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灰と王国  作者: 風羽洸海
第四部 忘れえぬもの
135/209

2-1. 炎竜侯再起



   二章


 ジジ……ッ、パチパチッ……

 暗い家の中に明かりはひとつ。外には星の光さえもなく、闇が壁一枚隔てたすぐそこまで迫っている。その圧力に耐えかねて、今にも屋根ごと倒壊するのではと、中にいる一家は青ざめた顔を見合わせていた。

 ノルニコム州とドルファエ自治領の境に近いこの辺りは、とうに軍団兵から見放されていた。土地にも住民にも、守る価値がないということだ。現に、三年前の反乱に加わった敗残兵が近隣には多く住み着いている。ドルファエ人の部族社会に入り込めず、かといってノルニコムの中心部には戻れない、そんな流れ者達が。

 一家のように昔からこの地に住み、つましい農牧業で生計を立ててきた人々にとっては、いい迷惑だった。恨んだところでどうにもならないとは言え、こうして夜毎身を寄せ合って小さなランプの火にすがっていると、本国人ばかりでなく、反乱を起こした同郷人らに対してさえ憎しみが募る。

 村の四方に一基ずつ篝火を置けば良かった頃は、燃料も充分に足りた。だが四方が八方になり、さらに多くの明かりが必要になると、瞬く間に薪が尽きた。ドルファエ人にならって乾燥させた家畜の糞も使ったが、それとて到底足りない。

 結局、各家でこうして小さな火を灯すだけになってしまった。壁の外ではカリカリ乾いた音がする。夏だというのに、隙間から身震いするほどの冷気が忍び込む。

 このままではいずれ、村の全員が神殿に集まって夜を過ごすことになるだろう。その頃には人数も随分減っているだろうが。

 子供達の肩を抱いた男が陰鬱にそう考えた時、突然、ランプの火が揺れた。

「あ……っ」

 消える。幼い子供達が絶望の悲鳴を漏らした。が、揺らいだ炎は次の瞬間、予想に反してパアッと眩い輝きを放ったのだ。

 驚きに、一家は思わずランプから身を離した。だがその動きで生じた風にも負けず、小さな火は明るく燃えている。ほとんど楽しげに見えるほど。

 呆然とする一家の耳に、闇を揺るがす猛々しい咆哮が響いた。闇の獣のそれとは違う、荒々しくも力強い、聞く者の闘志を掻き立てる声。

 その残響が消えて尚しばらく、誰もが放心状態だった。ややあって我に返った男は、妻の制止もきかず扉に駆け寄り、開け放った。

 ぐるりを取り囲んでいた青い光はなく、多くの隣人が彼同様に戸口に現れていた。

 誰からともなく、「あれを」と声が上がる。複数の指が示す先を見て、彼は息を呑んだ。

「炎が……!」

 ささやかな通りの先、村の境界を示す柵の向こうに置かれている、冷え切っていたはずの篝火台に。

「なんて明るい」

 人々の目を奪い虜にするほど眩く、炎が燃え盛っていた。

 男は目を細めてそれを見つめていた。好奇心を抑えかねた子供達が出てきて、彼の裾にしがみつく。長らく忘れていた感情が、男の胸に、子供達の顔に、溢れてゆく。

「竜侯様だ」

 男がつぶやくと同時に、わっとあちこちで歓喜の声が上がった。

「お帰りになった! エレシア様が闇を追い払って下さったんだ!!」

「羽ばたきの音を聞いたぞ。竜の翼に違いない!」

 もう既に世界を取り戻したかのごとき勢いで、村人達は口々に万歳を叫び、夜中だというのに手を叩きあって踊りだす者も出る始末。

 男にしがみついていた子供の一人が、眠気と戦いながら言った。

「父ちゃん、みんな何を言ってるの? りゅう、いないよ?」

「ああ、今はもう行ってしまわれたからな」

 男は小さな丸い頭を優しく撫でてやった。反乱の頃はまだよちよち歩きだった子供達にとっては、竜も竜侯も、おとぎ話で聞くだけの存在だ。帝国のことも、その中におけるノルニコムの地位も、それが自分達にどう関ってくるのかも、まだまだ遠い世界の話。

 また戦が始まるのかもしれない。加護の宿った炎の見返りに、なけなしの作物や家畜を差し出すことになるのかも。

 男は胸をよぎる微かな不安を隠し、にっこりして幼い我が子を抱き上げた。

「ともかく、今晩から安心してぐっすり眠れるぞ。さあ、もうベッドに入らないとな」

 そう、構うものか。家族の安全の為なら、麦を差し出すだけでなく、この手に武器を取ってもいい。

(俺だって戦える)

