2-7. 義弟
「兄貴、ちょっと話があるんだけど、いいかな」
珍しく改まった様子で、マックがフィンの部屋を訪れた。フィンは顔を上げ、ああ、とうなずいて読んでいた手紙を机上に伏せる。
「それは?」
マックは小首を傾げ、邪魔だったかと案ずるように問うた。
「ヴァリス様からの親書だ。後でいい」
フィンは簡単に答えると、机から離れてマックと向かい合った。マックは邪険にされた手紙を見やって、同情的に苦笑する。
「皇帝陛下の手紙を『後でいい』扱いなんて、兄貴も豪気だね」
「手紙は逃げないさ。それで? 何か問題が起こった、って顔じゃないな」
「うん。……その、俺さ、今度の冬で二十歳になるし。天竜隊の隊員として給料貰ってるだけじゃなく、竜侯様の副官に格上げして貰ったし……だから」
むろん副官などと言っても、名目上の肩書きだ。正規の軍団兵としての階級でもなければ、特別手当が出るでもない。彼は他の隊員と違って町の治安維持よりもフィン個人を補佐することが多いため、何が正で副なのかよく分からないまま、副官という立場におさまったのだ。
もう粉屋ではないのに適当すぎる、とヴァルトは呆れたが、だからとて、由緒正しい竜侯家のように関係者の地位と権限を組織化すべきだとは言い出さなかった。ヴァルトに限らず、誰も。フィンが“領主”になってしまうのを忌避した為でもあるし、本音を言えば、単に面倒くさかったのである。
閑話休題。
フィンはマックの態度から言い出さんとしている内容を察し、しかつめらしく相手を観察しながら応じた。
「そうだな、もう文句なしに一人前だな。俺もいい加減に、おまえの頭に手を置く癖を改めないと」
「それは別にいいよ。人前ではやめて欲しいけど」
「そうか?」
白々しくフィンはとぼける。マックは胡散臭げに彼を見上げ、やれやれと頭を振った。
「……決心が鈍るなぁ。俺、ずっと兄貴のこんな調子に付き合わされるのか」
聞かせる為の独り言。フィンは堪えきれずに失笑した。
「ネリスの為だろう、我慢しろ」
「すっとぼけておいて、先に言うのは無しだよ。まったく……。兄貴、じゃない、竜侯フィニアス様。改めて、本日は結婚の許可を頂きに参りました」
マックはぴしりと背筋を伸ばし、真っ直ぐにフィンを見つめてはっきりと言った。フィンは少しくすぐったい気分を味わいつつ、真顔を取り繕ってうなずく。
「相手は?」
「閣下の妹君、ネリスです」
「許可しよう。……それはともかく、本人には言ったのか?」
堅苦しく応じてから、フィンは儀式終了とばかり、いつもの口調に戻る。マックも休めの姿勢になって、照れ笑いを浮かべた。
「ネリスにも、オアンドゥスさんにも、承諾して貰ったよ。兄貴は……まあ、普通だったらお伺いを立てる必要はないんだけど、なんたって竜侯様だし。そうじゃなくても、きちんと認めて貰いたかったからね」
「今更だな」フィンは苦笑した。「俺はとっくに、おまえを弟みたいに思ってるよ。おじさん達だって、おまえのことは家族扱いしてるじゃないか。あんまり親しすぎて、ネリスに相手にされてないんじゃないかと心配したぐらいだ」
実際にはもう三年前から、フィンの目には二人の間に通う糸のような絆が見えていた。二人が既に家族のように遠慮のないやりとりをしていても、そこに素朴な親しみ以外のものが込められているのは明らかだった。
少しずつ絆が強まっていくのを見ていたフィンにとっては、ようやくこの日が来たか、という気分だ。感慨に耽る代わりに、彼はマックの頭をくしゃくしゃにしてやった。
「おまえもネリスも、見る目があったようで嬉しいよ」
「ちょっ、兄貴! 別にいいとは言ったけど、そこまでは……!」
