2-7.町の子らと
少年が語ったところによると、確かにはじめの内は軍団兵が戦ってくれたらしい。
防御柵を築き、明かりを灯し、不寝番を立てて。
だが、給料どころか物資も滞りだし、闇の獣の攻撃が激しさを増し、しかも近隣の町に救援を求めて送った使者は一人も戻ってこない状況が続くと、ついに軍団兵は決断した。ウィネアまで撤退する、市民の運命は彼ら自身の手に委ねる、と。
住民の半数ほどは、その時に彼らと共に去った。ただし、一日に数十キロを踏破する強行軍について行ける者だけだ。残りの者は、彼らが援軍を連れて戻ってくれるか、あるいは何らかの奇蹟が起こるのを、ただ待つしかなかった。むろん、行けない人々を守ると決め、あえて留まる者もおり、そうした者たちが軍団兵に代わって闇の獣と戦ったのだ。
――だが。
その後の状況の推移はフィンたちにも容易に想像がついた。
守り手が死んでゆき、食糧が不足し、人々の精神が蝕まれて。ナナイスよりも小さく、そして曲がりなりにも秩序を保つ兵士がいなくなったこの町では、崩壊はあっけなく訪れたことだろう。
食糧や物資を巡って争いが起き、弱い者が殺され、あるいは一か八か荒野へ逃れざるを得なくなり……最後には、自力ではどこにも行けない、しかし身を隠すことに長けた孤児だけが残った。
「なるほどな」イグロスが唸った。「俺はナナイスの兵営にいたが、テトナからの伝令は一人も着かなかった。ほかの街の様子は、どこもさっぱり分かっていなかったんだ。きっと……」
声が沈み、その先は沈黙に飲まれる。フィンと家族は顔を見合わせ、目だけでうなずき合った。皆、あれにやられたのだ。街道で待ち伏せていた獣に。
「闇の獣も馬鹿じゃないな」
フィンは小声でつぶやいた。敵は街道が帝国の動脈だということを、知っているのだ。人間社会に情報や物資といった“養分”を行き渡らせる血管だと承知しているからこそ、ああして周囲に何もない場所で身を潜めていた。フィンたちがその牙を逃れられたのは、ただひたすら運が良かったからに過ぎない。
ということは、すなわち、この先ウィネアへの道にも獣は待ち受けているだろう。しかも恐らく、一頭だけということはあるまい。州都への道はまだ、助けを求めて来る人間が大勢いるはずだから。
暗澹となった空気をごまかすように、イグロスが子供たちに向き直り、明るい声で呼びかけた。
「ところで、この中にファーネインって子はいないか? 俺の姪っこなんだが」
ざわ、と子供たちが顔を見合わせる。ややあって奥の方から、七つかそこらの女の子がおずおずと出てきた。黒い髪に縁取られた顔は痩せて青白く、深緑の目は光のない淵のようだ。
「おじさん……?」
「うおっ、大きくなったなぁおい!」
白々しいほど陽気に言い、イグロスは少女を抱き上げる。ファーネインは驚き、怯えたように身を竦ませた。
「あんなにちっこかったのになぁ。そうか、もう四年だもんなぁ。俺のこと覚えてないだろ。イグロスおじさんだよ、しょっちゅう遊んでやったんだぞ」
おじさんだよ、ときた。フィンとネリスは揃ってふきだしてしまった。イグロスは即座にぎろっと睨んだが、照れ隠しのしかめっ面では迫力など微塵もない。兄妹は余計に笑いたくなるのを懸命に堪えた。ぴくぴくひきつっている二人の顔を見て、ファーネインが口元をほころばせる。
「お、笑ったな。よしよし、可愛いぞぉ」