 不安を打ち消す闘志がどこから湧いてくるのか自覚せぬまま、彼はひとり、拳を握り締めていた。


 炎竜侯の帰還がささやかれていると知らされるより早く、東部司令官グラウスはノルニコムの州都コムリスを後にした。せざるを得なかったのだ。評議会から召喚状が届き、応じなければ叛逆罪に問うと脅されたのでは。

 グラウスはやむなく部下に留守を任せ、少数の護衛だけを連れて皇都へ向かった。

 東から西へ、かつての戦場を逆戻りして、アクテの手前で州境ティオル河を越える。騎馬の蹄が橋に響き、その振動は川面に伝わって――水の精霊に感知された。瞬く間に精霊は流れをさかのぼってゆく。人の目には見えない、この世のすぐ外側の世界を通って、上流へ、はるか北の丘陵地帯へと。そして、地中に隠れた水を伝い、さらに東へ――草原にいる主の下へと。

 リアネは心に呼びかける声に応じてせせらぎに手を浸した。そして、ふむとうなずき、気の進まない風情で族長の天幕を見やる。

 既に一族の意は決した。今更リアネも異議を唱えるつもりはない。それでも、この知らせが届くのが後になればなるほど良いのにと願っていた。

「なってしまったものは、仕方ないわね」

 やれやれとため息をついて、彼女はゆっくり天幕へ向かった。

 夏の居留地に並ぶ幾張もの天幕のうち、最も華やかな彩色を施したものが、族長の住まいだ。中では黒髪の族長が弓の手入れをしているところだった。許しを得ずに入ってきたのが誰かと目を上げ、それが族長の支配も及ばぬ呪い師だと分かると眉をひそめる。

 いつもの反応だが、今のリアネはそれを無視するのが難しかった。それもこれもあの女のせいだ、と苛立ちが募る。つっけんどんに彼女は言った。

「族長セニオン、精霊が知らせをくれたわ。将軍はティオル河を渡った。お供が五人ばかり。急いで行って、すぐ戻ってくるつもりなんでしょうね」

 抗議にもならない、ささやかな皮肉。セニオンは片手を振ってそれを退けた。

「皇都の生っ白い評議員どもが、石ころひとつ動かすのにさえ何日も評定するのは昔から同じだ。連中に吊るし上げられて、簡単に話がつくわけがあるまいよ。リアネ、俺の心はもう決まっている」

「分かってるわ。あたしはただ推測しただけよ。……最後にもう一度、確認させて。この戦いはあの人の為ではなく、あたし達皆の為。炎竜侯と共倒れはしない。間違いないわね?」

「くどい」

 セニオンは不機嫌に唸り、弓を置いて立ち上がった。

「俺は皆を集めて、時が来たと告げる。おまえはエレシア殿に知らせて来い。北西の丘にいるはずだ」

「……分かったわ」

 本当は嫌だったが、リアネは承知して天幕を出た。リアネは――というか、部族の呪い師は伝統的に、水の精霊を呼ぶ者である。乾いたこの土地で暮らすには、遥か西の山脈から丘陵を抜けて奈落までゆっくり進む数本の川が生命線となるからだ。

 先祖から受け継がれてきた、水の精霊に馴染みやすい性質をもつリアネとしては、慣れ親しんだ精霊よりも遥かに強大で、しかも対極の力である炎の竜と竜侯になど、出来れば近付きたくなかった。

 だが今は、この知らせに相手がどんな反応をするか見たいという思いが勝った。

 慣れた山羊の背に乗り、集落の北西にある小高い丘へと向かう。セニオンの言葉どおり、その上で竜侯エレシアが馬を走らせていた。

 はじめはろくに馬を操れなかった貴婦人も、今では一通りの技を身につけていた。見ていて苛立つことも、ひやひやすることもない。何より、乗馬の練習中は眩く熱い炎の力に覆いをしているので、近付いたリアネもあまり気分が悪くならずに済む。

 リアネが登ってくることに、エレシアは早くから気付いていたようだ。ちょうど彼女が丘の上に着いて山羊から降りるのに合わせて、エレシアも馬をゆっくりした歩調にし、ぐるりと一回りしてから止まらせた。

