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灰と王国  作者: 風羽洸海
第四部 忘れえぬもの
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3-6. 大森林の異変



 同じ頃、本国側の西南部オルゲニアでも、静かな異変が現れていた。

「ねえ、ニクス……なんだかこの頃、森が近くなったと思わない?」

 オリアは畑仕事の手を休め、ふと南を振り返って言った。背中におぶさっている赤子が目を覚まし、もぞもぞと小さな手足を動かす。

 畝の向こう側で、ニクスも手を止めて目蔭を差した。

「ああ、俺もそう思ってたんだ。ここに来たばかりの頃より、確かに森が近くなってるよな。自然なことなんだろうと、最初は気にしてなかったんだが」

 難しい顔になった彼の足元で、よちよち歩きの娘が土をこねくりまわしている。縄張りを巡回していた飼い犬が戻ってきて、幼子の顔を舐めた。のどかで平和な光景にオリアは目を細め、背中でむずかりだした息子をトントンと揺らしてあやした。

「以前は柴や茅を採れるところがもっと広かったわ。最近は……ちょっと奥に入ったら、もう……」

 オリアは言葉を濁して首を振る。ニクスもただ無言でうなずいた。

 村に住む者は皆、大森林に感謝と畏怖の両方を抱いている。大森林がすぐ近くにあるおかげで、この辺りには人間のならず者も、闇の獣も、ほとんど寄って来ない。いまだに帝国の軍団兵や役人にも見付かっていない。

 だがやはり大森林は、神秘に包まれた禁忌の土地だ。暮らしに必要なものを採る雑木林は村の周囲に広がっているが、南側のそれは大森林につながっている。ある一定のところを越えると、子供にも分かるほど明白に、植生と空気が一変するのだ。それに気付いたら、すぐに引き返さなければならない。でないと帰れなくなる。

 現に、この場所に村が築かれてから今までの間に、何人かは森の奥へ消えた。

 雑木林の背後から鬱蒼とした姿を見せる大森林。それがいまや、林を呑み込み、この村にまで覆いかぶさってくるかのように感じられる。

 オリアとニクスだけでなく、村の誰もがその不安を抱いていた。

 大森林のことだけではない。外の世界でもきな臭い動きがある。旧来の街まで出かけて密かに必需品の売買をする者が、噂をも仕入れてくるのだが、東の竜侯エレシアが復活したという話は既にここまで届いていた。グラウス将軍が大慌てで都を離れたことも、ナクテ竜侯から今度こそ援軍を出すべく、徴兵がそこかしこで行われていることも。

 三年前は将軍とエレシアとの戦いが思いがけず短期間で決着し、その直前まで皇帝と反目していた西の竜侯セナトが兵を動かすには至らなかった。

 だが今回は違う。今度こそ、本国を二分する大規模な戦になるのではないか――市民らはどの町でも不安げにひそひそとささやき交わしているのだ。

「竜が人の戦に関るなんて、あっちゃいけないことなのにな」

 ニクスがつぶやき、首を振った。オリアもうなずき、もう一度、丘の向こうに見える木々の梢を見やって眉をひそめる。

「……神々が、お怒りになったのかしら」

「だから大森林が動き出した、か? まさか! もし神々が戦を止めさせようとお考えなら、今度は皇都とノルニコムの間を引き裂かれるだろうさ」

 冗談めかしてニクスは言ったが、無理に作った笑いはすぐに乾いて消えた。オリアも青ざめ、瞬きもせず彼を凝視する。

 笑い事では済まされない。大戦の物語が史実であるなら、神々にはそれだけのことをする力があるのだ。ディアティウス全土を残りの陸地から隔絶することも出来たのだから、その一地方を引きちぎるぐらい、造作ない筈。

 二人はしばし無言で見つめ合っていたが、ややあってニクスが、犬に足を掻かれて我に返った。何を突っ立っているのかと問うような、犬と娘の二対のまなざしに、彼は思わず苦笑をこぼす。

「まさか、な」

 もう一度彼は言って、娘を抱き上げた。もしそうだとしても、無力な人間にはどうすることも出来ない。ただこの辺りが巻き込まれないように、大切な家族が無事であるようにと願うだけだ。

 ――そう静かに覚悟した、わずか数日後のこと。

 夜明けと共に、驚愕が村を揺るがした。

 最初に目覚めて窓を開けた村人が絶叫し、それに驚いて次々に目覚めた者らが、さらなる叫びを重ねた。

 うろたえる者、放心してへたり込む者、泣き出す者。様々な反応の中で、子供達だけは違っていた。大人の恐怖をよそに、一夜にしてすっかり変わってしまった外の世界を、まずは探検しようと家から飛び出したのだ。