イグロスはにこにこしながら、ファーネインの頭を撫でてやる。堪えきれずにフィンとネリスが笑い崩れ、ファーネインもくすくす恥ずかしそうに笑った。様子を見ていた子供たちの間にも、遠慮がちな忍び笑いが広がる。
場の空気が和むと、最初に扉を開けた少年が、こちらも微かに笑みの気配を漂わせて話しかけてきた。
「おじさんたち、今日はここに泊まりなよ。神殿の中には、あいつらも入って来られないからさ」
「ありがとよ、坊主」
イグロスの礼に、少年は大人びた仕草で肩を竦めた。
「俺はマック。本当はマクセンティウスなんだけど、チビたちが覚えられないからさ」
その口調は、自分以外の子供たちを守るべきものと認識している、年長者のものだった。イグロスは姪を下ろし、大仰に、しかし真面目な表情で一礼した。
「これは失礼つかまつった、司令官マクセンティウス殿」
「極端だなぁ」
マックは笑い、イグロスの連れをぐるりと見回して言った。
「さっきも言ったけど、余分の食糧はないから、自分達のでなんとかしてよね。日があるうちはまだ、店の倉庫とか、何か残り物がないか探すことも出来るけど……たぶん、もうそんなにないと思う。夜はこの礼拝堂に集まって寝るから、ほかの部屋には行かないほうがいいよ。火を焚けるのはここだけだしね」
「了解」フィンがうなずいた。「薪になるものは充分あるかい?」
「今、集めてるところだったんだ。でもあんたたちが来たから、びっくりして。なんだったら、手伝ってくれる?」
「もちろん」
「あたしも手伝うよ!」
フィンとネリスが即答する。オアンドゥスとファウナは微笑を交わした。
「それじゃ、俺たちは神殿の守りを確かめて、補強出来そうな所はやっておこう。気をつけるんだぞ、二人とも」
はい、と元気良く返事をすると、兄妹はマックと数人の子供たちと共に、再び町へと出た。子供たちは久しぶりに大人に出会った安心感からか、明るい表情になっている。のびのびとした子供たちを目にすることなど久しくなかったフィンもまた、顔をほころばせていた。
これ燃やせるかな、ちょっと大きいから壊せないかな、運ぶのは重いなあ――そんな場面では、フィンの腕力と剣が役立った。フィンとてまだ一人前の男ではないが、それでも子供たちに比べると立派な大人だ。フィンは自分の言動ひとつひとつに、きらきらしたまなざしが集まることが、くすぐったかった。
だが、さりとて厳しい現実を忘れるわけにもいかないのが、“大人”の役目だ。子供たちが戦利品を手に神殿へ駆け戻っていくのを眺めながら、フィンはマックにひそっとささやいた。
「食糧はあとどのぐらいもちそうだい?」
「……分からない」途端にマックはうつむいた。「でも、このまま今までと同じ状況が続いたとしたら、長くてひと月ぐらい。神殿の内庭で、芋とか豆とか育ててるんだけど、上手くいかないんだ」
悔しそうにマックは唇を噛んだ。町の規模と立地条件からして、子供たちの中には農家出身の者も多かろうが、いかんせんまだ幼い。親に言われる通り手伝いをしているのと、なにもかも自分の手で行うのとでは大違いだ。神殿の内庭では充分な陽光もなかろうし、夜毎、獣たちに踏み荒らされるだろう。
いつまでもこのまままではいられない。フィンは兵営で感じたのと同じ焦燥に駆られ、厳しい面持ちになった。
(だからと言って、この子たちを全員連れて行くのか?)
