1-2. 去る者、来る者
あれこれと心を乱されたせいで、フィンは惨憺たる敗北を喫するはめになった。
「最後の結果がこれでは、北部に残す心配の種がひとつ増えるな」
イスレヴは苦笑しながら駒を片付ける。フィンは面目なさげに首を竦めた。
「あなたには色々と教えて頂いて、感謝しています。ですが俺が軍団の指揮を取ることはないでしょうから、心配は無用かと」
「確かに、君は竜侯だが軍団の司令官ではないし、自前の兵力も一握りの仲間を除いて一切ない。何より、君が司令官として戦場に立つような状況にはならないと信じたい。だがまあ、何も知らぬよりは少しでもかじっていれば、いつか役に立つかも知れんだろう。ただの気分転換にするにしてもな」
「気分転換、ですか」
「そう、忌々しい輩を敵に見立てて、いかに容赦なく叩き潰し敗走させるか、あれこれと考えるのは楽しい気晴らしになるぞ。私なぞ本国にいる間、何人の議員を木っ端微塵に粉砕してやったことか。あまりおおっぴらには言えんがね。だがそれで現実には石を投げずに済むのだから、構わんだろう」
イスレヴは悪戯っぽく笑い、床に落ちていた最後の駒を拾ってフィンに渡した。フィンも微笑してそれを受け取り、箱にしまう。
去り際、イスレヴはフィンの肩に手を置いて、強い声で言った。
「君にはこの三年で出来る限りのことを教えた。君も、君の家族や仲間も、もう行政の素人ではない。これからもナナイスをしっかり守って、ウィネアに次ぐ北部の都市になるように努めたまえ。私はじき本国に戻るが、有能な人材を見つけたら北部に行く気はないかと勧誘しておくよ」
「ありがとうございます」
フィンは心から礼を言い、しっかりと握手を交わした。
と、そこへ、きびきびした足音が近付いてきた。
「イスレヴ様! 良かった、まだお帰りになってなくて」
ほっとした顔で言ったのは、マックだった。簡素な平服の上から、長衣ほどではないがゆったりした空色の布を、左肩にかけている。天竜隊のしるしとして、イスレヴが私財を投じて用意してくれたものだ。ちょうど胸の辺りに出るように、金糸で控え目に竜の刺繍が施されている。
自分が用意したものを使ってくれていることに気付き、イスレヴは目を細めた。
「やあ、マック。良く似合っているな。竜侯様はどうやらお気に召さないようで、なかなか身に着けて下さらんが」
「もったいなくて着けられないんですよ」
フィンは言い訳しながら苦笑した。そもそもこの布は、フィンのためにイスレヴが考え出したのだった。ちょっとした相手と会うのにいちいち礼装していたのでは堅苦しいし、相手を無用に威圧する、だから完全に平服というのでもなく、しかしきちんと身分と立場を表すことの出来るものを、と。
皆の分も作らせたよ、とイスレヴが自慢げに持ってきた空色の山のてっぺんに載っていた一枚だけは、ほかのものより刺繍の図柄が大きく華麗で、明らかに貴族の身分を意識したものだった。あのネリスでさえ、もはや憎まれ口を叩くどころでなく、複雑な憫笑を浮かべてただ頭を振ったほどに。
「しまいこんでる方がもったいないと思うけどなぁ」
マックが無責任に言って、フィンに渋面をさせる。彼はにやりとしてから、イスレヴに向き直った。
「オアンドゥスさんから聞いたんですけど、ナナイスに来られるのは今回が最後だって本当ですか」
「ああ、恐らくね。次に来られるとしたら、評議員を辞めて隠居生活をする為だろうな」
おどけてイスレヴは応じたが、マックはややなじる口調になった。
「どうして早く教えて下さらなかったんですか。ささやかでも送別会ぐらい開けたのに」
