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灰と王国  作者: 風羽洸海
第四部 忘れえぬもの
144/209

3-2. 草原の民

「なんでだよ……」

 悠々と流れる大河を前に、軍団兵はむなしく焦りを募らせていた。

「なんでこんな季節に」

 本来ならば夏のティオル河はもっと水位が低い。ここ十日以上、まとまった雨も降っていない。だのに、

「向こう岸に渡れないなんて、おかしいだろ!」

 伝えるべき知らせを携えたまま、どこか渡れそうな場所はないかと行きつ戻りつする。

 ここに辿り着くまでに、既に相当な時間を費やしていた。橋という橋すべてが落ちていたからだ。まるで、敵が先回りして破壊したかのように。だがそんなはずはない、まだノルニコムとドルファエの兵は、州都コムスに達してもいないのだから。少なくとも、彼が発った時にはそうだった。

 通り道にいた農民や商人に聞いた話では、ほとんどの橋は夜、誰も気付かぬ間に崩れていたらしい。頑丈な石造りの橋の場合は、轟音と爆炎が上がったという話もあった。

(そっちは解る)

 伝令は降り始めた小糠雨に顔をしかめ、薄く煙る対岸に目を凝らした。

(あの女の仕業だ)

 息を吹き返した炎竜侯が、単騎夜空を駆けて伝令の道を阻んだに決まっている。

 だがこの雨や、時期外れの河川増水は解せない。水は炎と相反するものだろうに。それとも、あの女は炎神ゲンスのみならず女神フェリニムをも味方につけてしまったのだろうか。

 北から変事を告げる使者がコムスに駆けつけたその日に、皇都へと最初の伝令が走った。だが、わずか二日後に馬だけが戻ってきた。強盗に襲われたか、あるいは敵の小部隊が別方面から迂回して待ち伏せていたのかと、少数の部隊を組んで派遣したが、やはり結果は散々だった。土砂降りに遭い、川に流されて散り散りになり、ようやく一人だけ徒歩で戻ってきた。封緘書袋は失われ、その兵も高熱のため足元がおぼつかない有様だった。

 そんなことが三度、四度と続けば、もう偶然ではない。敵が仕組んだ罠だ。

 彼も、コムスを発った時は仲間が四人いた。しかし川を渡る度に一人、二人と減っていった。

 一人目は馬に振り落とされて水に呑まれ、そのまま浮かんでこなかった。馬の腹が濡れない程度の流れだったというのに。二人目が同様に消えた後、残る三人は慎重になった。

 出来るだけ水に濡れない場所を探して何日もうろうろし、幅の狭い河の場合は、対岸に通りかかった者に手伝わせて縄を張ってから、それを頼りに渡った。

 どうにかティオル河まで辿り着いたが、この川幅ではもうその手は使えない。対岸にアクテの兵営が霞んでいるが、叫び声も矢も届かないし、狼煙を上げようとすれば雨が降り出す始末だ。仕方なく、二人がそれぞれ上流と下流へ、渡河可能な場所を探して走り、今こうして彼一人が虚しくうろうろしている。

 日数はかかっても、いつかは、別れた二人の内どちらかが皇都へ知らせを運ぶだろう。河が海に出るか、あるいは地に潜るところまで行けば。だがそれまで待っていたら、東部は完全に竜侯のものになってしまう。

「…………」

 彼は無言で顔の雨滴を拭い、対岸を睨んだ。

 見た目だけで言えば、ティオル河は水位こそ高いものの、流れは静かだった。泳いで渡れそうなほどに。

 意を決して馬を下り、鎧を脱ぐ。封緘書袋を体にしっかり結わえ付けてから、彼は天を仰いだ。

「女神フェリニムよ、どうか私にご加護を。炎が東部を飲み込む前に、この知らせを届けさせ給え。無事対岸に泳ぎ着かせて下されば、この場所に貴方の祠を建てることを誓います」