慌ててマックが頭を庇う。手の届かないところへ逃げてから、マックは恨めしげにフィンを睨んだ。髪を手櫛で整え、やれやれと嘆息する。
「オアンドゥスさんとも相談したんだけど、当面は今まで通り、兄貴達と一緒に住むよ。部屋だけちょっと移るけどさ。二人だけの新居を建てるには、余裕がないから」
「そうだな……ナナイスにも他所の業者が色々入ってくるようになったし、そろそろまともな官邸を建てて、そっちへ移る潮時かもしれないな」
うーん、とフィンは考えながら唸った。
今のところフィン達は家族揃って、復興初期に建てた共同住宅で暮らしている。ネリスは神殿で、フィンとオアンドゥスは市庁舎で、それぞれ泊まり込みになることも少なくないが、本来の住居は広場に近い普通の住宅なのだ。
そこに、人がやって来る。オアンドゥスは市議会議長だし、フィンは本国側との折衝役で、しかも竜侯であるからして、相談事や依頼を抱えた市民が頻繁に訪れるのだ。市庁舎でも面会時間をたっぷり設けているが、人目の多い昼間に公共の場ではちょっと、という用件は、自宅に持ち込まれてしまう。
中にはいささか性質の悪い者もいて、待たされると大声で喚いたり、要求が通らないと暴れだすこともある。近所迷惑この上ない。
「次の議会で提案してみよう。どうせなら、うんと広い芝生の庭を造って、レーナが本来の姿で日向ぼっこできるようにするのも楽しそうだ」
フィンは冗談のつもりで笑ったが、マックは妙案だとばかり、うんうんとうなずいた。
「いいな、それ。皆にも時々、レーナが本当に竜だってことを思い出して貰わなきゃ。広い芝生があれば、競技会とかも開けるし、色々なことに使えるだろうしね」
「……本気か?」
「あれ、冗談だったのかい? 兄貴のことだから、大真面目なんだとばかり。でもまあ、庭はともかく実際に官邸は必要だと思うよ。また領主様っぽくなって嫌だろうけど、今の住まいじゃ大勢の来客はさばけないし――言いたくはないけど、ちょっと危ない」
マックは言葉尻で眉をひそめ、声を低めた。フィンも真顔になり、無言でうなずく。
公金や重要書類などは市庁舎にまとめて保管し、天竜隊が昼夜警備をしている。だがオアンドゥス一家の自宅が無防備で良いとはならないのだ。個人の印章や、市民からの私的な手紙なども、盗まれたら市政絡みで悪用されかねない。それに、竜侯本人は無理でも家族を脅せば、己の要求を通せると考える輩がいないとも限らない。
フィンは小さくため息をついた。
「いっそ三年前の、何にもない頃が懐かしいな。街の全員が顔見知りで、貨幣は船長への支払いに使うだけ、皆があるものすべてを共有して、ややこしい問題は何もなかった」
「そうだね。でも俺は、ネリスの手荒れがましになった今の方がいいな」
マックが実に自然にのろける。フィンは失笑し、気を取り直した。そう、確かに、生活は随分楽になった。
「ネリスもあの頃は、祭司らしいことをやってる暇もなかったからな」
ひたすら、畑仕事に裁縫に炊事、身の回りのことに追われるばかりだった。それが一年経ち二年経って、簡単な儀式ぐらいは彼女一人で済ませられるようになった。たとえば、結婚式での女神の祝福だとか。
「……今度はネリスが祝福される側だな。誰かウィネアから祭司様に来て貰わないと」
「そうだね」
しみじみと言ったフィンに、マックも恥ずかしそうな返事をする。彼は照れ隠しにこほんと咳払いして、話題の主体をすり替えた。
「兄貴はどうするのかな」
「うん?」
「兄貴が結婚する時。ネリスに頼むのか、別のもっと貫禄のある祭司様を呼ぶのかと思ってさ」
げほ、とフィンが空気にむせる。マックはなんとなく室内を見回し、レーナが出てこないかと待ってから続けた。
