1-1. 三年目
第四部 忘れえぬもの
一章
潮騒がさざめく。繰り返し、繰り返し。おいで、おいで、と差し招くかのように。
そう感じるのは、自分が海辺の町で育ったからだろうか。それとも、すべてのものの母であるアウディアは、誰の心にもこんな風に呼びかけるのだろうか。
フィンは砂浜に立ち、紺碧の光を全身に浴びながら目を瞑っていた。
カツーン、カツーン……
槌音が街から届く。微かな人のざわめき、生活の物音。
新しい住民がやって来て三年が過ぎ、ナナイスの人口はおよそ千五百人にまで回復していた。かつてほどの活気はないものの、一応は『街』だと言える状態になっている。ヴェルティアが中継地としての機能を回復し、船でなら安全に沿岸都市を回れるようになって、ナナイスに流入する人も物資も増えた。
となれば当然ながら、それに伴う問題も生じる。
「竜侯様!」
市庁舎で雑用係をしている少年が、土手の階段を駆け下りながら呼んだ。フィンは目を開けて振り返り、軽くうなずいてそちらへ歩き出す。
はじめの頃はフィンも新参者に対して、名前で呼んでくれとか大袈裟にしないでくれとか、周りが呆れるほど律儀にいちいち頼んでいたのだが、その内、彼らの心情を悟って諦めた。
新しくやってきたナナイス市民が、竜侯様、竜侯様、と彼を慕うのは、彼が万能の守護者であることを期待しているためではなかった。むろん竜侯に護られた都市というのは魅力的だが、そもそもナナイスは廃墟だった場所で、安全かつ安楽ではないと誰もが承知していたのだから。
彼らが求めたのは、精神的な拠り所としての竜侯だった。
一度は灰に帰し、歴史も血筋も絶えた街で、新しく暮らしてゆくために。市民の結束の要となる存在が求められ、そこに竜侯という存在はうってつけだった、というわけだ。
ならば甘んじて過大な敬意を受けよう、フィンはそう覚悟を決めた。求めに見合うだけの働きをして、彼らに応えれば良いのだ、と。
「あの業者が来ました。応接室で待たせてあります。それと、イスレヴ様がお見えになったので執務室に」
「分かった。ありがとう」
フィンは礼を言って、少年と共に市庁舎へ戻った。広場に面して建つ小ぢんまりとした庁舎だが、会議室に執務室、応接室に休憩室、と一通りは揃っている。最近は執務室がほとんどフィンの私室になりつつあった。何かと忙しいもので、短い空き時間があると、しょっちゅう椅子に座ったまま寝てしまうからなのだが。
ともあれ、今はその執務室にイスレヴがいて、あれこれと書類を読み漁っていた。彼は普段はウィネアにいるのだが、定期的にナナイスを訪れ、数日滞在しては行政の相談に乗ってくれていた。当初はありがたがっていた市民だが、最近では陰で、いつまで皇帝に監視されるのか、などとささやく者も現れだしている。フィンはそうした声を抑えるために、イスレヴと共に広場で市民の声を聞くなど、努力していた。
「お早うございます。ちょうど良かった、立ち会って頂きたい件があるんです」
フィンが挨拶すると、イスレヴは手に持っていた書類をひらひらさせた。
「これかね。復興の賑わいに目をつけるとは、呆れたものだな」
「ええ、まったく。ただ、法的に問題はないはずだと本人が言うものですから」
「確かに、帝国の法ではこの業者を罰せられんな。だがここは自治都市だ。君の裁量で条例を制定してはどうかね」
「今すぐには無理です。議会にかけないと。ですから……」
「私が立ち会って、圧力をかけるわけか。承った。本国でもこの手のやり口を規制するように、ずっと働きかけているんだがね。この三年、私が北部にいる間、あちらでは何の進展もないようだ」
やれやれ。イスレヴは嘆かわしげに頭を振り、書類を置いてフィンの方へやってきた。
「この業者はもう来ているのかね?」
「はい、応接室に待たせてあります。呼んで来ましょう」
うなずいて行きかけたフィンを、イスレヴが苦笑して止めた。
「何も君が呼びにいくことはなかろう。客人ならともかく、竜侯閣下が出向いてやっては、付け上がらせるだけだぞ」
それもそうですね、などとフィンが間の抜けたことを言っている間に、さきほどの雑用係が「呼んで参ります」と機敏に出て行った。
