4-1. 雪辱を期す
四章
日没の向こうで進行する変化に気付く由もなく、ノルニコムの人々は自分達の問題で手一杯になっていた。
炎竜侯エレシアが、ドルファエの騎兵団を率いて戻ってくる。
その知らせは内外に衝撃をもたらした。いずれはと信じていた領民も、いざ主が帰還するとなると、それに伴う混乱と弊害に気付いて歓呼の声を飲み込んだ。
また、戦になる――。
三年経ってすっかり落ち着いていた日常が、再びかき乱されるのだ。自由に物を売り買いすることも、町を出入りすることも難しくなり、場合によっては命さえ脅かされる、そんな生活に戻ってしまう。不安と、逃げ場のない焦燥が街を覆った。
グラウス将軍の留守中、州都コムスの守りを引き受けているのは、奪還後に再編された第五軍団の軍団長レヴァヌス。元はデウルムの守備隊長だったが、三年余り前にグラウスと共に東征し、そのままノルニコム勤務になった男だ。
知らせが届くと彼はすぐに行動を起こした。真っ先に、皇都への急使派遣。それが二度、三度と失敗する間にも打てる限りの手は打って、来るべき戦に備える。かつてエレシアに仕えていた者達を領主館に集め、男女別かつ少人数に分けて監禁、外部との接触を断った。
一方で近隣の農地では収穫できる限りの食糧を根こそぎ集め、火を放った。ドルファエの騎兵も、馬が弱れば威力は半減する。糧秣となる草一本残さぬように、と。むろんそれには反発が大きいことをも考慮し、責任をエレシアに転嫁すべく様々な声明や布告を出して市民に訴えかけた。いわく――
ティウス家のエレシアはかつて私怨ゆえの戦に領民を巻き込み、ノルニコムの地を荒れさせた。今また己が王位につかんが為に草原の蛮族を引き込んで、ほしいままに略奪させている。民を顧みぬ女を主として認めるのか。エレシアはもはやノルニコムの王ではない、ドルファエ人の王となったのだ。
この三年余、闇の獣から市民諸君を守ってきたのは、帝国のグラウス将軍である。またノルニコムは敗北したにも関らず、重税を課されることも、市民権を剥奪されることもなかったではないか。帝国の温情を仇で返すなかれ――
その上で、有益な情報をもたらした者や、対ドルファエ戦で勲功を立てた者には、税の減免や褒賞の恩典を約束した。
人々の反応は様々だった。見え透いている、というのが大方の本音であったろうが、それでも、一理あるとうなずく者や、今更エレシアに味方しても得はないし、と消極的に賛成する者も少なくなかった。
「三年という月日は、以前の主を忘れてしまうには短く、しかし平和に慣れてしまうには充分な時間だったようだ」
レヴァヌスは市民らの反応をそう評し、マリウスの様子を窺った。自室に閉じ込められて七日ほど過ぎた今、マリウスの表情は精彩を欠いている。
「マリウス殿。市民はもはや戦を望んでおらぬ。たとえエレシアが返り咲いたとしても、皇都への再進撃は難しかろう。じきにグラウス将軍も戻られ、ナクテ竜侯も兵を進めてくる。貴殿は不満の渦巻く市民兵を率い、気まぐれで信用ならないドルファエ人と肩を並べて、帝国の強力な軍団と戦うことを強いられるだろう。そんな惨めな運命を甘受するのか」
「既に定められたことのように仰せられる」
マリウスはやや辛辣な声音で応じたが、顔には何の感情もあらわさなかった。レヴァヌスはぴくりと眉を動かし、ごほんと咳払いして話を続ける。
「定まってはおらぬ。左様、確かに。我々はエレシアの到着を座して待つつもりはない。迎え撃ち、かつてと同じく炎の竜を射落として、蛮族どもを奈落の際まで追い返す。それがノルニコムの為なのだ、マリウス殿」
「…………」
「竜を滅することは、人の手ではかなわぬと聞く。貴殿の崇敬するかつての女当主も、たやすく命を落とすまい。だが彼女に率いられた騎馬の蹄で、身を守る術を持たぬ民は雑草のように踏みにじられるだろう。民を暴虐から守るのが、ノルニコム騎兵団長たる貴殿の務めではないか」