「その様子だと、動きがあったようね」

 リアネが口を開くより早く、エレシアが満足げに言った。リアネはカチンと来て、棘々しい声になる。

「分かっていたなら、先に下りてきてくれてもいいんじゃないかしら」

「あなたの顔を見て察しただけよ」

 エレシアは鷹揚に笑って取り合わない。リアネは苛立ちを抑えるのに苦労した。

 これだ。この、当然のごとき鷹揚さ。尊大さと紙一重の態度に苛立つのだ。

 まわりは火と水だから仕方ない、と苦笑し、そこにセニオンを巡る女の戦いを重ねてにやつく者もいる始末だが、リアネに言わせればそんな問題ではなかった。

(炎の力を宿しているからじゃない。あたしがむかつくのは、この女があまりにも帝国貴族そのものだからよ)

 もちろん、リアネは帝国の貴族をほかに知らない。だがエレシアが貴族女の典型だろうという想像はついた。自分が大切にされ、丁重に扱われ、要望が優先される、そうした状況が当然だと捉えている。否、当然過ぎて、意識してさえいない。

 己のまわりの者は圧倒的に下位のものであり、ゆえに、いちいちこちらの敵意に反応することもない。

(セニオンの関心を引こうと張り合っているのでもない。あたしは部族の一員として、帝国人に腹を立てているのよ)

 第一、勝手だったらありゃしない。

 リアネは怒りが再び自分の中で膨れ上がるのを感じながら、ぶっきらぼうに告げた。

「将軍が皇都に呼び戻されたわ。セニオンは動き出すつもりよ」

 あなたの口車に乗せられてね。そう付け足したいのを、かろうじて堪える。

 三年半ほど前に、黒煙を引いてくすぶる炎が墜落した時には、誰もが大騒ぎした。駆けつけてみればその正体は、ぼろぼろになった竜と竜侯だったのだ。こちらが親切に看護してやったというのに、回復したエレシアはそのまま族長のもとに居座った。しかも、ノルニコムの反乱に再度加わるように説得してしまったのだ。

(他人が自分のために動くのが当然だと思っているんだわ)

 リアネが睨みつけていると、エレシアは苦笑を浮かべて応じた。

「あなたはまだ反対しているようね」

「当たり前でしょう。セニオンはあたし達の長であって、あなたの下僕じゃない。帝国のごたごたに関ってもろくなことにならないわ。帝国が押し付けるのはあたし達の首を少しずつ絞めていくものばかり。税だの街道だの、議員だの貨幣だの。ヴェルンの時代に大勢を奴隷にしただけでは足りず、あたし達を根っこから作り変えてしまおうとしている」

「わたくしは、あなた方に同じ事はしないわ」

「既にしてるわよ。帝国の政争と復讐に、あたし達を巻き込んでいるじゃないの。当然の顔をして、それがあたし達の為だと自分でも信じているんでしょう。帝国人らしいわ」

 リアネはフンと鼻を鳴らし、手にした杖を苛々と指で叩いた。相手が何も言わないので、むっつりしたまま西の方を見やる。

「セニオンがあなたに乗せられて以来、仕方なく精霊を遠くまで遣わして帝国の動きを探ってきたけれど、あたしに言わせれば、もう長くないわよ。あんな連中、放っておいたって自滅する。あたし達には何の関りもないことよ」

「そうかしら」

 エレシアは言って微笑んだ。一見艶やかな、しかしぞっとするほどの力強さを秘めた笑み。リアネが怯むと、エレシアは一旦視線をそらして馬の首を叩き、それからもう一度振り返って――今度は、はっきりと冷たいまなざしで、彼女を射抜いた。

「だったら尚のこと、わたくしに恩を売っておきなさい。帝国が滅べば、ノルニコムの王はわたくし。あなた方の新しい隣人がどう振る舞うか、関係ないとは言えないでしょう」

「……餌で釣れない相手には、脅しをかけるというわけ。対等の相手など認めないのね。協力に対して感謝の一言でもあれば見直すつもりだったけど、所詮、帝国人は帝国人だったわね」

 リアネは不快もあらわに言い捨て、ぷいと背を向けて山羊にまたがり、斜面を駆け下りてゆく。

 エレシアはそれを見送り、小さくふっと息を吐いた。

 言われるまでもなく、リアネの指摘は自覚していることだった。ドルファエ人を今度こそ確実に味方につけ、ノルニコムを取り戻して皇帝を討つ。その為なら、恩知らずと罵られようと、使える手はすべて使ってセニオンを取り込まねばならなかった。

