2-5.月光の下で
翌日も一行は沈んだ空気のままのろのろと進み、森は抜けたものの相変わらず人家の見られない野原で夜を迎えることになった。フィンが片足をひきずるようにしているので、仕方がない。本人は痛いとさえ口にせず、ネリスとファウナが、自分達はいいから馬に乗れといくら言っても、頑として首を縦に振らなかった。
「今夜は晴れそうだ。やれありがたい」
いつもの質素な夕食を終えた後で、オアンドゥスが空を仰いで息をつく。フィンは草の上に腰を下ろし、足をさすりながら言った。
「俺が一番手の見張りにつきます。もし奴らが現れたら、すぐに全員を起こしますから」
「何言ってるの、お兄は寝なきゃ駄目だよ」
途端にネリスが憤然と反対した。怪我をしているのだから、少しでも眠って体を回復させるのが先決だ、まともに戦える人間がいなければ全員共倒れなのだから、とまくしたてる。
だが、イグロスがあっさりとフィンに同意した。
「んじゃ、頼んだぞ。出来るようなら適当な時間に交代しろよ」
「はい」
フィンがうなずくのさえ待たず、イグロスは毛布をかぶってごろりと横たわってしまった。ネリスはあんぐり口を開けた。
「信じられない、なんでそんな……」
「いいんだ、ネリス」フィンが静かに遮る。「どのみち、痛みで眠れない。分かってるんだよ」
「…………」
ネリスはくしゃりと顔をしかめ、泣き出しそうになって、そっぽを向いた。
「ずるい、そんなの……ひどいよ」
つぶやいた声が震えている。フィンは軽く妹の頭を撫でると、平気なふりで家族を見回した。
「そんなわけですから、おじさんとおばさんも、俺には構わずに眠って下さい。大丈夫、月でも眺めて気を紛らしてますから」
「わかったわ。でもフィン、眠れそうだと思ったら、すぐに起こしなさいね。私だって見張りぐらいは出来るのよ。一晩中、ぐずるネリスをあやしていたこともあるんですからね」
ファウナが優しく言い、フィンはつられてちょっと微笑んだ。
夫婦が焚き火のそばに横たわった後も、ネリスは拗ねたような顔で、意地になってフィンの傍らに座っていた。
「あたしも起きてる。お兄一人に我慢させとくのは嫌だもん」
「おまえな……そういう問題じゃないだろう。おまえの方こそ体力がないんだから、しっかり眠って休まないと駄目だ。心配しなくても、明日にはこの痛みもましになるさ。今までの経験で分かってる。頼むよ、ネリス」
小声で説得を続けるフィンに対し、ネリスは身じろぎもせずじっと街道の先を見つめていた。フィンが諦めて黙ると、彼女は抱えた膝に顎をくっつけるようにしてつぶやいた。
「なんであたしには、お兄みたいな力がないのかなぁ。あたしも戦えたらいいのに」
フィンはすぐには答えなかった。昔だったら――平和な頃だったなら、無理言うな、と頭から否定するか、さもなくば、これ以上強くなってどうするんだ恐ろしい、などと冗談にしてしまったであろう言葉だった。
だが今は違う。戦えたらいいのにという願いは、ネリスにとってもフィンにとってさえも、切実なものだった。男でも女でも、大人でも子供でも。一人でも多くが戦えたら、どんなに助かることか――。
「練習すれば、おまえも少しは剣が使えるようになるかもな。でもそれより、おまえは祭司の資質があるみたいなんだから、それを生かす方がいいんじゃないか? ウィネアで神殿を見つけたら、相談してみるといい」
「あたしは今すぐ、役に立ちたいんだよ」
「それはちょっと難しいな。……そうだ、あのおまじない、明日になったら皆にもかけてくれないか。それに、適当でもいいから武器に祝福を授けてくれたら、少しは効き目があるかもしれない」
「……うん、分かった。やってみる」
ようやく大人しく承諾した頃には、ネリスの瞼は半分閉じかかっていた。フィンは微苦笑して、もう寝ろよ、とささやく。ネリスはこくんとうなずいて、毛布のところに這いずって行く。横になりかけて、ネリスはふと思い出したように振り向いた。
「あのね、フィン兄。あたし……本当はね、お兄のこと好きだよ。だから」