 祈りを捧げ、彼は運命を女神に委ねて河に飛び込んだ。


「長セニオン。アクテに伝令が辿り着いたわ」

「なんだ、もうか。あまり時間稼ぎは出来なかったな。まだ都を拝んでもいないのに」

 コムスから数日の距離にある小さな町の外れ、果樹園の木陰でセニオンは呑気に李をかじっていた。収穫されず木に残っていた実だ。

 リアネは族長の向こうに見える赤毛の女を無視して、肩を竦めた。

「仕方ないわ。精霊が聞いてくれる頼みは限られているし、あたしは魔術師じゃないから、無理強いすることも出来ない。帝国人にも水の加護を授かっている者はいるわけだし」

「戦嫌いの呪い師に忍耐を強いているのだから、贅沢は言わんさ」

 セニオンはにやりと笑うと、リアネの不機嫌な視線を意に介さず、平然とエレシアに声をかけた。

「連中が来るまでに、都に着けると思うか?」

「もちろん、着くだけならこちらが早いでしょう」エレシアは淡白に応じる。「わたくし達はのんびりしても三日あればロフリアに着く。けれどアクテから皇都までは、どんなに馬を飛ばしても二日はかかる。それから将軍一人が駆けつけたとしても同じく二日。ティオル河には今、橋がないのだから、ノルニコム領内に出てくるまで半月はかかるかしら」

「ならば余裕だな」

 セニオンは李の種をそこらに捨てると、ゆっくりエレシアに近寄った。

「三日もあれば着く、か。では俺も、三日後には楽しめるわけだ」

 舌なめずりせんばかりの声音。聞いていたリアネの方が眉を寄せたが、エレシアは嫣然と微笑んだだけだった。

「お忘れなく。ロフリアの都を手に入れられてから、という約束よ、族長セニオン。都を外から眺めるだけにしろと言うなら、貴方にもそのようにして頂かなくてはね」

「っははは! それだけでも俺は楽しめそうだがな。折角の機会だ、おまえには存分に懐かしい都を堪能させてやるとも。隅から隅までその唇で触れ、舌で味わうがいい」

 俺もそうさせてもらう、とささやいて、セニオンは上機嫌に果樹園を出て行く。エレシアは笑みを浮かべたまま、リアネはしかめっ面で、それぞれ族長を見送った。

 ややあってセニオンの後姿が完全に見えなくなると、リアネはエレシアに詰め寄って憤慨した。

「あんな言い方を許しておくの? あなた、落ちぶれていても帝国貴族でしょう。野蛮人の長にああまで言われて、よく笑っていられるわね!」

「貴族だから、笑っていられるのよ」

 エレシアは優雅な微笑を崩さぬまま、ほとんど慈悲深くさえある声で応じた。

「わたくしの国を取り返す為なら、わたくしの民を皇帝の軛から解き放つ為なら、辱めの最中にさえ笑みを浮かべて見せる。わたくしはティウス家の主、ノルニコムの王なのよ」

「だからって、あたしを小娘扱いしないで欲しいわね」

「あら、そんな風に聞こえて?」

「聞こえるわよ、奥方様」

 リアネは精一杯、厭味を込めてわざとらしく、相手が既婚であることを強調する。暗に年増呼ばわりされたエレシアは、あら、と片眉を上げた。十年前ならカチンと来ていただろうが、三十代も半ばを過ぎた今では、むしろ可愛らしく思える。

 エレシアがつい微笑むと、リアネはますます不機嫌になった。エレシアは強いて表情を取り繕い、こほんと咳払いしてごまかす。

 リアネはまだ何か言いたそうな顔をしていたが、怒鳴っても喚いても子供っぽさを露呈するだけだと悟ってか、無言のまま憤然と踵を返して立ち去った。

〈水の性を持ちながら、随分と激しい娘だ〉

 リアネがいる間は大人しく隠れていたゲンシャスが、呆れたような声を寄越した。エレシアは苦笑をこぼし、やれやれと頭を振る。

〈女とはそういうものよ、シャス。それに、水と言っても静かなばかりではないわ。おまえも油断していたら、大渦に呑まれるわよ〉

〈おまえの冗談も笑えぬものだな〉

〈冗談? いいえ、わたくしは真面目よ。だから無理して笑わなくても結構〉

〈…………〉

 ぷすん、と煙がくすぶったような気配がして、エレシアの鼻を焦げ臭い空気がかすめる。彼女は一人おどけた笑みを浮かべると、肩にかかる豊かな赤毛をばさりと後ろへ払ってから、颯爽と歩き出した。

