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灰と王国  作者: 風羽洸海
第四部 忘れえぬもの
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2-3. 新任監査官襲来


 果たせるかな、予告通り、新任の北部監査官シムルスは、眉をきりりと吊り上げ、目に憤激の光をぎらつかせて襲来した。見たところ恐らくまだ三十代であろうが、既に額が後退し始めている。その広くなった額まで朱に染まっていた。

「なんということだ! 市民の安全を第一にすべきであろうに、三年経ってもいまだ城壁の再建に取り掛かってもおらんとは!!」

 シムルスは挨拶もそこそこに、憤慨して切り出した。フィンは相手に冷たい水と葡萄を勧めながら、出来るだけ穏便な態度で応じた。

「お言葉ですが、城壁を築くだけの人手も資材も、財源もありません。借金をしてまで再建せずとも、シムルス殿もご覧になった通り、街は充分に安全です」

「今はそれで良いかも知れんが、財政難を理由にいつまでも放置して良い問題ではないぞ! ナナイスは自治都市だと言うつもりだろうが、出入りする交易商人の安全も守れんようでは、その権利を考え直さねばならん」

「出来る限りの策は取っています。船での往来はほぼ以前と同じ程度に安全になりました。街道も、近隣の農地までは問題ありません。とは言え、いずれ城壁については議会にかけて検討すべきだと考えていますが」

 フィンが譲歩すると、シムルスは当然だとばかり鼻を鳴らした。それから彼は苛立ちをこめた目で室内の面々を見回し、オアンドゥスに視線を据えた。

「市議会議長は竜侯フィニアス殿の養父だという話だが、むろん公正な選挙によって選ばれたのであろうな?」

 はあ?――と、呆れ声がこぼれなかったのは奇跡だった。誰もが直前で堪えたものの、しかし、飲み込まれた声は無音の気配となって、より雄弁に一同の感情を伝えてしまった。シムルスは怒りの色を濃くし、人差し指の爪でテーブルをコツコツ鳴らす。

「復興のどさくさに紛れ、竜侯の親族であることを理由に地位を独占してはおるまいな、と問うておるのだ。どうなのだ、議長」

「……議長に就任した時は、ナナイスには選挙を行うほどの人数もおりませんでした。誰もが何がしかの役目を担って働いたのです」

「そのまま三年か。そろそろ任期満了ではないのかね」

「おっしゃる通りです」オアンドゥスは唸るように答えた。「近々、市議会のすべての役職について選挙を行わねばならんでしょう」

 挑むような口調に、シムルスも対抗心を掻き立てられたらしい。すっくと背を伸ばして立ち上がり、良いか、と声を大きくした。

「ナナイスはあくまで帝国の中の一自治都市に過ぎない。天竜侯の領地でもなく、またその一族によって支配される家族経営の農園でもないのだ。帝国の法に則った民主政治が行われなければ、それはすなわち帝国に対する反逆であると、肝に銘じておくように!」

 返事はなかった。呆れて声も出ないだけなのだが、フィンはぎろりとねめつけられ、慌てて表情を取り繕った。せいぜい感銘を受けたように見えれば良いのだが。

 シムルスは胡散臭げにフィンを睨んでいたが、どうやらもう少し脅す必要があると判断したようで、勿体をつけてゆっくり行きつ戻りつしながら続けた。

「前任のイスレヴ議員は、自身北部の出身であるという理由で、相当な額の私財をこのナナイスに注ぎ込んだと聞く。だが、さりとてここは、諸君らの私有地ではない。私が着任したからには、今までと同様の公私混同や職権濫用は許さん。きっちりけじめをつけて貰うぞ!」

 鼻息荒い演説に、フィンはどう応じたものか分かりかね、「もちろんです」と曖昧に肯定しておいた。言われるまでもなく、公私混同も職権濫用もしていないつもりだが、そう反論しても無駄だろう。

(厄介な人が来たな……)

 内心ため息をついたのが聞こえたかのように、シムルスはまた、ぎろっとフィンを睨みつけた。


 それからの数日は実に疲れるものだった。シムルスは街を隅々まで見て回り、ありとあらゆることに首を突っ込み、文句をつけ、叱り、非難し、是正を勧告し――要するに仕事の邪魔ばかりしてくれた。

 お供つかまつるフィンも、たまったものではない。最初はなんとか、うまく説得して現状を理解して貰おうと努めていたが、じきにウィネアの面々同様、匙を投げた。

 オアンドゥスはもちろん、難癖をつけられた天竜隊の双子やヴァルト達も、夜になってシムルスを市庁舎の客室に押し込んだ後、集まって口々に憤懣をぶちまけ合った。本国の権威を笠に着て、なんだあの傲慢な態度は、何も知らないくせに、あれこれあれこれ。

