ走り出た。
裸足。そう、二本の足、人間の足だ。
足の裏を意識しながら、夜明けの空気を思い切り吸い込んで、両腕を大きく振り回す。それでもまだ、翼があるという感覚は消え残っていた。翼をバサリと震わせて羽根を整えたい、という抑えがたい欲求が。
(違う、俺は人間だ)
彼は頭を抱え、そのまま手を首から肩へと滑らせて、自分の体を確かめる。
恐慌が津波のように襲ってきた。
(俺は竜じゃない。人間だ、人間なんだ)
確かめたい。
その思いが強烈に高まり、彼はほとんど半狂乱になって周囲を見回していた。
今すぐ女を抱きたかった。誰でもいい、人間の女を人間のやり方で抱いて、自分が人間だと確かめなければ、おかしくなってしまいそうだった。
(誰か助けてくれ、誰か)
泣き出したいほどの焦燥に支配される。人影を探してせわしなくさまよう目に、戸口に立つネリスの姿が飛び込んできた。
「どうしたの、お兄。こんなに早くに」
欠伸を噛み殺しながら、まだ半分寝惚けた声が迷惑そうに言う。
フィンは彼女の方へ走り出しかけ、かろうじて数歩で踏みとどまった。砕けそうなほど奥歯を噛みしめ、内心で自分を怒鳴りつける。
(やめろ!!)
あれは『ネリス』――『妹』だ。単なる『人間の女』ではない。
「ああ――」
弱々しい声を漏らし、フィンは両手で顔を覆ってその場に膝をついた。
焦燥が消え、理性が戻ってくる。
(危なかった……)
人間だと確かめる為だけにネリスを抱くなど、それこそ自分が人間である証を自ら破り捨てるも同然ではないか。彼女は家族だ。人間であるフィニアスの家族、大切な存在。そして今はマックの妻なのだ。
大きく息をつく。同時に彼は、ようやくすっかり元の自分に戻ったと感じた。
翼や尾の感覚はもう、思い出そうとしても思い出せない。そのかわり、全身がずっしりと重かった。
地面についた、細かい傷だらけの手を見つめる。ガサガサで、不器用で、呆れるほど脆く弱い手。
(これが俺の手なんだ)
喜びと同時に、哀切が胸を満たした。かりそめとは言え竜となる感覚を味わったがばかりに、人間である己が嬉しいと同時に悲しかった。
「……お兄? 大丈夫?」
心配そうな声がして、温かい手が肩に触れる。フィンは小さくうなずき、顔をこすって立ち上がった。
「ああ。ありがとう」
短くそれだけ言って、くしゃりといつものように妹の頭を撫でる。ネリスは厳しく責めるようなまなざしで、じっと彼を見上げた。直視されたフィンは小さく首を振り、祭司の目を遮るように自身の意識を覆う。
「何でもない。本当にもう大丈夫だ。ただ、少し……一人にしてくれ」
「…………」
ネリスは榛色の瞳をわずかに潤ませ、それをごまかすように、拳をフィンの腹に叩き込んでから無言で踵を返した。
華奢な背中が戸口に消えてから、フィンはのろのろと広場の水道に向かい、冷たい水を両手にすくった。
顔を洗おうと屈み、その拍子に喉元が詰まって、服が前後逆だったことに気付く。深刻な状態にそぐわぬ間抜けさに、フィンは失笑した。
くっくっと、喉の奥で笑う。
(誰かが見たら、おかしくなったと思うだろうな)
夜も明けきらない内から、服を逆に着て家から飛び出し、一人でじたばたして。既に狂人の振る舞いそのものだ。
フィンは水道に寄りかかってくすくす笑い、それから少しだけ泣いた。
初代ナクテ竜侯も、同じだったのかもしれない。彼は伴侶の竜を愛したが、己が人でなくなる感覚に耐えられなかったのだろう。最前フィンも感じたような、狂おしいまでの渇望に追い詰められて――それを癒す為だけに、人間の妻を娶った。
夫婦生活がどんなものだったのかは、想像したくもない。妻の子、あるいはその親類との関係も、さぞや険悪だったろう。……殺し合いに発展するほどに。
(だが俺は違う。そんな事態にはしない、絶対にするものか)
どうにか気を取り直して部屋に戻ると、レーナがすっかりしゅんと萎れていた。ベッドの上に座ってお説教を待つ犬のようにうなだれている。
「ごめんなさい」
泣き出しそうな声で、彼女はまず謝った。
「フィンをこんなに苦しめるなんて、思ってもみなかった。でも、そうよね。フィンは人間なんだもの」
「大丈夫だよ」
フィンは言って、そっとレーナの横に腰を下ろして肩を抱き寄せる。いつもの温かさが、少し足りないようだ。フィンはレーナの髪を手で梳りながら、もう一度「大丈夫」と繰り返した。
「どういうことになるか分かっていなかったから、驚いただけだ。本当にもう大丈夫だから」
三度も言ってから、これじゃかえって説得力がないか、と自分に苦笑する。どのみち、いかに言葉でごまかそうと、心に抱くものはレーナに伝わっているのだ。フィンはこほんと咳払いして、威厳を取り繕った。
「ああ、確かにまだ少し動揺はしてる。それは認めるよ。だけど君が謝ることじゃない」
話す内に心も落ち着き、昨日までと変わらない、否、いや増した愛情がゆっくりと満ちてくる。レーナもそれを感じ取り、少し表情を和ませた。
「ありがとう、フィン」
「礼を言うのはこっちだよ」
フィンは苦笑して、そっとレーナの額に唇をつけた。目覚めた後の事はともかく、昨夜の経験は確かに素晴らしかったのだから。あまりに高く舞い上がりすぎて、落ちた時の衝撃を考えていなかっただけのこと。
途端にレーナは首まで真っ赤になった。そのまま光の渦になって姿を消してしまいそうな気配が見えたので、慌ててフィンは絆を強く意識して引き留める。ここで逃げられたら、相当いたたまれない。誰に見られるわけでないにしても。
レーナは逃げたいやら逃げられないやらでおたおたしていたが、ややあって不意に動きを止めると、フィンの喉元に指を触れた。ちょうど目線がその辺りに来たのだ。
「……フィン? なんだかいつもと違わない?」
指が、不思議そうに寸詰まりの襟をひっぱる。フィンは失笑し、あー、うん、などと明後日の方を向いてごまかしたのだった。




