1-3. 密やかな変化
夏至の近い時季柄、夕暮れはいつまでも続き、残照が空を明るく染めている。大地が一足早く薄墨色の中へ沈み始めると、ナナイスの街は昼の賑わいが嘘のようにひっそりと息を潜めた。
日が落ちてから外を出歩く者は、この街にはいない。やむを得ず建物の外に出る場合は、備え付けてある祝福された角灯を使うが、滅多にないことだった。
「随分お行儀のいい街だな。まだ獣どもが怒り狂ってやがるのか?」
ヴァルトは次々に戸締りする家々を見ながら、当惑気味に言った。もしそれほど彼らが脅威であるなら、今頃の時間にはもう、忍び寄る冷気が感じられるはずだ。だが闇の気配はまだ遠いし、篝火もぽつんぽつんと置かれているだけで、警備にあたるのもヴェルティアから戻った十数人のみ。
「それとも、何か別の理由があるのか」
訝るヴァルトに、フィンは微苦笑を浮かべて答えた。
「ここでは闇の眷属を全部追い返しているわけじゃないからな。まだ強い憎しみを抱いているものは、たいてい街に入る前に俺のところへ仕掛けてくる。篝火や、レーナの光を無視して行くようなのは、たいして危険ではないんだ。街中にも、たまに入って行く」
「おいおい!」
「だから皆、日が落ちたら早々に休むんだよ。元々ここでは、贅沢が出来る状態でもないしな」
平然と応じるフィンを、ヴァルトのみならず、ヴェルティアから来た隊員達は皆、胡散臭げに見つめた。フィンは小さく肩を竦め、
「じきに分かる」
とだけ言って説明を省いた。
ちょうどそこへ、篝火を順に灯しながら祭司がやってきた。ヴァルトは目をしばたき、束の間きょとんとしてから、素っ頓狂な声を上げた。
「お嬢ちゃんか!? 驚いたな、オイ!」
正式な祭司の服をまとったネリスは、髪こそいまだに短いままだったが、十九になりたての娘らしく瑞々しい美しさを身につけていた。が、ヴァルトの叫びに眉を上げて見せたその表情は、三年前と変わりなかった。
「お久しぶりです、隊長さん」
慇懃に一礼してから、「お変わりないようで」と皮肉っぽく付け足す。はじめこそ呆気に取られたヴァルトも、じきに昔と同じ笑い声を立てた。
「なんだ、せっかく美人になったのに中身は昔のままか? 勿体ねえな。けどまぁ、一人前の祭司にゃなれたようだな」
「うーん、祭司服は貰ったけど、一人前とは言えないかな。祭礼を取り仕切るのはまだ無理だし。そういうのはウィネアのフェンタス様が、誰か祭司様を寄越してくれるから、あたしはもっぱら畑と薬草園の係なの」
そっちの方面ではそろそろ一人前だけどね、とネリスは少し誇らしげに付け加えた。
神殿の祭司の仕事は、年に数回の祭を執り行うほかは特に定められておらず、日課だの毎週の礼拝だのはないため、案外と暇なものだ。ゆえに神殿には学校や施療院など付属施設があり、その仕事を通じて祭司は社会に貢献し、かつ寄付や交付金を頂戴するわけである。
「ネリスの作った薬はよく効くと評判なんだ」
フィンが嬉しそうに自慢したもので、ヴァルトは相変わらずの兄馬鹿ぶりにげんなりした。
「へえへえ、そうかよ」
「身内の欲目じゃない。新しくナナイスに来た人の中には医者もいるが、その人もネリスの薬があれば自分は廃業だと言っているぐらいだ」
「お世辞に決まってるじゃない」呆れてネリス本人が口を挟む。「まぁでも確かに、ほかの人がやるよりあたしが手がけた方が、薬も、畑のものも、だいたい上手く出来るけど。ネーナ様のご加護があるから」
「そうかもな。だがおまえ自身が、しっかり丁寧にやっていてこそだろう」
「はっはっはっ、もっと褒めなさーい。って、そんなわけないでしょ、あたしのがさつっぷりは知ってるくせに。目ん玉そろそろ腐ってるんじゃないの? あたしもう帰るからね。ほかに用事ないね?」
ネリスはあっさり褒め言葉を受け流し、隊員達をぐるりと見回す。フィンはうなずいて、妹の頭をぽんと撫でた。
「ああ、気をつけて帰れよ」
