2-6.テトナ
「おに―――ぃ!」
蹴られるぐらいは予想していたものの、まさか激しく揺さぶられた挙句に鬼呼ばわりされるとまでは考えていなかった。
首がガクガクするのをなんとか止めて目を開けると、ネリスの真ん丸に見開かれた目が間近にあった。
「なんだネリスか……」
「見た!!」
フィンのぼやきを無視して、ネリスは興奮のあまり大声で叫ぶ。なんだなんだと他の面々もうるさそうに顔をしかめて起き上がった。
「あたしも見たよ、お兄の言ってた人! じゃなくて精霊!!」
「ああ、そうか……」
「なんなのあれ、すっごい美人じゃない! お兄、あんなのとこっそり会ってたの!? しかも膝枕って! 何考えてんのよ、うわぁぁぁ!」
「おまえこそ、何を考えてるんだ」
朝っぱらから疲れる。うう、と眉間を押さえたフィンを放り出し、ネリスはファウナに駆け寄って、目撃したものを報告する。きれいな金髪で、優しそうな美人で、にっこり笑ってゆっくりフィンの頭を膝から下ろすと、ふわりと風に溶けるように消えた、と。身振り手振りまじりのその話し方は、まるで前代未聞の奇蹟でも起こったかのようだ。
イグロスが寝起きのうっそりした顔で唸った。
「おまえの妹、激しいな……」
「昔からあんな風です」
あーあ、と大欠伸。昔はけたたましい笑い声と同時にベッドに飛び乗られて、起きるどころかしばしば気絶しそうになったものだ。一度など、まともに頭と頭が激突して、しばらく二人とも視界に星が飛んでいた。流石に近年はそんなこともなくなったが、起き抜けの騒がしさは健在である。
いったいどこからあの力が出てくるのかと訝りながら、フィンは水筒の水を少しだけ使って顔を拭いた。
「美女の膝枕か、羨ましいこった。なんで俺にはそういうのが出て来てくれんかね。この際、魔物に化かされるんでも構わねえのにな」
イグロスがうんと伸びをした。フィンは肩を竦めて答えをごまかす。
「あんなに大騒ぎするほどの美人じゃないと思いますけど。それに膝枕って言っても、俺はほとんど何も覚えてませんよ。急に眠気に襲われて、前後不覚に眠ってしまうんだから……おいネリス、もういいだろう。さっさと朝食をすませて出発しよう」
「そうだな」イグロスも街道の行く手を見やって同意した。「上手く行けば今日には……テトナに着くはずだ」
まだあるとすれば、という一言が喉元まで出かかったのは、フィンにも分かった。だが二人ともそれについては触れず、黙って馬の世話に取りかかる。オアンドゥスが灰になってしまった焚き火を起こし、ファウナとネリスが麦粉とチーズを練っている間に、フィンは馬に水と餌をやって蹄などの点検を終えた。
やがて一行は再び南へと動き出した。緩い丘を越えて開けた土地に出ると、湿気を含んだ風が吹いてきた。荒涼とした侘しさが募る。季節柄、野草の小さな花がとりどりに咲き乱れてはいたが、風の冷たさが物悲しかった。
そもそも、そうして花咲いている野草の天国は、数ヶ月前までは牧草地だったのだ。今では柵が崩れ、馬や羊にとって毒となる草も伸び放題。
道端に倒れた一里塚が、地下を指してテトナと告げる。ナナイスは空の上だ。もちろん誰も、そのことを冗談にしようとは思わなかった。
太陽が中天にかかる頃、行く手に黒くうずくまる影があらわれた。
「――あった」
イグロスの口から、かすれた安堵の息が漏れる。丸太を並べた柵は急ごしらえのようだったが、それでも軍団兵の熟練した土木工事によって作られたことが見て取れた。不慣れな素人のやっつけ仕事ではない。
「ここでも軍団兵が頑張っているんだな」
オアンドゥスがほっとした様子で言った。何日も無人の荒野を歩いて、出会うものは闇の獣だけとくれば、たとえどんな状況だろうと人間に会えるだけで嬉しくなる。だが、ネリスの顔色は冴えない。どうしたの、とファウナが訊くと、ネリスは眉を寄せて小さく首を振った。
「わかんない。でも……なんだろう、生き物の気配がすごく少ないような気がする」
遠慮がちに言い、行く手の町を見やる。フィンも不安になって、周囲を改めて観察した。ナナイスと同じように遮蔽物は取り除かれている。だが、篝火を焚く台がない。石を並べた中に掘られた浅い穴がいくつかあるが、この程度では土をかけられたらすぐに消えてしまうだろう。実際、煤の様子からして、最後に火が燃えてから半月は経っているだろうと察せられた。
イグロスもそのことに気付いたらしい。顔色を変え、一人で先に走り出す。
柵の扉は開け放しになっていた。番人もいない。
「誰かいないか!?」
大声で叫びながらイグロスは町に駆け込んだ。かつては賑やかだった大通りも、がらんとして人気がない。左右に並ぶ商店は戸を閉てているか、さもなくば荒れ果てた廃屋になっている。彼は真っ先に姉夫婦が住んでいた家に駆けつけたが、扉が外れて中も荒らされ、人がいないのは明らかだった。