「その騎兵団長が主への中傷を信ずると、よもや本気でお考えではありますまい。時間の無駄です。主に弓引くものをお求めなら、ほかを探されよ」
マリウスは冷淡に応じ、目を合わせもしない。レヴァヌスは顔をしかめた。
「貴殿の忠誠は私もよく分かっている。この三年、グラウス将軍のそばにあって、ティウス家に仕える人々の節の固さを目の当たりにしてきた。しかし主が間違いを犯した時には、それを正すのが忠実な臣下というものだろう。ドルファエ人が何の報酬もなく、帝国の内紛に関ると思われるのか? 皇帝を倒すなどという遠大な目標に賛同するとでも?」
痛いところを突かれ、マリウスは無言で唇を噛んだ。レヴァヌスは同情的な口調で、さらに言葉を重ねる。
「偵察隊や避難民の知らせによれば、エレシアはドルファエの族長らしき男と大層懇意にしている様子だとか。互いに相手を抱きこんで利用しているつもりやも知れぬが、ドルファエ部族の中にあってエレシアはただ一人の本国人だ。力関係は歴然としていよう。貴殿の心中、察するに忍びないが、現実を直視して賢明な判断をして貰いたい」
レヴァヌスはそれだけ言うと、充分に揺さぶりをかけたと判断し、部屋を去った。他には説得すべき重要人物も思い当たらなかったので、彼はそのまま足早に武器庫へ向かい、弩を引き出して整備するよう指示した。
「これがあれば、竜が飛んで来たって怖くありませんね」
兵士が弩の本体を頼もしげに撫でながら、そんなことを言う。レヴァヌスは自信に満ちて見えるよう願いつつ、笑みを作った。
「将軍が戻られ、援軍が到着するまで、奴らをコムスに近付けてはならん。女に率いられた蛮族ごとき、我らだけの力で追い払って見せねばな」
「はい!」
戦意満々に兵士が敬礼する。レヴァヌスはうなずき、弩に目をやった。三年余りの間に改良を重ね、より狙いを精確に、操作を楽にした。むろん威力も増している。竜が来ずとも、疾走する騎馬部隊に対しては強力な武器となることから、新たに三台が作られた。
炎竜侯を追い払ったからとて、軍団は惰眠を貪っていたわけではないのだ。ドルファエ人の南進を察知したのも、各所に配備した伝令あればこそだし、兵も倦むことなく訓練を積んできた。
(しかし、この不安は何なのだ)
糧秣の点検、続いて各隊長との打ち合わせ、と精力的に動き回りながら、レヴァヌスは消せない胸騒ぎに苛立っていた。
皇都へ向かった急使に対する目に見えない妨害。過去の例と異なり、暴徒にも盗賊にも成り下がらず、統制の取れた軍として進んでくるドルファエ人。今までにない、理解の及ばない現象が起こっている。
(将軍は間に合うだろうか)
西部のナクテ竜侯が第四軍団を寄越すまで待たずとも、グラウスが東に戻る際にデウルムとアクテの兵を連れてきてくれたら、ドルファエ人の寄せ集めなど何ら恐るることはない。だがもし、あまりにもそれが遅れたら……。
(ええい、今から弱気になってどうする)
レヴァヌスは己を叱咤し、不吉な考えを払うように首を振った。
もし、……ならば。それを考え始めたら、身動きが取れなくなる。今はせねばならぬこと、成すべき勝利について考える時だ。
(東部に将なしとは言わせぬ)
かつて呆気なくコムスから追い出され、続いてアクテを奪われて、挙句デウルムまでも進撃を許した、第五軍団の恥はまだ雪げていない。
(我々とてディアティウス帝国軍の一翼を担っているのだ。再び帝国に危機を招くなど、許してはならない)
レヴァヌスは気合を入れて、鎧の上から緋色のマントを羽織った。
目指すは勝利のみ。乱を鎮め、帝国の安定に貢献し、功を立てて人生に実りをもたらすのだ。いずれ充分な土地を授かって退役し、ゆっくり暮らしたいという、帝国市民としては至って平凡な願いを叶えるためにも。
彼は深くゆっくりと息をすると、東の空を険しい目で睨みつけた。来るなら来いと、紅い光を待ち受けるように。