「お兄の方こそ、気をつけてよね」
不本意だとばかりに言い返し、ネリスは角灯を持って街の方へとすたすた戻っていく。ヴァルトが苦笑しながら頭を振った。
「相変わらずだな、おまえら兄妹は」
「そうか? ネリスは随分、大人になったぞ。普段は大雑把でも、治療の時は実際本当に丁寧なんだ。あんたも怪我をしたら、安心してネリスの世話になるといい。二日酔いに効く薬もあることだし」
言葉尻でフィンはにやりとした。祭りの後で頭痛を訴えてきた飲兵衛どもに、ネリスは容赦なく、とびきり苦くて不味い薬湯を飲ませたのである。基本は単なる胃薬なので、二日酔いに効くと言っても程度は知れているが、ネリスいわく『いい薬』だ、というわけで。
「おまえの笑顔は信用ならん」
ヴァルトは既に不味い薬を飲まされたかのような顔で舌を出してから、ふと真顔に戻って、いつの間にか闇が迫りつつある方を見やった。
「……で、お嬢ちゃんの祝福が要らねえってことは、本当に楽な見張りなんだろうな?」
「ああ」
フィンも笑みを消し、うなずいた。
「今日はとりあえず、あんた達に現状を知らせるために全員出て貰ったが、本来はもっと少なくて済む。基本的な戦い方は三年前と同じだ。向かってきたら追い返す。こちらから攻撃は仕掛けない、深追いもしない」
そこで彼は街を振り返り、ざっと手で示した。
「もし、俺達を無視して街に入って行く奴がいても、構わなくていい。ここから市街地までの間には何本か“境界線”を引いてあるし、それでも越えていく奴がいても、市内の建物と大通りにはすべて、ごく弱くだがレーナの力を染み込ませてある。だから闇の力はかなり削がれるし、奴らにとっても居心地のいい場所じゃないから、じきに出て行くはずだ」
「万一、誰かが外をふらふらしていたら?」
隊員の一人が問う。フィンは苦笑をこぼした。
「最後の手段だが、市民が襲われたらレーナが助けてくれる。ただし、今までのところ、そうした馬鹿な真似をして本当にレーナの世話になった人はいないよ。大概は街中であの青い光と出くわしただけで、恐怖に駆られて闇雲にどこかの建物に逃げ込むし、その後しばらくは昼間でも曇っていたら外に出たがらないぐらいだ。そんなざまを目にしているから、同じ経験をしたがる物好きもいない」
ただし、子供が増えてきたら問題も増えそうだが、と彼は付け足して額を掻いた。
「増えてんのか?」とヴァルト。
「少しずつだが。この三年で生まれた赤ん坊は……ざっとニ十人ぐらいかな。最初の年は全くいなかった。次の年には人口自体が増えたし、一年目に結婚した夫婦がわりといたから」
新しい子供達は以前の闇の恐ろしさを知らない。うまく教育すれば、むやみに恐れることも侮ることもなく、闇の眷属と均衡をとりながら暮らしてゆける大人になるだろう。だがそれまでは、危険のなんたるかも経験していない、無垢で向こう見ずな、危なっかしい存在なのだ。かつてフィン自身もそうだったように。
「ま、その辺はおまえが苦労してくんな、竜侯様。俺はあいつらで充分だ」
ヴァルトは厭味ったらしく言って、剣を抜いた。闇の中にぽつぽつと、青い光が現れ、動き出す。
フィンは素早く、山脈で覚えた合図を出す。隊員達はそれぞれ示された持ち場へと、二人一組で散って行った。
闇の中で青い光が踊る。
地面を引っ掻く音が聞こえる頃には、足元に冷気が漂い始めていた。ヴァルトは剣を握り直し、用心深く向こうの出方を窺う。緊張も油断もしていない、ごく平静な態度だ。それを見て取り、フィンはやや安堵した。ヴェルティアでも獣達を相手にしていたのだろう。
それだけ確かめると、フィンは闇に向かって歩き出した。背後でヴァルトがぎょっとして息を飲むのが聞こえる。次いで舌打ちと、ほとんど喧嘩腰の声。
「おい、まだあんなこと続けてんのかよ!?」
フィンはちょっと振り返ってうなずいただけで、返事はしなかった。その時間がなかったのだ。
ガリガリガリッッ……!
