3-5. 静寂の理由
その日が暮れるまでに、フィンは三つの集団を解散させた。
どの集団も支配していたのは軍団兵崩れで、近隣の農夫や牧夫がそれに従うという図になっており、幹部次第で流れた血の量も変わった。が、概ね奇襲が奏功し、はじめに危惧したほど厄介なことにはならなかった。
フィンは元農夫らを帰らせ、武器を捨てた元軍団兵には再建への協力を約束させると、念のために周辺をぐるりとひと飛びしてから、最初に訪れた村へ様子を見に戻った。今度は離れた場所ではなく、村のすぐ近くに下りる。
黄昏が迫り、村人達は不安と焦燥に駆られた様子で、夜をしのぐ場所を確保しようと一軒の建物を総出で修復していた。男達が帰って来た今、あの穴に全員隠れることは出来ないからだ。
フィンは空を仰いで雲がないことを確かめると、そちらへ歩いて行った。気付いた村人達が作業の手を止めて彼を凝視したが、誰も歓迎はしなかった。次は何をされるのかと怯えるように息を詰めて、フィンが何かを言い出すのを待っている。
「慌てなくても、今夜は晴れそうだ。月も明るいし、闇の獣の心配はありません」
彼らが予想した言葉ではないだろうなと思いながら、フィンはごく日常的な口調で言った。
「仮にこの辺りに来たとしても、村には近寄らせません。落ち着いて、ゆっくり作業して下さい。怪我のないように」
村人の間に張りつめていた緊張と興奮の気配が、戸惑いながらも鎮まってゆく。フィンはこちらを見る一人一人にまなざしを返し、うなずいた。
食事の用意が途中で放置されているのに気付くと、フィンはそちらに歩み寄り、かまどの火を起こした。むろんレーナの力を少しばかり使ったのだが、そうと気付かれないよう、屈んで薪をごそごそいじりながら。子供達が恐れ半分、興味半分でこっそり後ろから覗き込んでくる。幼い好奇心を意識しながら、フィンはさて夕食に何を作れるかと材料を探し始めた。
フィンがそうして自ら色々な雑用をこなしていくので、村人達も次第に積極的に動き出した。まだ活気があるとは言えず、絶えず竜侯の様子を窺いながら、ではあったが。
ともあれしばしの後、フィンは村人達にまじって焚火を囲み、ささやかな夕餉を共にしていた。畑に残っていたありあわせの野菜を、男達が持ち帰ったわずかな麦と共に、水と塩で煮ただけのものだ。麦は小麦ではなく家畜用の大麦の挽き割りだが、誰も文句など言わなかった。
あるいは地べたに、あるいは石や廃材の上に腰を下ろし、陰気に黙りこくって汁をすする。しきりにフィンを気にしている子供達ですら、何も言わない。
ややあって、一人の女が「竜侯様」と切り出した。フィンが顔を上げると、女はためらいながらも、しっかりとしたまなざしを向けてきた。昼間は見られなかった意志の力が、その面に戻りつつある。
「あの……あたしら、これからどうすればいいんでしょう。竜侯様にお仕えすることになるんですか」
今後この一帯を治めるのは竜侯なのか、と訊いているのだろう。フィンは首を振った。
「俺は領主ではありません。軍団は崩壊しているし、治める人もいない現状ですが、今もこの辺りはまだ、帝国の一部です。ただ当面は、あなた方自身でなんとか生活を立て直していくしかありません。俺達もそうやって、ナナイスを少しずつ復興させてきました」
自分達で、と言われて、村人らは不安げに顔を見合わせた。戻ってきた男に憎悪の目を向ける女もいる。フィンは空になった碗を置いて、一同を見回した。
「色々、わだかまりがあるでしょう。でも今は過去を責めたり悔やんだりするのではなく、未来を見て、力を合わせることが必要です。子供達のことを考えてください。このまま、子供達をこの状態にさせておくのか。それとも、毎日きちんと食事が出来て、耕せば実りを得られる暮らしを残してやるのか」