「姉貴! イドゥ! ファーネイン!!」
町にいるはずの親類や、昔の知り合いを次々に呼びながら、イグロスはなおも走る。だが答える者はない。イグロスはとうとう足を止め、呆然と立ち尽くした。
「嘘だ……どうなってるんだ、畜生!」
一方でフィンは、荒らされた商店の中を覗いたり、道にしゃがんで残る痕跡を調べたりしていたが、ややあって「人はまだいるようです」と結論付けた。
「なんだって?」
戻ってきたイグロスが、期待と喧嘩腰の相半ばする声で問う。フィンは舗装されていない路地を指して、足跡を示した。
「新しい足跡がいくつかありました。それに、商店が荒らされたのはかなり前のようですが、最近また別の手が残り物を漁った様子があるんです。埃の積もり方とか、足跡とか。ただ、それが……」
皆まで聞かず、イグロスはまた走り出していた。片っ端から閉ざされた扉を開け、名を呼びながら探し回る。
「人がいるなら、そろそろ出て来ても良さそうなもんだが」
オアンドゥスが眉をひそめてつぶやいた。フィンも難しい顔で答える。
「警戒しているのかもしれません。足跡や、さっき見た店の箱についていた手形が……小さいんです」
「子供ってことか?」
「小人族でなければね」
フィンは自分でもそんな可能性はないと知りながら、念のためにそう答えた。小人族は元々、深い森や険しい山の奥地に住み、人間とのかかわりを好まない。かつての大戦で自分達だけが割を食ったと信じており、かなりの人間嫌いで、滅多に人里に姿を見せないのだ。
と、その時、はるか前方でイグロスの声が上がった。何を言っているのかはっきり分からないが、来てくれとか見てくれとか、そんなような声だ。
一家は顔を見合わせ、急いでそちらへ向かった。
イグロスは中央広場にいて、神殿の前で大声を張り上げていた。
「おい、俺だ、イグロスだよ! 四年前までこの町にいたんだ、頼むから出て来てくれ、俺たちは敵じゃない! 何もしやしねえって!」
「誰か中にいるんですか?」
フィンが駆け寄ると、イグロスは忌々しげに、堅く閉ざされた扉を睨み付けた。
「ああ。ガキが一人逃げ込むのを見たんだ。ほかにもいるに違いねえんだが……くそ、中からしっかり閂をかけてやがる」
ガタガタと乱暴に扉を揺すったが、開きそうにない。イグロスは舌打ちした。身内の安否を案じるあまり、焦っているのだろう。
「およしなさいな、子供がいるのなら怯えさせてしまうわ」
ファウナが言い、扉に歩み寄った。耳をつけても、何の物音も聞こえない。
「誰か、そこにいるのなら聞いてちょうだい。おばさんたちはナナイスから来たの、魔物や盗賊じゃないわ。皆、怪我や病気をしていない? 大丈夫なの?」
それでもすぐには反応がなかったが、やがて、コトリと中で物音がした。そして、扉の隙間から細い子供の声が漏れる。
「……本当? おばさん、ナナイスから来たの?」
「ええそうよ。遠くて大変だったけど、なんとかここまで来られたの。あなたは一人? お父さんやお母さんは?」
「…………」
沈黙に、微かな仕草の音。首を振ったのかもしれない。と、そこへ別の足音が近付いてきた。
「おばさんたち、ここに何しに来たの」
扉越しに問うた声は、最初の声よりも年長の子供らしかった。剣呑な口調に、しかし、微かな期待がにじんでいる。
「おばさんたちはウィネアに行く途中なの」ファウナが穏やかに答える。「ナナイスに援軍を送ってくれるよう、頼みに行くところなのよ」
「……言っとくけど、この町には余分の食糧はないよ」
「分かってるわ。今はどこにも、余分なんてないもの。私たちにもね。だから何もあげられないけど……あなたたちから何かを奪ったりはしないわ」
長い沈黙が続く。
五人が息を詰めて見守る前で、ようやく閂を外す音がして、扉がゆっくり開いた。
扉のすぐ内側に立っていたのは、茶色っぽい髪をした、せいぜい十三、四歳の少年だった。油断ない灰色の目で五人を素早く観察し、それからふっとため息をつく。
「やっぱり、助けは来ないんだね」
少年のつぶやきに、五人は顔を見合わせた。もしかして、とフィンが言いかけたが、少年はそれを制して言った。
「いいよ、入って。誰か探してるんでしょ」
「あ……ああ」
押され気味にイグロスがうなずき、中に入る。フィンもそれに続き、はっと息を呑んだ。
神殿の中に隠れていたのは、七歳から十四歳ほどまでの、子供ばかりだった。二十人ほどいようか。しかし大人は一人もいない。
「これは……いったい」
オアンドゥスが立ち竦む。扉を開けた少年が、暗い声で告げた。
「大人はみんな、出て行ったか死んじゃったよ」