問題の業者が来るのを待つ間、イスレヴは慈しむようにフィンを見やって言った。
「相変わらず、竜侯の地位に慣れんようだね」
「仰々しく呼ばれるのには慣れました。ですが……そうですね、権威の使い方は、やっぱりよく分かりません」
「経験の積み重ねで分かるようになるさ。君もこの三年で、以前よりも堂々とした雰囲気を身につけたことだしな」
「そうでしょうか?」
フィンは困惑気味に首を傾げる。そんな仕草をすると、竜侯様にしては少々素朴な風情があって、イスレヴはつい苦笑してしまうのだった。
「そういうところは変わらんな。そこが君の良いところだが。人の上に立つようになった途端、自分が他の人々とは違う存在だと勘違いする輩は後を絶たんものだが……さて、その手の一人が来たようだ」
少年の案内で――実のところ案内が必要なほど広い建物でもないのだが――現れたのは、明らかに作りものの笑みを顔に張り付かせた男だった。
「どうも、こりゃ、竜侯様に本国の監査官までお揃いで。何の御用でしょう」
白々しく言った男に、フィンとイスレヴは冷ややかなまなざしを注いだ。一呼吸の間を置いてから、挨拶を省いてフィンが切り出す。
「あなたには市営共同住宅の建設を任せましたが、その仕事の進め方に問題があると、議会の方から是正勧告が出されたはずですね」
「そうでしたか? しかし、私は何も法に背いたことはしておりませんよ。何が問題なのか教えて貰いたいもんですね」
あくまで男はとぼける。フィンは厳しい面持ちになり、さきほどイスレヴが見ていた書類を手に取って読み上げた。
「……『上の者は、雇用した者に対して日給での支払いを定めながら、故意に待機日を設けることにより食費・宿泊費を支払わせ、不当に給与を搾取しているものと判断された』。つまりあなたは、日雇いのはずの働き手を無給の日まで拘束し、彼らから生活費を吸い上げて、支払った給料を取り返している、と、この調査報告に書かれています。事実に反する内容がありますか」
「そりゃ歪曲ってもんでしょうが!」
男は大袈裟に呆れたふりをして、両手を広げた。
「私は住む所のない連中に、寝床と食事を提供してやってるんですよ。それも格安でね。何を非難されるのか分かりませんな!」
「だがその結果」イスレヴが唸る。「君のところの者は、働いても働いても、その手には銅貨一枚残らないという有様だ。これが搾取でなくて何かね」
「言いがかりだ! 連中が無駄遣いしとるだけですよ。大体、待機日だって無理強いしてるわけじゃない。雨だったり、作業の都合で出来ることがなかったり、仕方がないじゃありませんか。それとも、一日の休みもなく働かせろってんですかね?」
男は不貞腐れたように言い返し、憤慨して腕組みする。フィンはじっとそれを睨みつけた。欲と欺瞞に濁った靄が見えるが、それも大して濃くはない。簡単にゆらぎ、色や形を変える靄だ。愚かで浅ましい性根が、こそこそ陰でささやくのが聞こえた。
(俺は何も悪いことはしてない。賢いやり方を知ってるだけだ)(ちっ、なんなんだよ、こんな事にいちいちガミガミ言いやがって)
己の行いが悪だと薄々自覚していながら、そうではないと信じたがっている。結局、ただの小心者なのだろう。
竜の力をもった視線に射られて、男は次第に落ち着きをなくし、もぞもぞ身じろぎした。フィンは容赦なく目を据えたまま、静かに告げた。
「だがあなたは、仕事のない日に彼らが他所へ稼ぎに行くことを許さなかった。行けばその翌日からはこちらに来なくていい、と脅しをかけて。その上、仕事中に怪我をした者がいれば、治療のために働けない間も寮に留まらせ、食費や宿泊費のほかに衛生費という名目で金を徴収した」
「それは……」
「勘違いしているようだが」フィンはもはや形ばかりの礼儀をも投げ捨てた。「ナナイスは猟場ではない。弱者を餌食にして一部の者だけが肥え太ることは許さない」
深い海の底のように、冷え冷えと重い声。二十歳そこそこの若造が発するとは思えない威圧感に、男は怯んで後ずさった。
「必要なのは、ナナイスと共に発展する健全な事業と、その担い手だ。それを理解せず、あくまで利益のみを追求すると言うなら、この仕事は他の者に回す。ナナイスで仕事を続けたいなら、すみやかに状況を改善することだ」