「あたしらだって、そうしたいですよ」女が強い口調で応じた。「食べ物も着るものも、不自由しない暮らしに戻りたい。でもこんな、何もかもめちゃくちゃになった後だってのに、あたしらだけで何が出来ます? 皇帝陛下はもう何年も前に、あたしらを見捨てなさった。竜侯様が面倒見て下さらなきゃ、あたしら皆、飢え死にです」
(このまま逃げられてたまるもんか)
女のものだけでない、村人達の感情が粘つく藻のように絡みつく。
助けてくれ、見捨てないでくれ、あんたは豊かなんだろう、分け前を寄越せ……
フィンはそれらを努めて無視しながら、辛抱強く、穏やかに言った。
「これだけ人数がいれば、農作業も進むと思いますが。でも確かに、次の収穫までしのぐ食糧は必要ですね。種籾や豆なども含めて、ナナイスから援助します。本国にも報告して、物資を届けてくれるように頼んでおきますが、そっちはあまり期待しないで下さい。財政が厳しいようだし、山脈の北側で人が苦しんでいても気にしない評議員が多いので」
彼の説明に、村人達は落胆を隠さなかった。険しい顔になってうつむく者、ため息をつく者、疲れ果てたように顔を覆う者。
「……やっぱり本国は、北部のこたぁ考えちゃくれないんだな」
男が一人、ぽつりとつぶやいた。フィンが同情的な表情をすると、彼は飢えたまなざしを向けて、心の声を正直に口にした。
「あんたが本当に竜侯様だってんなら、頼むよ、俺達を見捨てないでくれ」
「見捨てはしません。ですが、俺にも出来ることと出来ないことがあります。闇の獣は遠ざけておける、食糧もしばらくの間なら援助出来る。この村を襲ってきそうな集団はすべて潰します。しかしここにいて、あなた方につきっきりで世話をするわけにはいかない」
「…………」
村人達が黙り込む。安全を取り戻せただけでも感謝すべきなのだろうが、長い間ひたすら逃げ隠れし、耐えてきて、その上ここからまた自力で歩いて行かねばならないのが辛いのだ。座り込んだまま死ぬまでもう動きたくないほどに、気力が払底している。
フィンも彼らの苦しさはよく解るので、下手な慰めも言えず、黙っていた。
と、一人の子供がおずおずとそばへやってきた。フィンの袖をちょいとつまみ、小声で問いかける。
「お姫様は……?」
思わずフィンは笑みをこぼした。同時に、光が渦を巻いてレーナが姿を現す。初めて見る男達がぎょっとなって腰を浮かせた。
大人の警戒を他所に、きれい、あったかい、と数人の子供がレーナを囲む。親の背後に隠れていた子供達も、じきにおずおずと加わった。
まとわりつかれたレーナは、どう相手をしたものか戸惑っていたが、じきにそうだと思いついてぱっと笑顔になった。ちょっと待ってね、と言い置いて焚火から離れ、周囲に邪魔なものがないところまで行く。そして、瞬きひとつの間に、本来の姿に戻った。
流石にこれには、じゃれていた子供達もたじろぎ、怯んでしり込みする。フィンは小さく笑うと、立ち上がって子供達を手招きした。
「大丈夫、怖くないよ。ふわふわで温かいから、おいで」
言って、お手本のようにレーナの柔らかな毛皮にもたれかかる。恐る恐る子供達も近寄り、最初はびくびくと、それからじきに幸せ満面になって、白いふわふわの中にてんでに埋もれてはしゃぎだした。
〈くすぐったい〉
レーナが満月のような目を細めて、もぞもぞする。フィンは笑って、ぽんぽんと首の辺りを叩いてやった。
〈悪いな。ちょっと我慢してやってくれるかい〉
〈悪くはないんだけど。なんだか、変な感じ〉
くすくす笑いを堪えているような気配が、フィンの心に伝わる。まだ竜としては幼いレーナでも、母性本能を刺激されたらしい。フィンはおどけて眉を上げたが、からかいはせず、子供達の相手を任せて火のそばへ戻った。
その頃になってようやく、先刻の女が恥ずかしそうに言った。
「すみません、お礼がまだでした。……ありがとうございます」