「それが嫌で黙っとったのさ。君達の仕事の邪魔をしたくないし、いずれにせよ、私の後任がそろそろウィネアに着くだろう。私が去る時に送別会をしたとなったら、いずれ新任の監査官がここへ来た時には、歓迎会をせねばならん。下らん慣例を作るのは本意でないのでね」
「あ……」
そうか、と気付いてマックは肩を落とした。本国からの監査官の去就の度に、いちいち接待するとなれば、自治都市としての立場も微妙に揺らぐ。今は良くても、後には汚職の温床にもなりかねない。
「わかりました。でも、残念です」
「なに、またいずれ職務以外の場で会うこともあるだろうさ。ではな、マック。体に気をつけて、フィニアスを助けてやってくれたまえ」
「はい! イスレヴ様も、恙無きように」
マックはぴしりと背筋を伸ばして一礼する。イスレヴは満足げにうなずくと、もう一度フィンを見て微笑み、市庁舎を出て行った。
飄然とした後姿が見えなくなってから、マックはしげしげフィンを見上げて言った。
「本当に、なんで兄貴はせっかく貰った肩布を使わないのかな。ネリスに言われたこと、気にしてるのかい」
「いや、まあ……それだけが理由でもないんだが」
ぽり、とフィンは頬を掻いた。初めて布をまとった時、妹は一言「爽やかすぎて変」とのたもうたのである。仰々しいとか、何様だとか、そういうことではなくて。これはさすがに、彼女の雑言に慣れているフィンでも少々こたえた。
「俺は兄貴にも似合ってたと思うけどなぁ。きっとネリスの奴、兄貴が格好良かったから照れたんだよ」
「それはどうかな」フィンは苦笑した。「いいんだ。あれを着けていると、うっかり領主にでもなった気分になってしまう。自分を見失って、ディルギウスやアンシウスのようになりたくないんだ。本国の新任監査官が来たら、その時はきちんと竜侯らしくするよ」
フィンの立場は、あくまでナナイス代表、本国との折衝役にすぎず、市長ではない。そもそも奇妙なことだが、今のナナイスに市長はいないのだ。市議会の議長はオアンドゥスが務めているが、それだけである。竜侯がいるのに市長は必要ない、というのが市民の多数派のようだった。
それでも普通に市政が回っているのだから、問題ないと言えばないのだが、フィンにしてみれば、まるで暗黙の内に竜侯が“市民の代表”である市長を飛び越して、“主”として認められたかに感じられてしまうのだ。
「相変わらず、お堅いね。どう考えても兄貴はおかしなことにはなりそうにないけど、まあ、本人がそう言うなら仕方ないか」
マックは肩を竦め、それでもまだ未練げに小さな声で、せっかくお揃いなのになぁ、とつぶやく。フィンは微笑み、彼の頭をぽんと叩いた。
流石にマックもそろそろ子供扱いが不満らしく、少しばかりムッとしたようにフィンを見上げた。既に十九歳だというのに身長の方が相変わらずなので、それを気にしてもいるのだろう。フィンが白々しく慌てて手をひっこめると、マックは渋い顔で彼を睨んでから、やれやれと頭を振った。
幸いなことに、気まずい雰囲気になるより早く、雑用係の少年がばたばたと走ってきた。
「竜侯様! ゴヴァリアス様の船が着きました!」
「分かった。すぐ港に向かうよ。ついて来なくてもいいから、少し休んでくれ」
肩で息をしている少年を見やって苦笑し、フィンはマックの分もとばかり、頭をくしゃくしゃ撫でてやってから歩き出した。後からマックもついてくる。
ゴヴァリアスはナナイスが廃墟だった時にやってきた、あの船長である。あれ以来、竜侯様御用達の商船として、定期的にナナイスを訪れるようになった。むろんタズも一緒だ。
ほかにも様々な船が来るようになってはいたが、直接フィンや天竜隊に関るような積荷は、ゴヴァリアスが取り仕切っている。
港に出ると、ちょうど船が入ってきたところだった。
「あれは……?」