死んじゃ嫌だよ――そう願った声はあまりに小さくて、ほとんど聞き取れなかったが、フィンは深くしっかりとうなずいた。大丈夫、分かっている、と。
ネリスが静かな寝息を立て始めると、フィンはとうとう堪えきれなくなり、苦痛に顔を歪めて右足を抱きかかえた。歯を食いしばり、呻きを必死で噛み殺す。
夜気がひんやりと冷たくなるにつれて、右足の傷も激しく刺すように痛みだした。毛布を巻きつけてもちっとも温まらず、このまま凍傷になってしまいそうだった。
(大丈夫、大丈夫だ、今夜一晩我慢すれば)
これまでの経験から、闇の獣にやられた傷がどういう経過を辿るかは分かっていた。やられてすぐは痺れと激痛が同時に来る。次いでしばらくは麻痺した状態が続き、それが解ける頃には耐え難い痛みが襲ってくるが、その峠を越えたらあとは緩やかに治っていくのだ。
むろんそう予想出来るからとて、痛みが耐えやすくなるわけでもない。それに、こんなに酷くやられたのは初めてだった。
息が荒くなり、目尻から涙がこぼれた。眠る者たちを起こすまいと、左足と腕で這って、焚き火から遠ざかる。闇の中に青い光点は見えず、白々と月光が世界を照らしているのだから、心配は要らないだろう。
(レーナ)
脳裏を少女の姿がよぎった。確か彼女はあの夜、ここには闇の獣たちを引き寄せるものがない、と言っていなかったか。しかしそれなら、なぜ昨日の獣はあんな場所で待ち伏せていたのだろう? 通る者も今ではほとんどいなかろうに。
そんな疑問で意識をごまかせたのも、束の間だった。ひときわ強い痛みが走り、フィンは右足を抱えたまま横ざまに倒れた。胎児のように丸くなり、かはっと息を吐いて叫びを堪える。声を上げるわけにはいかなかった。皆を起こしてしまうし、そうでなくとも、何か余計なものを呼び寄せてしまう恐れが大きい。
だがいつまで耐えられるだろうか。フィンは救いを求めるように月を見上げた。
――と、その視界にふわりと白いものが現れた。
驚きにフィンが目をみはった瞬間には、痛みがすうっと和らいでいた。たった今まで、死にたくなるほど激しくフィンを苛んでいたのに。
「フィン?」
柔らかな声が名を呼ぶ。同時に、心にそっと手を触れられる感覚がした。初めは驚かされたが、今はそれが心地良い。フィンはふうっと深い息を吐いた。
ゆっくり身を起こすと、レーナがフィンの傍らにしゃがみ、傷に手を当てていた。凍りついていた足が、ゆっくり溶かされていくようだ。
「ありがとう、助かったよ」
フィンが礼を言うと、レーナは微笑んで小さく首を振った。
「私は何もしてない。フィンの力よ」
「まさか」フィンは目をぱちくりさせた。「そんな事が出来るなら、のたうち回る前にさっさと治してるよ」
それとも、何かまた人間の理解からずれた意味で言ったのだろうか。案の定、レーナは困った表情になった。
「あ、ううん、違うの。そういう事じゃなくて。つまり、ええと……」
その間にも痛みはすっかり薄れ、消えていく。フィンは思わず笑ってしまった。
「何でもいいさ。ともかく君が来てくれた途端に楽になったんだから、感謝感激だ」
フィンの笑顔につられるように、レーナも嬉しそうな笑みを広げた。フィンはつくづくとその笑顔に見入り、それからふと、彼女のことをネリスにどう説明したか思い出した。仔犬みたいな――そう言ったのだった。ふきだしそうになって危うく堪えたフィンに、レーナはきょとんと首を傾げる。
フィンは苦笑でごまかし、右足の裾をまくり上げて傷を確かめた。うっすらと赤い痣が残っているが、もうほとんど消えかかっている。精霊の力ってすごいんだな、とフィンが感心していると、その考えを読んだかのように、レーナがそっと指先で傷に触れながら言った。
「私の力は使えないの。封じられているから……でも、人の持つ力を使わせてもらうことは出来る。だから、この傷が癒えたのはあなたの力なのよ」
優しく足を撫でられて、流石にフィンも赤面し、慌てて裾を下ろした。彼の反応にレーナはやや驚いた顔をしたが、次いで自分も照れたように、たどたどしく謝った。
「あ、ごめんなさい。なんだか私、あなたを困らせてばかりいるみたい」
