2-6. 少女の決意
大森林に暮らしていると、外でどのぐらいの時間が経っているのかは勿論のこと、自分の年齢も分からなくなってくる。ファーネインは小さな泉に映る己の姿をそっと覗きこみ、すぐに頭を振って身を引いた。
(やっぱり、だめ)
ひきつれた顔を直視できず、ため息をつく。最初は不気味でおぞましくて見られなかった。だが今、目を背ける理由は少し違う。見れば嫌悪で胸がむかつき、暴れだしてしまうと分かっているからだ。草木をむしる程度ならまだしも、拳や頭を木の幹に激しく叩きつけ、イゲッサに押さえ込まれるまで自分では止められない。
何度も自傷を繰り返し続け、流石に疲れた。激しい感情の爆発を制御できないのなら、そもそもの原因を遠ざけておくしかない。そう決めて以来、彼女は自分の顔を見ていなかった。
諦めて立ち上がり、背丈の印を刻んだ木の幹にもたれる。顔は見られずとも、身長ならばこうして測る事が出来る。
(大きくなった)
こんな自分でも、ともかくひとつは確実に変化しているのだ。ファーネインは複雑な気分で、ひとつひとつ印をなぞった。
「おやおや、また測ってるのかい」
楽しげな声と共にイゲッサが姿を現す。ファーネインは振り向き、おずおずと問いを返した。
「もうじき、追い越しちゃう。だって、イゲッサは小人族なんでしょう」
目の高さが同じぐらいになってきた頃から、そうだろうと考えていた。フィダエ族とはまったく違っているし、外の世界にいた頃に接した大人達は皆、イゲッサよりずっと大きかった。
ファーネインの問いに、イゲッサは肩を竦めて鼻を鳴らした。
「あたしらは自分で小人だとは言わないけどね。エイファネスっていうんだよ。あんた達テガヌスはすぐに自分達の基準でものを言うんだから、困りもんだね」
「……イゲッサも、あたし達のこと、嫌い?」
「あんたのことは好きだよ、ファーネイン。安心おし。ほかの連中は知らないから、好きでも嫌いでもないけどね。ああ、だけど本当に背が伸びたねぇ。もう明日には、ずんと上からあたしを見下ろしてそうだよ」
イゲッサは苦笑し、ファーネインの頭に手を置いた。初めて会った時、そのつむじを簡単に見下ろせたのが、今ではもう嘘のようだ。
ファーネインは地面に膝をつき、イゲッサの腰に抱きついた。
「ずっと、小さいままでいいのに。……うんと大きくなっちゃっても、お母さんで、いてくれる?」
「嬉しいこと言ってくれるじゃないの。よしよし、大丈夫だよ」
イゲッサはにこにこしながらファーネインの頭を撫でていたが、ふとそこで表情を変えた。
「本当に、うちの子になるかい? それだったら、ほかの子にも会って貰わなきゃならないよ。あんたの兄さん姉さんになる子達だ。と言っても、あんたより背はちっこいから、怖がらなくてもいいけどね」
「……きょうだい……」
ファーネインはぽつりとつぶやいた。
(フィン兄さん)
ふわりと名前が脳裏に蘇る。思い出そうとしてもなかなか出てこなかった名前が。
(お菓子のお姉ちゃん、マック……)
次々に懐かしい姿が浮かび上がっては消えてゆく。深緑の目が潤み、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。コムリスからウィネア、そしてテトナへと、記憶の船が遡ってゆく。
(お母さん、お父さん)
ファーネインはイゲッサを離し、地面に両手をついた。湿った土を握りしめるように、ぎゅっと拳をつくる。
「だめ……」
ほとんど無意識に、小さく震える声がこぼれた。ふるふると首を振り、駄目、ともう一度繰り返す。
(あたしの家族。お父さん、お母さん、みんな忘れちゃうのは、駄目)
本当は何もかも忘れてしまいたい。この森に来る前の事、外の世界の存在そのものさえ。飢えと暴力、闇の獣の青い灯、火傷の痛み、恐ろしい男達のこと、それらすべてを。
だが記憶は追い払っても追い払っても、戻ってくる。きっと一生忘れられないだろう。それに、忘れてしまってはいけないものも、その中にはまじっているのだ。優しくしてくれた人の記憶、生まれ育った家の匂い、村での幸せな日々が。
黙ってしまったファーネインを、イゲッサは優しく見つめていたが、ややあって、軽くぽんぽんと背中を叩いた。
「そうかい、うん、そうだねぇ。みんな忘れてうちの子になっちゃっても、いいとは思うけど。昔を思い出しても大丈夫になれたら、それが一番いいよ。けどまぁ、この森にいる間は、あたしらがもうひとつの家族だと思っとくれ。あんたもそろそろ、歳の近いのと話をしたいだろう? フィダエの人らは全然違う生き物みたいだしね。喋らないと言葉も忘れちまうよ」
「…………」
ファーネインは無言でこくんと小さくうなずいた。実際はもちろんまだ怖い。小人族だろうと何だろうと、イゲッサ以外の誰かと、それも一度に何人もと会うことを考えると、身が竦む。だがいつまでもここでうずくまってはいられないのだ。
自分で言った通り、彼女はじきにイゲッサの背丈を追い越すだろう。追い越して、きっともっと高くなる。フィダエ族の大人のように。そうなれば、いくらイゲッサが“優しいお母さん”であっても、否応なく種族の違いを思い知らされる。自分が属する世界はここではないと、会う度に思い出すことになる。
ファーネインはのろのろと拳を開き、地面に膝をついたまま背筋を伸ばした。