 ――と、果樹園を出る手前で、セニオンが待ち伏せていた。てっきり先に戻ったものと思っていたエレシアは、不審げに眉を寄せる。

「何か言い忘れたことでも?」

「いや。リアネがやたらめったら怒っていたからな。しばらく行方をくらましたかっただけだ。ついでに、もう少しおまえと楽しみたい」

 セニオンはにやりとしてエレシアの行く手をふさぐ。彼の体格はドルファエ人としては平均的で、しなやかで力強くはあるが、エレシアを威圧するほどの巨体ではない。押しのけるのは難しくないが、エレシアはあえて、困ったような表情を作ってその場に佇んだ。

 彼の意志を無視すれば、後で面倒なことになる。そう思わせる気配を、セニオンは常に発散させていた。むろん、それに容易く呑まれるエレシアではなかったが。

「少し度が過ぎるのではなくて、セニオン?」

「何の話だ」

 セニオンはとぼけ、エレシアの間近に迫って顎に手をかける。エレシアは好きにさせておきながら、鋭い言葉を錐のようにねじ込んだ。

「呪い師の前だと、随分、ご自分の男らしさをひけらかすようだけれど。お止しになった方が、彼女の尊敬を得られるのではないかしら」

「…………」

 途端にセニオンは苦虫を噛み潰し、エレシアから手を離した。エレシアは自分の指摘がもたらした効果を満足げに眺め、笑いを堪えて同情的に言う。

「さしもの族長も、呪い師の扱いにはお困りのようですわね。彼女の方は、あなたにご執心のようだけれど」

「馬鹿な!」セニオンは即座に一蹴した。「あれが俺を見る目の、どんなに恐ろしいことか! まるでがみがみ屋の母親だ。隙あらば小言叱責の礫を投げつけようと、常に見張っている。小娘のくせに」

「気の毒だこと」

 エレシアは失笑まじりにつぶやいた。セニオンが、ではなく、リアネが、である。恐らく彼女は彼女で、族長が気になって仕方がないのだろう。だが呪い師という立場上、族長に媚びるのは論外、服従と取られそうな姿勢も見せられない。精霊の声を聞き、時に族長の指図を真っ向から否定する必要があるのだから。

 そうでなくともあの気性では、なかなか素直に恋情を示せまい。

 押し殺した笑いをくすくす漏らすエレシアに、セニオンは仏頂面で言った。

「俺は族長だ。たとえ呪い師だろうと、必要な時には押さえ込める力を示さねばならん。部族をまとめるのは、戦士でなければならんのだ」

「ええ、それはわたくしも学びました」

 エレシアはささやきで応じた。

 ノルニコムは長らくドルファエと勢力圏の境を接してきたが、交易は専らマズラ人の領分だった。自分達で直接売買に来れば良いものを、と訝っていたのだが、どうやらドルファエ人にとって“商取引”とは、いくらか卑しいものであるようだ。

(だから、前の時はドルファエ人の支援が得られなかった)

 第一軍団の兵営を叩き潰し、略奪し放題にして、結局それだけで草原に引き揚げてしまった。盟約を結んだ相手が苦戦していても、助けを申し出もしなかった。

 それは、彼らにとってはつまらぬことだから。与えるか、奪うか。それで話は終わりだ。

 すべてのドルファエ人がそうだとは、限らないようだが……。

「だからあなたは、戦士らしくあろうと苦心していらっしゃる」

 エレシアは用心深く小声で続けた。セニオンが渋面をしてから、フンと鼻を鳴らして腕組みし、そっくり返る。

「らしく、も何もあるか。俺は事実、戦士だ。部族で最強のな」

「そのようですわね」

 微笑んで受け流すエレシア。セニオンはチッと舌打ちした。

「興をそぐな。いいか、俺はおまえを抱きたいだけだ。その他の諸々はおまえが言い出しただけで、俺から頼んだわけではないぞ」

「ええ、もちろん。何かと取り決めをしたがるのは、古来帝国人の方でしたわね」

「…………」

 涼しい顔のエレシアに、セニオンは不機嫌な唸りを漏らす。これ以上あれこれ言い合っても不毛と察し、彼は「先に戻る」とぶっきらぼうに告げて大股に歩いて行った。

〈本日二人目の撃破、だな〉

 とぼけてゲンシャスが揶揄した。エレシアは思わずふきだし、慌てて口元を押さえる。

 珍しくエレシアを笑わせることが出来たからか、ゲンシャスは愉快げな気配を送ってきた。炎が盛んにはぜるような、明るい気配だった。


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