 フィンはそれには加わらず、ただ、数日の辛抱だから、と皆をなだめていた。

「お兄は腹が立たないの?」

 神殿の物の置き方にまで口出しされたネリスも、おかんむりである。兄が監査官に迎合しているように思えるのか、むうっと膨れて問うてきた。

「もちろん、うんざりしているさ」フィンは苦笑で答えた。「だが、真面目に怒るのも馬鹿馬鹿しい。あの監査官が本当に本国の権威をふりかざして俺たちを押さえつけようとか、ナナイスを管理してやろうとか、そんな風に考えているのなら、怒るべきだが……そうではないんだ」

 そうした気配が見えたら、たとえ本国との関係がまずくなろうと、毅然とした態度をとるつもりだった。だがどんなに竜の目を凝らしても、シムルスから読み取れるのは、ひどく薄っぺらな色ばかりなのだ。口やかましいのに反して意欲も意志も強くはなく、風が吹けば簡単に霧消しそうな頼りない色が、忙しなく炎の真似をして躍っているだけ。

 そうした観察の結果、フィンはシムルスについてひとつの結論に達した。

「彼はただ、自分なりに努力しているつもりなんだろう」

 うえっ。一同が示し合わせたように呻いたもので、フィンは笑ってしまった。男どもと同じ声を出してしまったネリスが、少しばかりばつの悪い顔で言う。

「お兄がそう言うんなら、鬱陶しいだけで悪人じゃないんだろうけど。でも、だからって、よく我慢できるね」

「我慢するほどの憤懣も溜まらないが、とにかく疲れる」

 フィンは肩を竦めた。そこへ、レーナがふわりと現れて慰めるように軽く抱きしめてくれたので、フィンも笑みをこぼした。そんな二人の様子に、双子がやっかみ半分、からかい半分の声を上げる。

「あーあー、竜侯様はいいよなー。可愛いお姫様に慰めて貰えるんだもんなー」

「俺たちも荒んだ心を癒して欲しいよ」

「いつまでも選り好みしていないで、早く結婚すればいいんだ」

 すげなく指摘したのはむろんプラストである。双子は揃って渋面をし、ひとしきり口々に反論した後で、なにやら企むように顔を見合わせた。が、その時にはもう、フィンは二人から注意をそらし、レーナの髪を撫でていたために、不吉な兆候を見逃してしまったのだった。

 そんなことがあった翌日、ようやくウィネアに帰るという段になっても尚、シムルスは最後まであら探しに余念がなかった。フィンは既に疲れきっており、適当に当たり障りなく相手をしながら、上の空で他所事を考えている。

(イスレヴ殿が私財を注ぎ込んだ、と言っていたが、いつの間に、どこにそんなに私費を投入されたんだろう。一番最初、コムリスで天竜隊の人員や物資を補充した時と……あとは、例の空色の布ぐらいだと思っていたが)

 それとて結構な額には違いなかろうが、ナナイスを私物化するつもりかと警戒されるような類のことではない。

(まさか、この三年、本国から送られてきた交付金か?)

 あれの一部、あるいはもしやほぼ全額が、イスレヴの懐から出ていたのではあるまいか。確かに少しばかり皇帝は気前が良すぎると思ったが。

(確かめておかないと)

 知ったところで返済出来る額ではなかろうし、広場にイスレヴの銅像を建てるというのも、本人は望まないだろう。そのつもりなら最初から、これだけの額を出すから自分の像を建てるか、市庁舎の壁に名前を刻んだ金板を埋め込んでくれと、はっきり言った筈だ。それは当然の権利だし、本国では当たり前に行われていることなのだから。

 シムルスが仕事をやり遂げたと満足して、広場で護衛の軍団兵と合流する間も、フィンはまだあれこれ考えていた。そのせいで、彼は見送りに現れた天竜隊の不穏な様子にまでは気が回らなかった。

 ひそひそと誰かがささやきを交わしている。意味ありげな目配せ、押し殺した笑い。

 お帰りだとさ、竜も見ていないのにな、やれやれどうにか……。そんな言葉の切れ端が耳に届いてやっと、フィンは我に返って顔を上げた。シムルスも何か自分の知らない企みがなされていると勘付き、顔をしかめて一同を見回す。天竜隊の面々は、白々しくとぼけて直立不動の姿勢をとった。

(何をするつもりなんだ? 勘弁してくれよ)

 フィンは一人一人を牽制するようにじっと見つめたが、誰も目を合わせようとしない。マックは他の隊員の背後に隠されているのか、見当たらなかった。

 含み笑いに取り囲まれたシムルスは、険しい顔で疑り深げに彼らを睨んでから、むっつりとフィンに向き直り、改めて上から下までじろじろ眺め回した。

「シムルス殿? 何か……」

 不安になったフィンが身じろぎすると同時に、シムルスがごほんと咳払いした。

「今更だが……貴殿、本物の竜侯なのだろうな?」

「は?」

「思えば一度も竜の姿を見ておらん。監査の目を逃れようと、本物の竜侯共々、見られてはまずいものを町ぐるみで隠蔽し、適当な若者を代理に立てて、私を愚弄しているのではあるまいな!」