レヴァヌスに率いられた第五軍団は、コムスの東北一日行程ほどのところに陣営を張った。むろん、留守中に街で反乱が起きないよう、市民の有力者に根回しし、マリウスらの監視を厳しくし、街中の兵営にもまとまった兵力を残して、その上での出陣である。
実のところ、エレシアの首だけを目的とするなら、不安要素のあるコムスにこだわらずとも良いのだ。たとえ都市を奪われても兵が全滅しない限りは、そこで終わり、ではない。エレシアの目的が打倒皇帝である以上、いずれは城壁の陰から出てくる。それを待つ間に援軍と合流して、物量で圧倒してしまえば確実に勝てるだろう。
だがレヴァヌスら第五軍団の士官は、その選択肢を考えていなかった。今度こそ、何が何でもコムスを死守するのだ。将軍がいない間にまたへまをやりました、などと申し開きは出来ない。名誉のかかった戦いなのだ。
一帯は見晴らしの良い開けた平地だった。歩兵よりも騎馬に有利だが、致し方ない。少しでも戦いやすいように、ほとんど分からない程度の小さな丘の上に陣取って、北から進んでくるエレシア達を待ち受ける。騎兵の突撃を妨げるべく、溝や落とし穴も掘った。
準備が整ったぎりぎりのところで、早くも街道の北に砂塵が見えた。
「ぐずぐずするな、整列! 迎え撃つぞ!」
レヴァヌスが号令をかける。兵達が槍を手に陣形を整え、弩が用意された。歩兵部隊の後ろに控え、弓兵と共に空を油断なく狙う。
緊張が高まり、兵らの顔に汗が光った。レヴァヌス自身も照りつける日差しを浴びて、兜の内側が既にぐっしょり汗まみれだ。
だがやがて、暑熱さえ忘れるほどの感覚が忍び寄ってきた。巨大な力が迫ってくる、その前から逃げ出したいという動物的な恐怖。馬が落ち着きをなくし、そわそわと首を振り始める。レヴァヌスはぎりっと奥歯を噛んで、乱れる鼓動を鎮めようと、声に出さずに数を読んだ。
街道を、人馬の立てる砂塵が下ってくる。どうやら敵は、第五軍団がこの場所で待ち受けていることも、その陣容も、既に承知しているらしい。一旦止まって隊形を整えるでもなく、慌てふためいて突撃するでもなく、変わらぬ速度で着々と接近してくる。
お定まりの名乗り合いも、罵倒の応酬もない。
そして――
風が、動いた。
「来るぞッ! 弩、用意! 盾上げ、第一弓兵隊援護!」
さっと空を仰ぎ、レヴァヌスが怒鳴る。命令が伝わると同時に歩兵は盾を頭上にかざし、弓兵は一斉に矢をつがえて弦を引いた。弩の係が角度の調整を急ぐ。
一呼吸する間もなく、遥か上空から真紅の輝きが急降下してきた。
「放て!!」
反射的に弓兵の部隊長が号令をかけるのと、恐怖にかられた兵が矢を放つのが同時だった。
驟雨のごとき弦音、無数の矢の唸り。だが早すぎた。改良によって飛距離を倍増した弓矢でも、地上の標的相手とはわけが違う。かろうじて届いた矢も、その頃には速度など無に等しい。竜の羽ばたきに煽られて虚しく落ちていく。
自軍の放った矢の雨が、ばらばらと降り注ぐ。その間にも竜は、姿がはっきりと見えるところまで迫ってきた。
弩兵がわずかな時間に狙いを定め、鉄の矢を引き絞る掛け金に手をかける。当たればすぐにも決着がつく、三年前のように――しかしそれは儚い希望だった。
「あっ……!? ひっ、ひぃぃ!」
「うわああぁっっ!!」
恐怖の叫びが、弩のすべてから次々に上がった。レヴァヌスはぎょっと青ざめ、振り向いて目を凝らす。
直後、一番近くにある弩が、真っ赤に灼熱して轟音と共に弾け飛んだ。慌てて離れようとした兵がもんどりうち、破片の直撃を受けた歩兵弓兵が倒れて陣形が崩れる。
「くそっ!!」レヴァヌスは罵り、声を張り上げた。「うろたえるな! 第二弓隊、掃射しろ! 奴を近付けるな!!」
怒号と悲鳴が飛び交う。レヴァヌスは北に向かっても叱咤した。
「前列歩兵、持ち場を守れ! 竜は弓兵に任せろ、馬飼いどもが来るぞ!」