――その日から彼女は、少しずつ元のような口数を取り戻していった。
イゲッサの家族にも会った。最初は一人二人ずつ、やがて家族全員と、さらには親族まで交えて。イゲッサがきつく言い含めたからか、ファーネインと歳の近い子供達さえ、彼女の顔をじろじろ見たり、無神経な言葉を投げつけることはなかった。
代わりに彼らは、様々なことをファーネインに教えてくれた。
森で採れる食べ物のこと、笛の作り方や奏で方、エイファネスに伝わる様々な昔話、彼らから見た帝国の歴史。
「森の外のことも知ってるの?」
教師も顔負けの知識量に、ファーネインは驚かされるばかりだった。イゲッサが横から笑って口を挟む。
「あたしらはフィダエの人達と違って、外の人と同じように歳をとるし、帝国の様子なんかもちゃんと情報を仕入れてるんだよ。一口に森ったって広いから、あっちこっちに分かれて暮らしているし、山脈に住んでる一族とも多少は行き来がある。数は少ないけど、背の高い連中は街にもこっそり住んでいるしね。だから、テガヌスはほとんどあたし達に気付かないけど、こっちからは向こうをよく見てるのさ」
「知らなかった。あの、それじゃあ、あの人の事も分かる? イゲッサが来てくれるより前に、フィダエ族のところにいた人。あたしより少しだけ年上みたいな、男の子で」
「ああ、セナト坊ちゃんかい。ウティア様から聞いてるよ」
「セ……ナ、ト?」
「そうだよ。元々ナクテの領主さんとこの子なんだけどね。皇都がごたごたした時に、ここに身を隠してたんだってさ。今は都で、皇帝の養子におさまってるって話だよ。オルゲニアにも船がぼちぼち寄るようになったからね、ちょっとは落ち着いてるんじゃないかね」
「…………」
ぽかん。ファーネインは口と目を丸くして絶句した。
領主の息子で、今は皇帝の養子? それってつまり、ものすごく高貴な人だってこと? あの、ごはんを持って来てくれた、優しい声で話す人が?
ぱちぱちと瞬きし、次いで、なぜだか突然、猛烈に恥ずかしくなって赤面する。両手で顔を覆ったファーネインに、そばにいた少女達が冷やかしの声を上げた。
「やだ、ちょっと、何があったのよ!」
「その人が好きなの!?」
きゃあきゃあ騒ぐ少女達。イゲッサがたしなめても、あまり効果がない。こればかりは種族を問わず共通の現象らしい。からかわれてファーネインはますます赤くなり、縮こまって、蚊の鳴くような声で答えた。
「ち、違うの。ただ、びっくりして……だって、そんな……皇子様、なんて」
昔話に出てくる存在でしかなかった。皇帝だの、領主様だの――現に実在するとは知っていても、自分にはまったく関わりのない人々だと思っていた。自分は可愛いと意識していた頃でも、夢見た未来はせいぜい、街のお金持ちに見初められて結婚する、という程度。
(もう一度会いたいなんて、無理かも)
いつかまた会いに来てくれるのでは、とぼんやり夢想していたことが、あまりにも子供じみて甘ったれた願いに思われた。それこそ、田舎の百姓娘が皇子様に見初められて宮殿に迎えられる、典型的なおとぎ話と同じに。
(うわあぁどうしよう恥ずかしい)
こんな顔を見られた。こんな顔で、皇子様の親切に甘えてしまった。惨めで、憐れで、何ひとつ持たないちっぽけな子供の分際で、
(好きになっちゃってたなんて)
――最悪。
再会の可能性すらほとんどないと頭では分かっているのに、もしかしたら、と希望が夢想と手を取り合ってくるくる踊る。
もしかしたら、相手も覚えているかもしれない。森の奥でめそめそ泣いていた憐れな子供のことを、気にかけてくれているかも。皇帝になって、立派できらびやかないでたちで、もう一度ぐらいはここへ来てくれるかも。
「あんた達、あんまりからかうんじゃないの。ほらもう、首まで真っ赤になっちゃってるじゃないか」
イゲッサの呆れ声が、どこか遠くから聞こえるようだった。
(そうしたら、あたし、何て言おう)
もし、いつか皇帝になったあの人と会えたら。その時自分は、どんな態度で、どんな格好をして、どんな言葉を口にするのだろうか。
(褒められたい)
久しく忘れていた欲求がむくむくと頭をもたげる。
褒められたい。みすぼらしい姿で憐みをかけて貰うのではなく、何か――きれいになったとか、
(この顔じゃ無理よね……でも、何かごまかす方法を考えればいいわ)
あるいはせめて、大きくなったとか、元気になったとか、そんなことでもいい。褒められて、それに対して笑って胸を張って答えたい。
(あなたのおかげです、ご親切を忘れたことはありませんでした、って)
子供じみた夢だって良いではないか。別に、宮殿にお嫁入りする、なんてことを望んでいるのではないのだから。
せめて一度。たった一度でいい、ちゃんとお礼を言って、目を背けずにあの人の顔を正面から見たい。
ファーネインはぎゅっと目を瞑り、唇を引き結んで、手に触れる顔のでこぼこした感覚を、苦痛とともに受け容れた。無視も拒否もせず、石の塊を飲みこむように。
ぐっと喉に詰まったそれを飲み下し、彼女はゆっくりと顔を上げる。
「イゲッサ。お願いがあるの」
静かに切り出した声に、もはや嘆きと自己憐憫の影はなかった。
「あたし、ちゃんとした大人になりたい。皇子様でも皇帝陛下でも、会って恥ずかしくないように。だから、――お願い、手伝って」