フィンが厳しく命じると、イスレヴも傍らにやってきて追い討ちをかけた。
「類似の件を規制するよう、私も本国で働きかけている。この街ではより迅速に、議会で条例が制定されるだろう。そうなれば間違いなく、過去に遡って適用される――言っている意味は分かるかね」
辛辣に問いかけられ、男は憎々しげに顔を歪めて、目を床に落とした。
今すぐにでもやり方を改めろ、でなければ仕事を取り上げるだけでなく、条例によって定めた罰則を適用するぞ、莫大な金を失うぞ――二人はそう脅しているのだ。
男が不承不承、改善を約束して出て行くと、フィンはうんざりして深いため息をついた。
「出来るならナナイスから叩き出してやりたいですよ。ネリスのところに治療を受けに来た人が愚痴をこぼさなかったら、こちらでは実態を掴むことも出来なかった」
娘から話を聞いたオアンドゥスが、市議会の一員として密かに調査を行い、頭から湯気を立てながら作成したのが、今机上にある報告書だ。
イスレヴも暗い面持ちで同意した。
「私も同感だ。気持ちは分かるが、しかし小悪党をいちいちすべて街から叩き出していては、人も集まらんし、何より街全体が息苦しくなってしまう。堪えて、指導してゆくほかあるまいよ」
「……そうですね。人が集まればそこに弱肉強食の掟が生じるのは、仕方がないんでしょう。三年前の復興当初と違って今は、食い詰めた挙句、この街ならば、と流れて来るだけの人も少なくありませんし」
何のためにどう働こうという明確な意志を持たず、ただ旭日の勢いをもつ街のおこぼれにあずかろうと寄って来る人々は、たやすく食い物にされてしまう。
移住者が増えてきた頃、プラストたち天竜隊の面々は土木工事から手を引いて、自警団としての役割に徹することにした。様々な事業の現場や人々の暮らしを見回って、秩序と安全を保つため尽力しているのだが、やはり行き届かないところはある。
フィンはため息を堪え、書類をきちんと揃えた。片付いた机の上を見やり、イスレヴが「さて」と口元をほころばせる。
「現状を嘆いてばかりいても仕方がない。気を取り直して、いつもの奴を始めよう」
「はい」
フィンも表情を和らげ、壁際から丸めた地図と小さな木箱を取ってきた。机上に地図を広げ、箱から駒を取り出す。赤と白に塗り分けられた、木の馬や荷車、数種類の歩兵などだ。イスレヴはふむと思案してから、地図上の一点を指した。
「今日はここにしよう。古の戦場、クォノスの北西だ。君は西から、私は東から陣取るとするかね」
指定された場所に、二人はそれぞれの戦力を割り振って布陣していく。ナナイスが落ち着いた頃から、イスレヴは地図上の模擬戦でフィンに戦術を教えていた。もっとも、つい脱線して自身の経験を長々と語ることもしばしばで、本腰を入れてフィンを士官に育てるつもりはない様子だったが。
「そろそろ私も、本国に帰らねばならん。今回が最後になるな」
駒を動かしながら、イスレヴがさりげなく言った。フィンはぎくりと手を止め、急に心細くなったように彼を凝視する。イスレヴは思わず笑ってしまった。
「捨てられた犬のような顔をせんでくれんか! 私もまだ北部がすっかり立ち直ったとは思っておらんが、やむを得ん、本国の評議員達がうるさくてかなわんのだよ。このまま北部の主として居座るつもりか、独立など認めんぞ、とな。それに、皇帝陛下もこの三年、皇都での味方が減る一方のようだ。帰って支えて差し上げんと、議会によって玉座から引きずり下ろされかねん」
「それは、確かに……俺も心配です」
フィンは駒をもてあそびながら、皇都で別れたきり会っていないヴァリスの顔を思い浮かべた。彼の施政が正しいのかどうか、フィンにはまだよく分からない。だがともかく皇帝は、ナナイスの自治を認め、彼にフェーレンダインを貸してくれた。一個人として頼む、と頭を下げさえしたのだ。
少なくとも、フィンとヴァリスが揃って皇都入りした時に早速おもねってきた議員達よりは、ずっとまともな人間に思える。後釜を狙う者がより優れているのか否かはさておき、フィンはただ知人のひとりとして、ヴァリスには無事でいて欲しかった。