上空からの攻撃に浮き足立っていた歩兵が、慌てて盾を構え直し、迫り来るドルファエの騎馬に槍を向ける。しかしやはり、前だけに集中しろと言うのは無理な話だった。
再び弓弦が唸る。今度の掃射は効果があった。炎竜ゲンシャスはエレシアを乗せたまま、素早く回転して上昇に転じたのだ。あるいは弩を破壊したことで目的を達したゆえかもしれないが、その尾や翼の端を少なくない数の矢がかすめると、恐慌に陥っていた弓兵も息を吹き返した。
まだ大丈夫だ、俺達の弓でも奴と戦える。
緊張と興奮の中に一抹の安堵が広がった。一方的に殺戮される予感ほど恐ろしいものはない。勝ち目があるという感覚は、兵達の力の源だ。
軍団兵が狂乱している間にも、セニオンに率いられた騎馬隊は距離を詰めていた。疾走を始めるのに適した距離まで。
歩兵部隊は固唾を呑んで待ち受ける。ここにいる兵の大半は、ドルファエ人と戦った経験がなかった。彼らが知っているドルファエ人とは、せいぜいが、本国の小競り合いで傭兵として軍に加わった一部隊程度だ。
だから、予想していなかった。
騎馬兵が歩兵を踏みにじるべく突進して、来ない、などとは。
てっきりそのまま真っ直ぐ攻めて来ると、先頭集団は落とし穴と溝にはまって潰れるだろうと、誰もが期待していた。それなのに、あろうことかセニオンは、せっかく軍団兵が用意した歓迎の仕掛けを無視して、その手前で向きを変えたのである。
ドルファエの騎馬兵は左右二手に分かれ、去り際に軍団兵の頭上に向けて矢を放った。最前列に並べられた盾の壁を飛び越えようというのだろう。
後列の兵のみならず、槍を構えていた中列の兵や前列の兵までが、思いがけない攻撃に慌てて身を守ろうと盾を上げる。その隙に、ドルファエ騎兵の後続がさらに矢を射掛けた。今度は上ではなく、真正面から。
軍団兵が態勢を立て直す猶予は与えられなかった。ドルファエ騎兵は次々と矢を放っては去り、去ってはまた攻め寄せて矢を放つ。歩兵の後ろから弓兵が攻撃するが、遠く、かつ動きの速い騎馬隊に、さしたる損害は与えられなかった。そもそも竜の再来に備えて矢を温存しながらの掃射では、たかが知れている。
ひたすら耐えるしかない状況に追い込まれ、軍団兵は焦り始めた。
このままではまずい。損害を覚悟で攻撃に出なければ、少しずつ戦力を削がれてまともに突撃も出来なくなる。
指揮する立場のレヴァヌスとて同じ心情だった。己が無能に思われ、焦燥がいや増す。
考えてみれば、彼は全軍を指揮する立場になったことは今まで一度もなかった。そして、窮地に陥ったことも。
(どうすれば良い、どうすれば、命令を出さなければ、しかしどうしろと?)
焦るあまりレヴァヌスの思考は空回りを始めた。
何か命令しなければならない。まだ辛抱しろと命ずるのか、ならばいつまでだ? 敵の攻撃はいずれ止むだろう、だがそれまでただ待っていたら、反撃に出られなくなるのではないか。
グラウスならどうするだろうかと、記憶の抽斗を片っ端からひっくり返すが、どれもこれも空っぽだ。わずかな示唆の欠片さえ、はらりとも落ちてこない。
(次の指示に全軍の命運がかかっているのだ、ああどうすれば良い、誰か教えてくれ、指示をくれ。神々よ、どうか助けを)
こんな予想外の展開にどうすれば良いのか、何も思い浮かばない。傍らで伝令が血の気の引いた顔をしながら命令を待っている。視界の端でそれを捉え、レヴァヌスは地の果てまでも逃げ出したい衝動に駆られた。
(こんな事なら、昇進など断るのだった)
そんな場合ではないのに、後悔がどっと押し寄せて胸をふさぐ。
これまで彼は失敗らしい失敗をした事がなかった。デウルムでの任務は危険の低いものだったし、以後はグラウスの下で一翼を担って、指示に従い、あるいは指示を先読みして、上手く兵を動かしてきた。自分には出来ると思っていた。だから、軍団長の地位も順当なものだと信じて疑いもしなかったのに。
(くそっ、くそっくそっくそっ!)