 自分で言って腹が立ったらしく、びしりとフィンに突きつけた指が、ぶるぶる震えている。予想外の詰問に、フィンはぽかんと絶句してしまった。

 一呼吸の間を置いて、

「――ぶっ、あはははは! 本当に言った!」

「わははは! 竜侯の貫禄がないってか!」

 見送りの面々がどっと笑い出した。筆頭は双子とヴァルトだ。天竜隊のみならず、一般市民までくすくす笑っている。

 シムルスは顔を真っ赤にして、彼らへと視線を移した。怒りの炎が足元から燃え上がり、瞬く間に全身を包んでゆくのがフィンの目に見えた。

「黙れ!!」

 怒鳴ったのは、しかし、フィンの方が早かった。

 まさか彼が怒るとは思っていなかったらしい。首謀者らしき双子はもちろん、他の面々も一瞬で笑いを飲み込み、しんと静まり返る。シムルスさえ、自分の怒りを忘れて驚きの面持ちで振り返った。

「私を青二才扱いするのは勝手だが、監査官の前で貶めるとは、悪ふざけにしても度が過ぎる! この竜侯では不満だと言うなら、ほかの竜侯を探して来るがいい!!」

 灼けつく砂漠の太陽のごとく容赦ない厳しさが、場の全員を打ち倒すかに思われた。レーナは姿を現しこそしなかったが、フィンの背後に陽炎が立ち昇り、巨大な翼を広げて人間達を威圧する。何人かは早々と堪えきれずに膝をついた。

 怯えた馬が、手綱をふりほどいて逃げ出そうと暴れる。そのいななきを憐れんでか、フィンは軽く首を振って陽炎の翼を消した。

 途端に、ふっと重圧が消えたようだった。誰もがほっと息をつく。

 フィンは厳しい表情のまま、シムルスに頭を下げた。

「最後の最後にお見苦しい失態、お許し下さい。シムルス殿に対して悪意があってのことではないのです」

「あ……うむ、いや、こちらこそ大変失礼を申し上げた」

 シムルスはもぐもぐと曖昧に答え、そそくさと別れの挨拶を述べて馬上の人となった。護衛の軍団兵も、畏まってフィンに敬礼し、シムルスに従う。

 最後の一人が馬首を巡らす前に、フィンはいつもの表情に戻り、目顔で詫びながら小さく手を振った。軍団兵は軽く目をみはり、それから苦笑してうなずく。フィンはほっとしてその背を見送った。これでシムルスはともかく、軍団兵の間に妙な噂が立つことはないだろう。

 監査官一行の姿が街道の向こうに小さくなってから、恐る恐る双子の片割れが声をかけてきた。

「あのー……フィニアス様ー?」

「懲りないな、あんたも」

 フィンは渋面で振り返り、金髪の頭をべしっとはたいてやった。

「つまらない事で暴君の真似をさせないでくれよ。もうちょっとで監査官が爆発するところだったぞ」

 彼がいつもと変わらない様子なので、緊張していた人々も安堵して、まわりに寄って来る。双子は顔を見合わせてから、異口同音に「すまん!」と謝った。

「いやだっておまえがさ、あの監査官は鬱陶しいだけで危険じゃないって言うから」

「ちょっとからかってやろうと思っただけなんだよー」

「うるさい割に、おまえが竜侯だってすんなり信じてるし」

「用心足りないんじゃないの、って、親切心だよ。善意、善意」

 ぺらぺらと次から次に言い訳が出てくる。フィンは呆れてしまった。

「あのな……あんなやり方したら、相手は馬鹿にされたと思うだろう。危険人物じゃないからこそ、怒ったらすぐにそれが行動に出る。俺が先に怒鳴らなかったら、彼はあんたら全員を笞打ちにしろと叫んでいたぞ。どうにかごまかしたとしても、侮辱された仕返しに本国からの交付金をウィネアで差し止められるかもしれない。頼むから軽率な真似は慎んでくれ」

「小物ほど、ちょっかい出すと後々面倒だということだ」

 プラストが冷ややかな視線をくれつつ、身も蓋もない補足説明をしてくれた。双子はしおらしくうなだれ、ごめんなさいもうしません、などと子供っぽく謝罪する。

 と、珍しくレーナが怒った顔で姿を現した。慌てて双子はこちらにもぺこぺこ頭を下げる。レーナは両手を腰に当てて仁王立ちしていたが、謝罪と言い訳が一段落すると、いたって大真面目に、厳しい声できっぱりと言い渡した。

「二人とも、フィンをいじめないで!」

「………………」

 あ痛、と当のフィンが顔を覆う。

 白けた間があってから、広場はどっと沸き起こった笑いに包まれた。今度の笑いは嘲りも優越感もなく、明るい優しさに満ちている。その楽しさに流されて、厳格で畏怖すべき竜侯の姿は、人々の記憶から消えていった。


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