声が涙で揺らいだのを隠すように、女は深々と頭を下げた。久方ぶりに見る子供の笑顔に、緊張が緩んだのだろう。顔を上げた時にはもう、頬に幾筋も涙が伝っていた。
フィンは思いやりのこもった微笑で応じた。
「感謝されるには及びません。俺は自分に出来ることをしただけです。レーナも楽しんでいるようだし」
言い添えて、白い竜を振り向く。女もその視線を追い、感嘆の吐息をもらした。
「あれが……本当に、竜なんですね」
「ええ。俺も最初は信じられませんでしたが、天竜だそうです」
「南の方に竜が現れたとは、聞きましたけど……」
曖昧に女がつぶやく。フィンはそうだと思い出して一同をぐるりと見回した。
「ノルニコムの竜侯エレシアのことを、何か聞いていますか」
誰にともなく問いかける。すぐには返事がなく、皆、自信なさげに顔を見合わせるばかり。ややあって男が一人、ぼそぼそと答えた。
「もう大分前でさ。村がこんなになる前に……ちらっと、ノルニコムの領主が竜を味方にしたとか、軍団の兵営を焼け野原にしたとか、そんな噂を聞きました。本当なんですかい?」
「焼け野原は誇張だと思いますが、竜侯が現れたのは事実です。ただ、三年前に一度帝国の将軍に敗れて、行方が分からなくなっているんですが……この辺りでは、それらしいことは何も?」
「まったく何の便りも届いてねえよ」答えたのは、元軍団兵らしき男だった。「三年――四年前か、兵営がまだあった頃には、エレシア反乱の噂も届いたが、その後どうなったかはさっぱりだ」
「食糧を売ってくれとか、何かを調達するように頼まれたりは……」
「ない。よそから誰かが来ることも、モノを売り買いすることもなかったさ。もっとずっと東に行けば、そういう集団もあるかも知れねえが」
俺達には関係なかったな、と男は締めくくって、漠然と東を見やった。既にすっかり日が落ちて、そちらは真っ暗だ。
フィンはふむと考え、東に目を凝らしてみた。だが、視力の及ぶ範囲にはもう、なにがしかの勢力を持った群は見当たらない。この村と同じような弱々しい集団が、よろめきふらつきながら活動しているだけだ。
(そこまで行っている余裕はないか……)
確かめたいという気持ちはあるが、この一帯への支援を後回しにするわけにもいかない。略奪者を潰すだけ潰して、後は知らぬと放置しては、結局また農地は荒廃し、人は散り散りになってしまう。
(当面、この辺りが戦に巻き込まれなければ、良しとするしかないな)
結論を出し、フィンはうなずいた。
「分かりました。少なくとも、またすぐ物騒な連中が押しかけてくる心配はなさそうですね。明日になったら俺は一旦ナナイスに戻って、支援物資の準備をします。出来るだけ急ぎますが、しばらくかかることは了解しておいて下さい」
話が具体的になったからか、あるいはようやく実感が湧いてきたからか、村人達の顔にわずかながら希望が戻ってくる。食べ物が手に入る、以前の暮らしへの一歩を踏み出せる、そんな期待。
「とりあえず今夜は俺が不寝番をしますから、皆さんは休んで下さい。子供達は……あのままでも大丈夫でしょう」
フィンはレーナを振り返り、好き勝手に埋もれた子供達が既にぐっすり寝入っているのを見て苦笑する。村人達も、つられたように笑みをこぼした。
ようやく最後の緊張も解けたらしく、片付けを終えた村人達が三々五々、それぞれ寝床を見繕って眠りに就く。本来ここの住民でない軍団兵崩れも、今は立場は平等だ。
フィンは焚火の炎を小さく保ちつつ、レーナの姿が見えるように腰を下ろした。剣をいつでも抜けるように膝に置く。今夜は必要ないだろうと思いながらも、警戒が身に染み付いている。
と、もう皆すっかり寝静まったと思ったところへ、女が一人、足音を忍ばせてやって来た。まだ一度も口をきいていない女だ。何か内密に言いたい事があるようだと察し、フィンは振り返ったものの、声はかけずにただ小首を傾げて待った。