 むろん親にこっぴどく叱られて引き止められた子もいたが、脱走した子供らが広場だった場所で巨木を見上げて「うおー」だの「すげー」だの騒いでいるのでは、いつまでも屋内に閉じ込めてはおけない。

 大人達とて、籠っていても仕方のない事は分かっているので、じきに一人二人と外へ出る。そして一様に、自分達をすっかり取り囲んでいる緑の木々を、畏怖と感嘆の面持ちで見上げた。

「まさか本当に、森が動いてくるなんて……」

 オリアとニクスも例外ではなかった。ぽかんとして仰向き、梢の間から覗くわずかな空を見上げて、あれは本物だろうかと訝る。

「空気が甘いな」

 ニクスが曖昧な表情でつぶやいた。大森林に特有の、しっとりと濃い空気だ。村の建物はどれも無事だったが、少し開けた場所には、道でも広場でも、樹木がどっしりと根を下ろしていた。まるで何十年も前から、そこに生えていたかのように。

 夢見心地で辺りを見回していたニクスは、村長が皆を呼び集める声に気付いて、ぱちぱちと瞬きした。どうやら全員無事かどうか、点呼して確かめようとしているらしい。

 こんな突拍子もない事態にあっても、自分の仕事を忘れないとは流石だ。ニクスはそう考えて苦笑し、オリアの背をぽんと叩いた。

「村長が呼んでるみたいだ。子供達を連れて、無事を報告しに行こう」

「あ……ええ、そうね」

 オリアもやっと目が覚めたような風情で、急いで家に戻る。まだ眠っている幼子をそれぞれ抱きかかえ、二人は広場へ向かった。正しくは、かつて広場だった場所へと。

 樹齢数百年はあろうかという巨木に占拠されて、広場はかなり狭くなっていたが、それでも村人が集まる余地ぐらいはあった。

 三々五々村人がやってきて、驚きながらもそれぞれ無事を報告する。オリアとニクスも村長に家族全員揃っていることを告げると、他の者の邪魔にならないよう、脇に避けた。そしてそのまま、待っている間の暇潰しにと、巨木を観察しながら幹に沿ってゆっくり歩いていく。

 太い幹の反対側まで来た時、聞き慣れない女の声が耳に届いた。

「オリアさん……?」

 確信のなさそうな呼びかけ。オリアは目をしばたき、声のした方を振り返った。ニクスも眉を寄せ、そちらに一歩進み出る。

 建物の間、木で少し狭くなった通りを抜けて、一人の女がこちらへやって来るのが見えた。今まで目にしたことのない、変わった織り模様の衣服を身に着けている。

 まさか、とニクスは何度目になるか、同じ言葉をつぶやいた。

「伝説のフィダエ族か?」

 小声でささやいたニクスに、オリアも声を潜めて応じる。

「知らないわ。でも、どうして私の名前……、あっ!」

 理由に思い当たったオリアは、短い叫びを上げた。そして、腕に抱いていた息子をニクスに押し付け、女の方へ走っていく。

(ファーネインだ。あの子から、私達のことを聞いたんだ!)

 では、あの子も近くにいるのか。無事で、元気でいるのだろうか。会えるのだろうか?

 波打つ黒髪と緑の目をした幼い少女の記憶が、次々に脳裏によみがえる。幸せそうにお菓子を食べる姿、拗ねた時の膨れっ面、ご機嫌な笑顔、最後にちらっとだけ見えた泣き顔。

「あの……」

 駆け寄って、息も整わないまま消息を尋ねようと口を開く。そのまま、オリアは絶句した。

 フィダエ族の衣装に身を包んだ女は、顔の半分を仮面で隠していた。だが残る半分、波打つ長い黒髪に縁取られた顔は、稀に見る美しさに恵まれていた。深緑の瞳は辺りを満たす柔らかな光を映して湖の如くきらめき、奥底には思慮と叡智を隠している。

 立ち尽くすオリアの前で、彼女はゆっくりと笑みを広げた。それは、オリアの記憶にある少女と同じ、華やかで魅力的な笑みだった。

「久しぶりですね、“お姉ちゃん”」

 柔らかな声はすっかり大人のものだったが、込められた懐かしむ響きは紛れもなく本物だった。とはいえ、オリアの方は驚き混乱するばかりで、とても懐かしむ余裕まではない。何事かと追いかけてきたニクスも、彼女の姿をはっきり見分けられると、愕然として立ち尽くす。

 二人が身じろぎさえ出来ずに見つめる前で、女――ファーネインは、静かに、しかしはっきりと告げたのだった。

「あなた方を、守りに来ました」


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