「いや、今のは別にそういうわけじゃないんだ、ただその、ちょっと……とにかく、君は気にしなくていい。それより、封じられてる、って?」
急いでフィンは話題を変えた。レーナはそのせわしなさに目をしばたいたが、質問には素直に答えた。
「ええ。人に利用されることのないように、両親が封印をかけたの。だから私、ほとんど外に出たことがなくて……人のこともあまり知らないの。伝承で得た知識はあるけれど、直に人と接した経験はないから」
「へぇ、箱入り娘なんだ」
「箱……?」
「大事にされてる、ってこと。君たちにも家族がいるんだな」
小人族はともかく、精霊にも家族がいるとは想像したこともなかったので、フィンは驚きと興味をおぼえた。が、レーナの寂しげな微笑で、そんな気分もしぼんでしまう。
「……今は、もういないの」
つぶやいてから、レーナはふと視線を外し、焚き火の方を見やった。
「あそこにいるのは、フィンの家族?」
「左にいるのは、兵士仲間のイグロス。あとは俺の家族だよ。オアンドゥスおじさんとファウナおばさん、それにネリス。俺は養子だから、血はつながってないんだが」
ちくりと胸が痛む。彼らの方ではフィンを家族だと言ってくれる。自分でも、彼らのことを家族だと考えてもいる。だがそれでも、当然の顔をして「家族です」と言えるまでには至らなかった。愛情をかけられるほどに、感謝は深まり、それゆえの遠慮が――本来受け取れるはずがないものを与えられている、そんな思いが、強まるのだ。
(生まれた時から一緒にいる家族なら、もっと喧嘩したり、憎んだりさえするのかもな。それよりは今の方が良いのかも知れない)
ナナイスの街で見かける家族の姿にも、眉をひそめるようなものがないわけではなかった。往来まで刃物を振り回して飛び出すような大喧嘩、公衆の面前で口を極めて罵り合う親子兄弟。噂話に至ってはもっと壮絶なものもある。それに比べたら、遠慮がある方がよほど良いではないか。多少のほろ苦さを伴うにしても。
――と、そんなフィンの胸中にほんのりと温かいものが触れた。フィンはどきりとして、レーナを振り返る。優しい微笑は、すべてを見通し受け入れる慈愛の女神にも見えた。
「フィンの大事な人たちなのね」
愛しそうに言われて、フィンは目を丸くする。その単純な一言が、余計な物思いをたやすく突き崩してしまった。フィンはごく自然に笑みを浮かべて「ああ」とうなずいていた。自分の答えにレーナも喜ぶのが感じられ、フィンはいまさらながら不思議な気分になる。どうしてレーナは、俺が誰かをいとおしむことを喜ぶんだろう?
「あの子も、とてもきれい」
レーナがささやき、フィンは奇妙な顔になって「ネリスのことか?」と聞き返した。レーナは黙ってこくんとうなずく。フィンは毛布の塊に目をやり、そうなのかな、と首を傾げて、それからやっと思い出した。
「君が言ってるのは心のことだったな。うん、それなら異論はない。あいつはいい子だよ……生意気だし口も悪いが、本当は優しいんだ」
くすっと笑いがこぼれた。馬鹿だの退屈だのと、仮にも兄に向かってぽんぽん雑言を投げつけてはくれるが、その心根はまっすぐで純粋だ。
(ああ、そうか)
ネリスのことを想って心が温かくなり、フィンは不意に納得した。レーナが「見ていたい」と言った気持ちが分かったのだ。その対象が自分だったというのはどうにも解せないのだが、それはさておき。
愛しそうにネリスを見つめるレーナの横顔に、フィンは言いようのない幸福を感じた。大切な人に対する想いを共有する誰かがいることが、とても嬉しかった。
「……ぁふ」
心が満ち足りると眠気がさし、フィンは小さな欠伸をした。レーナが振り返り、そっと手を伸ばす。フィンは慌てて身を引こうとした。また寝てしまったら、今度こそ蹴り起こされるだろう。それに、もっと話したい事がある。
「レーナ、俺、君に訊きたい事が……」
言いかけたものの、ろれつがうまく回らない。ぐらりと傾いだ体が、また雲のようなふわりとした何かに抱きとめられた。
「もっと……」
教えて欲しい。精霊のこと、世界のこと、――君の事を。
言えなかった残りの言葉は、夢の中でつぶやくことになりそうだった。