女は数歩離れたところに立ち尽くしていたが、ややあって、かすれ声で礼を言った。
「お情けを、ありがとうございます」
「……?」
「うちの人……夫から、聞きました。竜侯様は、たった一振りで、頭目の首を飛ばしたと。かすり傷ひとつ負わずに、襲ってきた奴らを残らず返り討ちにした、と。……夫を、見逃して下すって、ありがとうございました」
卑屈な謝辞と共に、地面に膝をつく。そのまま女がぬかずこうとしたのを、フィンは鋭く制した。
「止して下さい。俺は人殺しじゃない」
女は動かない。ますます身をこわばらせて、地に這いつくばる。フィンはため息をついた。うんざりした声音にならないよう、これ以上怯えさせないよう、苦心しながら続ける。
「顔を上げて下さい。俺はそもそも、村の人達を助けに行ったんです。皆殺しが目的じゃない。それに、あなたの聞いた話は少し大袈裟です」
恐る恐る女が顔を上げる。フィンはどんな顔をして見せたら良いのか迷い、目をそらして膝の上の剣を軽く叩いた。
「一振りで首を飛ばしたのは、俺の力じゃありません。この剣が特別なんです。かつて北部にいた竜侯が用いたものだそうで、皇帝陛下からの借り物です。俺が手傷を負わなかったのもたまたまで、あの後に向かった場所では、ちょっとひやっとしました」
もう微かな痕さえないが、左手の甲に浅い傷を受けたのだ。フィンはそこをさすってから、改めて女を見つめた。
「誤解があるようだから、他の人にも言っておいて下さい。俺は確かに竜侯ですが、物語に出てくるような、無敵の英雄じゃありません。失敗もするし、傷も負う。見た目通りの、ただの……小僧です」
自分で言って、肩を竦める。女は複雑な表情でじっとフィンを見つめていたが、ややあって目を伏せ、もう一度、無言で頭を下げた。そしてそのまま、フィンの言葉を受容も否定もせず、静かにその場を立ち去る。
取り残されたフィンは、なんとも言えない気分で焚火をつついた。パッと火の粉が舞い上がる。
〈心配しないで〉
レーナの声が優しく心に響いた。
〈フィンはフィンよ。初めて会った時から、変わっていないわ〉
〈ありがとう。俺もそのつもりなんだが、まわりはそうは見てくれないみたいだ〉
〈……どこか、遠くに行きたい?〉
そっと、ささやくように問いかける。しがらみを断ち切り、誰も竜侯だとか何だとかを気にしないような、それこそ海の向こうの大陸にでも――あるいはいっそのこと、天界へでも。どこへでも連れて行く、と。
フィンはほろ苦い笑みを浮かべ、首を振った。
〈いいや。まだ、いいよ〉
逃げ出すわけに行かないことは、レーナも分かっているのだ。問いかけには、すべてが片付いたら、ここを離れても良いと思える時が来たら、との含みがあった。
〈でもいつか……そんな気分になるかもしれないな。いつか、ずっと未来には〉
フィンは寂しい気分でそんなことを思った。何気なく空を仰ぐと、月が冴え冴えと白く光っていた。星さえも連れず、たった一人、遥かな高みで。
意識の中で、レーナの光が自分を包み込んでくれるのが分かる。それ以上の言葉はなく、二人は互いの温もりを感じながら、夜のしじまに耳を澄ませていた。
――ゆっくりと、月が西へと傾いてゆく。薄雲が光を遮り、夜が深さを増して。
気が付くと、辺りには濃い闇が立ち込めていた。
フィンは剣の柄を握り、用心深く立ち上がった。だがレーナは子供達を懐に抱いたまま、動かない。どうやら危険はないようだが、しかし、フィンは落ち着かない気配を感じて周囲を見回した。
〈変だな。闇の眷属がいるようには思えないのに、この気配は……〉
〈なんだか気持ちが悪いわ。ナルーグ様の力じゃない。澱んで、濁ってる。すぐに害になるという感じではないけれど〉
レーナも不安げに首を伸ばし、闇の奥を窺う。漠然とした、それでいて濃密な気配が漂っていた。