「レーナと約束はしてるんだろう?」
「ああ、いや、その……」
三年も経つのにまだ保留中で、などとは、あまりに不甲斐なくて言えない。フィンは困り果てて、ごにょごにょと無意味なことをつぶやいた。
返答に窮しているフィンを、マックは灰色の目でじっと見つめていた。その表情に、からかう気配は微塵もない。ややあって彼は静かに言った。
「ナクテ竜侯のことを考えてるのかい。ネラさんのご先祖だっていう話」
思いがけず深刻な話題を持ち出され、フィンは表情を改めた。ため息をつき、ちょっと頭を掻く。
「それもある。おまえに隠し事は出来ないな。実際、レーナをその……そういう相手として見られないのも確かなんだが、そこにあの話の影響がないとは言い切れない」
フィンの中でレーナはまだ、竜と少女との境に位置している。だが、後者に傾くことは難しくないという自覚はあった。あれほど見た目も愛らしく、全身全霊でフィンのことを好いてくれているのだ。愛し合い、子を成し、生涯を共にする相手として不足はない。一人の女性として見ようと思えば――まだ色々な面で幼いようではあるものの――それほど苦労せず認識を変えられるだろう。
だが、それだけに、彼の慎重な部分があえて手綱を引くのだ。
初代ナクテ竜侯が竜との間に子をもうけたという話は、子孫であるネラ本人に会わなければ、到底信じられなかっただろう。ましてやその竜侯が親族によって殺された、などとは。
「竜との絆はとても強い。竜と人間を同時に伴侶にするなんて、俺にはとても信じられない。何か……理由があったんだろう。本人にか、周囲に。そうせざるを得ないような、何かが」
そしてその結果、悲劇が起きた。自分の身にもそれが降りかからないと、どうして言えよう。彼は大戦で勲功成った貴族ではないから、跡継ぎの問題はないかもしれないが、しかし人より遥かに長い寿命を考えると、現状だけを見て安心することは出来ない。
あるいは、竜を愛することで、絆を結ぶ以上の何かが起こるのかもしれない。親族殺しを誘発せずにはおかないような変化が。
いずれにせよ、そうした危険を考えると、簡単にレーナの気持ちに応えることは出来なかった。少なくとも、今、自分が大切にしている人達を傷付けることだけは避けたい。
沈んだ顔で口をつぐんだフィンに、マックがゆっくりと、しかし力強く断言した。
「何があっても、俺は兄貴の味方だよ。それだけは信じて欲しい。竜侯であるのがどういうことか、俺には想像もつかないし、兄貴が色んな可能性を考えて慎重になるのも当然だと思う。でも、たとえ兄貴がどうにかなってしまったとしても、俺は絶対に兄貴と一緒に行く」
「ありがたい言葉だが、あんまり気前良くそんな約束をするものじゃないぞ」
フィンはほろ苦い笑みを浮かべた。そう、本当に、マックには想像もつかないのだ。竜の力を使うのがどんな感覚か、それが当たり前になってゆくことへの恐れがどんなものか。かつてレーナが、とてつもなく大きな代償だと言った、その本当の意味も――。
だがそれでもマックは、迷いも怯みもせずに微笑んだ。
「とっくの昔に決めたことだよ。兄貴が俺達をウィネアまで連れて行ってくれた、あの時にね」
「…………」
一点の曇りもない、澄んだ光が彼の中心に宿っている。フィンは胸を突かれ、しばし絶句した。ややあって返すことが出来たのは、どうにも気の利かない一言だけだった。
「どうやら俺は、知らずに大した値打ち物を拾っていたみたいだな」
「そういうこと」
マックはにやりとおどけて応じ、気分を変えようとばかり、肩を竦めて机の傍に寄った。
「ところでさ、レーナの庭作りはいいとして、皇帝陛下の手紙は何だったんだい」