ひときわ激しい爪音が突然大きくなり、直後、フィンめがけて闇が躍りかかった。青い光が次々と、入れ替わり立ち代わり攻撃してくる。
三年の間に、フィンも随分この戦い方に慣れた。攻撃を受け止めながらも、なるべく痛手にならぬよう、レーナの力を身に巡らせて守る方法も、上手くなった。
とはいえ、やはりきつい役目には違いなかったが。
(消エロ)
怒りと共に角が突進する。フェーレンダインがそれを弾き、白い星が散った。
(消エロ!)
憎々しげに叫びながら、固い蹄が背中を蹴りつける。前のめりになったところで、頭上で何かが空を切った。身を沈めると同時に、流れるように横へ跳び、振り下ろされた見えない鎌から逃れる。
(消エロ、コノ忌々シイ光!!)
咆哮を上げて喰らいついてきた巨大な顎は、左腕を叩きつけるようにして防いだ。急所は守られたが、肘から先が闇に飲まれ、凍りつく。だが無論そのままくれてやる気はなかったので、フィンはすぐにフェーレンダインを突き出した。脅しが効いて、獣は一瞬で切っ先の届かぬところまで跳び退る。
じんじん痺れる左腕を抱え、フィンは仲間達の様子に意識を向けた。
今夜は獲物が大勢いると喜んでか、光の境界線を越えて行く獣はまだいない。仲間達は三年前と同じく、必要以上の攻撃を堪えて淡々と仕事をこなしていた。
やがてじきに、今夜も人間達が退く様子はないと悟ってか、それとも恐怖や怒りの反撃がないことに飽きたのか、攻撃の手が緩んだ。
青い光が一組、二組と遠のき、闇の中へ消えていく。あるいは、フィン達を無視して、普通の野の獣と同じような動き方で街の近くまで嗅ぎ回りに行く。
フィンは、息を切らせているヴァルトのそばまで戻ると、フェーレンダインを鞘に収めた。
「今夜はこれで終わりだろうな」
「もう? いくらなんでも呆気なさすぎやしねえか」
「ここのところ、ずっとこんな感じだ」
フィンは首を振り、それでも警戒は緩めず、境界線のあたりをうろついている青い光を見やった。ヴァルトは唖然とし、信じられないとばかりの顔をする。
「ヴェルティアじゃ、一度に来る数は少ないが、それでも夜明けまで気は抜けなかったぞ」
言ってから彼は自分で答えを出して、複雑な目をフィンに向けた。
「……この街にゃ竜侯様がいるからか? おまえのやり方が、確かに効果があるってことか」
「だったら良いんだが」
フィンはいつもの口癖で応じ、険しい表情で闇の彼方を見やった。
「それだけではないような気がするんだ。この春から急に、闇の気配が遠ざかっている。最初は単に、冬が過ぎて日が長くなったからだろうと思っていたんだが……」
「違うのか? お天道様が戻ってきて、おまえのやり方が上手く行って、だから闇も寄り付かなくなった。喜べよ」
「俺だって喜びたいさ。だが、どうもおかしいという感覚がするんだ。闇が落ち着いたと思えるのなら、喜べただろう。今の様子は、ただ遠ざかっただけとしか……あるいは、よそへ行ってしまったか」
「そん時ゃ、そっちの連中がなんとかするだろうよ。まさか、いくら竜侯様でもディアティウス全土を竜の翼で覆えるわけじゃねえだろう。取り越し苦労も大概にしとけよ。連中がもう来ねえってんなら、俺は一眠りさせてもらうぜ」
ヴァルトは言い終わらぬうちに大欠伸をし、篝火の近くにごろんと寝転がる。フィンはやや呆れた面持ちでそれを見やってから、小さく苦笑して首を振った。
フィンも腰を下ろし、夜空を仰いでふうっと息をつく。上弦の月が雲の間から見え隠れしていた。
(久しぶりに、青霧に会いに行こうか)
彼ならば、山脈の北と南で起こっていることを、フィンより把握しているかもしれない。
(夜間警備の人手も増えたし、何日か留守にしても大丈夫だろう)
ナナイスを離れるのは久しぶりだ。フィンは懐かしい気分になりながら、地面に横たわって目を閉じた。眠りに落ちる前、瞼に浮かんだのが銀髪の少女だったことを、自覚する間もなかった。