地団駄を踏みたいのを堪え、心中で悪態を吐く。よりによってこんな状況で、今更初めて、身の程を知ることになろうとは。
(とにかく、何かマシな命令を下すのだ。将軍のように鮮やかな勝利などおさめられずとも、せめて被害を抑えてこの場をしのげるだけの……)
祈るような気持ちで、彼は今一度、前線の様子を確認した。
相変わらずドルファエ騎兵は波状攻撃を続けている。だがその動きが鈍くなっていた。
歓喜が絶望を押しのけて湧き上がり、悲壮感を吹き飛ばした。レヴァヌスはその勢いに乗せて、ほとんど何も考えずに声を上げていた。
「歩兵は今少し堪えろ、じきに敵は馬を休ませるために退くぞ! 奴らが馬を下げた時が好機だ。馬から下りた彼奴らなど、木の葉も同然、打ち破ってくれる!」
景気の良い言葉を伝えられるのが嬉しいらしく、伝令もぱっと表情を明るくして、すぐさま走り出した。
現にその読みは当たっていた。
ドルファエ騎兵は馬が消耗したのか矢が尽きたのか、ようやく攻撃の手を緩め、左右に散開したまま後退を始めた。翼のように開いた騎馬隊の間から、出番を待っていた歩兵が喚声を上げて進み出る。散々矢でいたぶっておいて、弱った相手を料理しに行こうというのだろう。
とは言っても彼らは、帝国軍団兵とは比ぶべくもない、粗末な装備とでたらめな隊伍の集団だった。槍と拳を振り上げて、骨片をじゃらじゃら吊るした棒や太鼓などで大騒ぎ。まるで子供の遊びに見える。
じっと耐え続けていた軍団兵は、ここぞとばかり勇み立った。
あんな愚かで幼稚な野蛮人どもに、誉ある軍団を好き放題に嘲弄させたのだ。数倍にして報復し、思い知らせてやらずして何とするか。
レヴァヌスの命令も待たず、歩兵はどっと雪崩を打って進撃した。ドルファエ歩兵も、狩猟の始まりと勘違いしているかのように、わあっと走り出す。
――待てば、良かったのだ。
ここまで辛抱したのだから、軍団兵はもう少し耐えるべきだった。わずかとはいえ傾斜のある坂を、敵がわざわざ駆け登ってくれるのだから、息切れするのを待ち受ければ良かった。それに、待っていれば射程に入ったところで後方の弓隊がまず掃射し、数を減らしてくれただろう。
だが、やられっぱなしで頭に血が上った兵らは、相手を叩き潰すことしか考えていなかった。効率的でなかろうとなんだろうと、己が手で野蛮人を一人一人刺し殺し、斬り伏せ、踏みつけにせねば気が済まなかった。
熱波と化した軍団の槍の穂先が、無防備なドルファエ人集団の先頭を焼き尽くすかに見えた、その刹那。
「皇帝の下僕ども、己が愚かさを思い知れ!!」
勝ち誇った叫びと共に、巨大な炎が天から襲来した。
歩兵部隊の中央、まだ前列の戦闘に参加するでもなく守りを担うでもなく、ただ突進しているだけの部分に、ゲンシャスと共にエレシアが舞い降りたのだ。
驚く隙さえ与えず、ゲンシャスが長い尾と巨大な翼を振り回して、人間どもを麦の穂のようになぎ倒す。エレシアもまた伝家の槍をふるい、手当たり次第に兵を突き刺しては火柱に変えてゆく。
一瞬でそこは阿鼻叫喚の巷と化した。もはや隊列も戦闘もあったものではない。逃げ惑う兵が押し合いへし合いし、前列まで崩壊が及ぶと、もうおしまいだった。
本来なら圧倒的に優位なはずの帝国軍団兵が、貧弱な装備のドルファエ人の手で、野兎よりも簡単に命を奪われてゆく。
後方の兵が仲間を助けに駆けつけるのを待たず、炎竜と竜侯は空高く舞い上がって逃れた。狩りに酔いしれていたドルファエ人らも、それを合図に素早く退却する。竜の力に当てられないよう離れていた騎兵が、軽装の仲間を拾い上げて走り去った。
歩兵を襲った惨劇を丘の上から目にしたレヴァヌスや弓隊の士官らは、あまりのことに呆然自失していた。彼らが我に返り、助けに行かねばと動き出した頃には、ドルファエ軍は既に影も形もない。
切り裂かれ、刈り取られ、焼き尽くされた兵士の骸だけが、風にむせび泣いていた。