――来イ……
明瞭な言葉でも声でもない、はっきりと呼びかけるでもない。しかし確かに引き寄せる力を感じる。
その力の源、はるか遠くに、強烈な悪意があると察知された。底なしの飢餓をともなって、ありとあらゆるものを手当たり次第に飲み込んでゆく。
〈あれは何なんだ〉
〈私にも分からない。とても深くて怖い……まるで、〉
言いかけてやめたレーナが何を意識したのか、フィンにも分かった。
まるで、奈落のようだ。
フィンは直接その目で奈落を見た事はない。若いレーナも同様だろう。だがそれでも、奈落とはああいうものだと感じられた。
レーナが一帯を評して「空っぽだ」と言ったのも、夜毎このさまなのだとしたら、うなずける。闇の眷属のみならず、何もかも無差別にあの虚ろな飢餓に貪り食われたのだろう。精霊や小さな生き物達、あるいは人間の活力といったものまでが。
ぞくりと悪寒が走る。フィンは意識の中で光を巡らせ、自身とレーナ、それに村全体を、防壁で取り囲んだ。意図してしたのではなく、ただ本能的に身を守ろうとしたのだ。
と、まるでそれが分かったかのように、引く力が弱くなった。
すうっと気配が薄れ、光と同じ速さで影が退くと同様に、抵抗もなくするりと消えてゆく。
雲が切れて月明かりが地上を照らしても、尚しばらくフィンはじっと立ち尽くしていた。
(あれが原因なのか。あの力に引かれて、闇の眷属が北部から去っていったのか?)
だとしたら、目的は何なのだろう。いや、そもそも目的などというものがあるのだろうか。あの恐ろしい奈落の淵に。
(のんびり様子を見ている場合じゃなさそうだ)
南で禍々しい異変が起ころうとしている。フィンはゆっくりと剣を鞘におさめ、頭を振った。
村人の眠りを妨げないよう、静かに歩いて村外れまで出る。一歩一歩、レーナの力を少しずつ染み込ませながら、彼はぐるりと村を囲むように足跡の境界線を引いた。闇の獣を遠ざけるのと同じこの方法で、あの奈落の飢えた手から人々を守れるのかどうか、確信はない。だが何もしないよりはましだ。
(夜が明けたら、すぐにナナイスに戻って用事を片付けて、本国へ行こう)
取り急ぎ支援物資の準備と、あとは……
(ああそうか、しまった)
マックとネリスの結婚式。それに、自分のも。
先延ばしには出来ない、だが手間取る行事が控えていることを思い出し、フィンは顔をしかめた。喜ばしい事であるのに、今はそれどころではないと気が急いてしまう。
(落ち着け、焦るな)
フィンは苛立ちを抑えようと深呼吸した。
今すぐに害になるとは思えない、とレーナは言った。確かにあれは嫌な気配ではあったが、急激な変化をしている様子はなかった。放置しておいたら悪化する一方だろうが、だからと言って、普通の人間が気付くほどの速さで変化することはないだろう。たとえば十日やそこらでは。
レーナと絆を結んで以来、フィンもまた人ならぬものにとっての時間を理解し始めていた。人間の生きている時間は、彼らから見ればひどく忙しなく、短い。この世界をかたちづくる神々の力は、もっとゆっくり、長い時をかけて緩やかに動いているのだ。
あの奈落もそうした事象のひとつならば、人間の感覚で焦る必要はない。
それに比べたら、この村への支援はずっと急を要する。誰も彼も長らく満足に食べられていないし、母親の乳が出なくて子も痩せ細り、数日の遅れが命取りになりかねない。
(ひとつずつ、ちゃんとして行かないとな)
大きな事態に目を奪われて、小さな命が消えるのを見過ごしては、本末転倒だ。
結婚式の準備についてはマックとネリスに任せてしまえば、フィンは並行して支援物資の方を用意できる。小麦と塩の袋ぐらいなら、先にレーナと一緒に往復して運んでもいい。やるべき事をきちんとやって――本国へ行くのは、それからだ。
フィンはもう一度ゆっくり呼吸をして、南の空を見やった。