フィンは遠目に、船縁にくっついた人垣を見つけて眉を寄せた。積荷が物資だけなら、ああはならない。特に入港時は甲板が慌しいから、乗客がいても追い払われている。新しい移民の一団でも連れて来たのだろうか。
「……まさか」
係留作業が始まる頃には、人物の見分けがつくようになっていた。フィンが絶句している横で、マックもぽかんと口を開けている。
と、二人の視線に気付いたのか、船縁にいた十数人の男達が手を振った。そして、艀が着くや否や、先を争って降りて来た。
「フィニアス、マック!」
口々に名前を呼びながら、駆け寄ってくる一団。その後から、一人だけゆっくり歩いてくる男がいる。フィンの目はそちらに釘付けになっていた。
「……ヴァルト」
つぶやいた声が聞こえたのかどうか。三年ぶりに顔を合わせる元隊長は、複雑な、少し歪んだ苦笑を浮かべて片手を上げた。
「よお。久しぶりだな、フィニアス」
「ああ」
フィンは短く応じてうなずき、自分でも予想外なことに、笑みを浮かべた。
「ヴェルティアはもういいのかい? あんたにまた会えて嬉しく感じるとは、驚いたよ」
「そりゃこっちの台詞だ。正直、気は進まなかったさ。おまえのその面を見た途端、殴りつけずにおれなくなったら困るからな。昔ならともかく、新生ナナイスの主、竜侯フィニアス様をいきなりぶん殴ったら、海に叩き込まれちまう」
「そんな心配はないが……とりあえず、俺は防御しなくてもいいみたいだな?」
「ああ、我ながら驚きだがね」
ヴァルトはにやりとして、フィンの腕をばしんと叩いた。
「ちょいと見ねえ内に、お偉いさんの顔つきになりやがったな。ええ? 今じゃケツを拭くのも召使にやらせてるってんじゃねえだろうな」
久々に聞くヴァルトの下品な言い様に、フィンは笑いたいやら、顔をしかめたいやらで、複雑な表情になった。マックが横で素直に笑う。
「相変わらずだね、ヴァルトさんは。心配しなくても、そういう意味では兄貴も全然変わってないよ。自分が貴族になったことも忘れてるみたいだし」
「ああ、噂で聞いた。墓石小僧がお貴族様とはねぇ。まぁそいつはともかく、マック、おまえも元気そうで良かった。……もちっとでかくなってるかと思ったんだがな」
「もう一回言ったら殴るよ。俺はまだ諦めてないんだからね」
口調だけは軽く、しかし目には深刻に剣呑な光を浮かべて、マックが握り拳を作る。ヴァルトがおどけて肩を竦め、逃げるように話題を変えた。
「タズの話じゃナナイスはひどいもんだったらしいが、三年で随分立派になったもんだな。プラストが手がけたのか?」
「ああ、はじめの頃は」
フィンはそう答え、これまでのことをあれこれと彼らに知らせた。ヴァルトと共にヴェルティアで働いていた隊員達は、誰も以前のナナイスを見た事がなかったのだが、自分達も廃墟を港町として建て直した経験があるので、共感を持って聞いているようだった。
話が一区切りつくと、マックが「そうだ」と思い出した。
「イスレヴさんが作ってくれたこの布、これからナナイスで一緒に天竜隊としてやっていくんなら、余分があるから渡せるよ。今までは天竜隊って言っても数は少なかったけど、これからはちゃんとした部隊らしくなるね」
「粉屋の再結成だな」
興奮気味のマックに対してヴァルトは笑った。久々に全員が揃い、かつての連帯感が鮮やかによみがえる。さながら、今まさに天与の使命を果たすべく旅立つかのような興奮が、一人一人の胸を静かに満たしてゆく。
――そこでふとヴァルトは我に返り、これから自分達の身分証となる代物をしげしげ眺め、少しばかり気恥ずかしそうな苦笑を浮かべたのだった。
「しかしなんだな、そのえらく爽やかな空色は、似合う奴と似合わん奴が出そうだなぁ」