(都を取り戻せば、俺の床に入る。誓いを破るなよ)

 セニオンの声と顔が脳裏によみがえった。エレシアは身震いし、我が身を抱く。粗野で乱暴で、亡き夫とは似ても似つかぬあの男に体を委ねるなど、心底ぞっとした。だが、彼を動かすには、最大限の利益を示してやらねばならなかったのだ。

 むろんセニオンとて愚物ではない。リアネはエレシアがセニオンを(たぶら)かしたと思っているが、現実はセニオンにも打算があればこそ、この帝国の貴人を客分として留まらせているのだ。竜侯を“客”すなわち手駒にすることで、彼の権威は以前より増した。まだ若い族長を侮る者も、ほとんどいなくなった。

 エレシアとて貴族である。セニオンの立場と意図はすぐに読めた。利用されていると承知の上で、大人しくセニオンに感謝し、一方的に恩義を受けているような顔をし、懇願という形でロフリア奪還への援助を乞うたのだ。

 セニオンはそれを、気前良く承知した。零落した美女から涙の訴えを受けて、動かぬ男があるものか、と。そうして民の前で格好をつけた上で、さらに報酬として彼女を求めたのだった。

(そう、これは取引にすぎないのよ)

 エレシアは強いて己に言い聞かせた。あの汚い指が肌を這い回るのかと考えると、虫酸が走る。エレシアは憎悪を堪えつつ、馬が怯えて逃げ出さないよう、手綱を握った。

 と、心の中に意地の悪い含み笑いの気配が伝わってきた。

〈そう案ずるな、彼奴には警告してやったではないか。我を抱くのは炎を抱くも同然、とな。それでも火遊びをしたいと言うのだ、燃え尽きるまで楽しませてやるが良い〉

 ゲンシャスだ。三年前に酷く傷ついて以来、彼はあまり実体化しなくなった。

〈ほとほとうんざりだわね。おまえの冗談は笑えない、と何度言わせるの〉

 エレシアはすげなく応じたが、口元には、笑えないと言いながらも温かな苦笑が浮かんでいた。

 竜の気配にそわそわする馬をなだめながら、彼女はふと南を振り向いた。遠く離れた故郷、ノルニコム。三年もの時が経ってしまったが、皆はかつての主を覚えているだろうか。手は無意識に脇腹をさすっていた。最後の戦いで傷付けられた場所だ。二本目の鉄の矢は、ゲンシャスの首だった場所を射抜いてエレシアの腹をえぐり、炎の翼に突き刺さった。

 よもやまさか、本当に斃れかけるとは思っていなかった。そのように見せかけて逃げるつもりではあったが。

〈シャス。またあの弩を向けられたら、今度はかわせるわね?〉

〈同じものに二度はやられぬ。それに、まずおまえが見つけて打ち壊してくれるのだろう?〉

〈当然よ。あれは竜にとっても脅威だけれど、わたくしがおまえに乗って姿を現さずとも、騎馬隊に向けて撃ち込まれたら、普通の弓矢とは比べ物にならない被害が出るわ。見つけ次第、潰さなければ〉

 エレシアは痕も痛みもない古傷を探っていると気付いて、己の手を引き戻した。

 意識が戻ってしばらくした後、彼女はゲンシャスに問うた。竜でもあのような武器に命を断たれるのか、と。答えとしては、是であり否であった。

 ――実体化がかなわなくなるほどの傷を負うことはあるが、存在そのものが消されてしまうことはない。だが人間から見れば“死んだ”も同然であろうな――

 それほどの傷を負えば、絆の伴侶に与えられる力も微々たるものになる。戦術的には竜も竜侯も勘定に入らなくなる、という意味で、死ぬようなものだ、と。

〈復讐を果たさず死ぬつもりはないわ〉

 エレシアは手綱をぎゅっと握り、奥歯を噛みしめた。

〈それに、自滅などという贅沢も許さない〉

 遅かれ早かれ帝国は滅びる――そうリアネは言った。だが、相手が瀕死の病人だろうとなんだろうと、それこそ己には関りのないことだ。

 必ずこの手で息の根を止めてやる。

 帝国が自滅するというならその前に、復讐の刃を喉元に突き立てて、ティウス家が味わわされた苦痛を思い知らせてやるのだ。

〈そうでなくてはな、我が伴侶よ〉

 ゲンシャスの楽しげな声が心の中で震え、実体のない竜が発する咆哮が、青空に吸い込まれていった。


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