闇の獣がその不吉な顎を開いて待ち受けていること確実な街道を、戦うどころか逃げることもままならない子供たちを大勢引き連れて――その結果どうなるかは、いちいち考えてみるまでもない。共倒れ、その一語に尽きる。
(何が何でも、ウィネアから援軍を連れて戻らないと。この子たちだけじゃない、ナナイスの皆を救うためにも)
だが、それは果たして本当に可能なのだろうか。フィンはだんだん茜色に染まりだした空を仰ぎ、忍び寄る絶望の影に身震いした。
テトナから撤退した軍団兵。脱走や崩壊でなく撤退であるなら、彼らはまとまって移動し、街道に待ち受ける獣とて切り伏せて進めたはずだ。彼らがウィネアに着いていないということはないだろう。
それでも、この町に助けは来ていない。
(ウィネアがそれどころじゃない状況なのか、それともあるいは……助ける気がないか、だ)
フィンは孤児院の壁に貼られていた地図を思い出した。それを指差しながら、面白い授業をしてくれた教師の声が、脳裏に蘇る。
――元々私たちがいるこの辺りは、ピュルマ山脈南方の本国ディアティウスから見れば、蛮族の土地だったんだよ――
太古の大戦の後、ディアティウスには多くの民族国家が乱立したが、黒髪の蛮族ヴィティア人が多く住む、冷涼で湿地の多いこの土地は、温暖で肥沃な平野に恵まれた本国から見て、さして魅力のある土地ではなかった。ただひとつ、金や鉄の鉱山が数箇所あるほかは。
それら鉱山は州の中でも南寄りの地方にある。本国にとっては、そこさえ押さえておけるなら、羊毛ぐらいしか産出しない北辺など、多大な犠牲を払ってまで取り戻す必要はないのだ。
(俺たちは見捨てられたんだ)
暗澹とした物思いに耽りながら、フィンは神殿に戻った。
中ではファウナが夕食の支度を始めており、子供たちが久方ぶりの“お母さん”に甘えたりはしゃいだりしていた。イグロスは姪を膝に抱え、数人の子供に囲まれて、あれこれと面白おかしい話を語り聞かせていた。どうやら彼は、かつては結構な読書家だったらしい。
フィンが戻ってきたのに気付くと、イグロスは話を中断し、不満げな子供たちに謝ってからこちらへやって来た。その表情は妙にさっぱりとして、何かを決めた、あるいは未練を振り切ったと察せられる。フィンは嫌な予感にたじろいだ。兵営で自分の顔を見たマスドの気持ちが、今更ながら少し分かった気がした。
そんなフィンの内心が見えるのかどうか、イグロスはじっと彼の顔を探るように見つめ――静かに告げた。
「俺はここに残るよ」
来た。フィンは目を瞑り、低く唸る。辛辣な台詞や、声を荒らげての猛反対を飛び出させぬよう、ぎりぎりで堪えてため息をつく。
フィンが何も言えずにいる間に、イグロスは続けた。
「元々俺は、親類の無事を確かめたかっただけだからな。ファーネインは見付かったし、姉貴もその旦那も死んだって分かったし……何より、ここにガキどもばかり残していくわけにゃいかねえだろ」
あんたが残ったって何も出来やしない、という言葉が喉元まで出かかり、フィンは辛うじてそれを飲み込んだ。
「待って下さい」
どうにかそれだけ言い、フィンは眉間を押さえてうつむく。考えろ、考えるんだ。何か別の方法があるはずだ、何か……。
「おまえにゃ悪いが、俺はこれ以上は行きたくない。どうせ街道には闇の獣がうじゃうじゃいる。俺とおまえだけじゃ手に負えっこない。ましてや、このガキどもを連れてって奴らの餌にするなんざ言語道断だ」
そこまで言い、イグロスは子供たちに聞かれていないかと背後を振り返って確認した。それから、さらに声を潜め、ほとんど優しいとさえ言える口調でささやいた。
「なあ、おまえだって分かってるだろ? ウィネアまで辿り着けるわけがねえんだ。隊長だってきっと、手紙が届くことも、救援が来ることも、期待なんかしちゃいなかったろうさ。無理して死にに行くこたぁない。だろ?」
「――!」
フィンは愕然となった。自分だけでなくフィンにも残れと言うのか? この小さな廃墟の町で神殿に身を隠し、わずかに残された食糧を漁り、いじけた豆や芋の蔓や草の根を齧り、いつか誰かが助けてくれるまで野兎のように生きろ、と?
脳裏をマスドの声がよぎった。
“生き返った”奴にしか行かせられん――誘惑に勝てるのはまだ生きてる奴だけだよ、小僧。
あの時はただ、絶望に負けるなという意味だとしか思わなかった。だが違う、こんな落とし穴もあったのだ。頼りなく小さくとも避難所を見つけてしまった時、そこで足を止めて休んだが最後、再び出発できなくなるという罠が。
フィンはまじまじと、穴が開くほどイグロスを凝視した。だが相手は怯みも悪びれもしない。自分が正しいと、それが当然だと信じきっているのだ。
「……考えさせて下さい」
かすれた声で言い、フィンはふらつく足取りで薪置き場へ歩いていった。町から取ってきた木切れを落とさず手に持っていたことも、それでイグロスを殴り倒さなかったことも、我ながら驚きだった。