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灰と王国  作者: 風羽洸海
第三部 帰還
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6-3. 故郷ナナイス


 遂に水平線が現れ、陸地の端にうずくまる人工物の影が視界に入ると、フィンはあからさまに落ち着きをなくした。ファウナはオアンドゥスと目配せをかわし、苦笑を浮かべて言う。

「いいわよ、先に行きなさいな。でも気をつけてね」

「すみません!」

 その言葉を待っていたとばかり、フィンは謝罪もそこそこに片手を上げた。白い竜が翼を広げ、彼は一瞬でレーナの背に乗り、飛び立っていた。

 視界の碧がぐんぐん大きくなる。明るく晴れた空の下、藍色にきらめく海原。磯に臨む高台に広がる、ナナイスの街――

「…………っ」

 その有り様を目で見て取り、頭で理解するまでに、数呼吸はかかったろうか。

 フィンは愕然と絶句し、レーナの背から落ちてゆく感覚を味わった。どこまでも、どこまでも果てしなく落ち続ける――だが実際には、彼は波打つ白い毛にうずもれ、しがみついていた。

 ウィネアの神殿で泣きじゃくっていたネリスの声が、脳裏に木霊する。

(……っかく……ここまで、来たのに……、……無駄、だったよ……)

 街を囲んでいた城壁は大部分が崩壊し、建物はすべて見る影もなくなっていた。かろうじて部分的に街路の跡が見て取れるが、至る所に素焼きの屋根瓦や漆喰壁の残骸が積もり、足の踏み場もない。

(ナナイスが……燃えた……皆、死んじゃった)

 どこもかしこも黒い煤が焦げつき、燃え残った庭木の幹や柱の残骸だけが、よじれた悪夢のようにぽつんぽつんと立っている。庭園の水盤は腐った泥水で濁り、広場の公共水道は瓦礫の下に埋もれていた。汲む人もいないのに、どうやらまだ水が出ているらしい。苔に覆われた縁から、ちょろちょろと細い流れが伝い落ちている。

 住み慣れた街の姿は、もうどこにもなかった。

 タズや孤児院の兄弟と一緒に遊んだ通りも、よくおつかいに行ったパン屋や魚屋も、憧れながらその前を何度も通った玩具職人の店も。マスドにしごかれた兵営さえも、すっかり焼け落ちていた。

 ぐるりと街の上を旋回し、充分に開けた場所がないと分かると、レーナは街の外にフィンを降ろした。

「こんなに酷いなんて」

 フィンはレーナに寄りかかって立ち、無意識につぶやいた。足が地面についている感覚がない。気がつくと彼は、その場にがくりと膝からくずおれていた。あまりの衝撃に、涙も出ない。

 だがレーナの意識に触れられた途端、喉から嗚咽がこぼれた。

「う、く……っ」

 折れそうなほどに奥歯を食いしばり、声を殺す。思い切り声を上げて泣きたくても、出来なかった。そんなことを許そうものなら、正気を失うまで泣き叫ぶしかないという気がしたから。

 震えながら耐えるフィンに、レーナがふわりと寄り添う。暖かな光が心に射し込み、無理強いすることなく悲痛を和らげる。哀切は消えないが、抉るような痛みは鈍く微かになっていった。

 ほどなくフィンは手の甲で涙を拭い、己に活を入れて立ち上がった。戻ると決めたのは自分自身だ。それはこの街を生き返らせる為であって、その死に殉じる為ではない。悲しむのは良いとしても、喪に服する時はとうに過ぎ去った。

 頭を振って気分を切り替えると、彼は崩れた城壁を見上げた。

 深くゆっくりと息を吐き、さて、と口の中でつぶやく。これからが大仕事だ。

 どこから手をつけたものか。フィンはぐるりを見渡し、ふむと小首を傾げた。

 まずは飲み水の確保だろう。ナナイスは海辺の都市なので、井戸水はどうしても質が良くない。水道が生きている様子なのはもっけの幸いだが、しかしそれだけに頼るのはいかにも危うかった。ざっと見たところでは、周辺の地形に大きな変化はないが、いつどこで土中の導水管が破損するか分からない。一度壊れてしまったら、修復するための資材も技術もないのだ。

「水道と、井戸……それから、当座の仮住まい、かな」

 指折り数えてから、フィンはやれやれと頭を振った。どうすれば良いのか、具体的なことはプラストに聞かなければまるきり分からない。土木建築の知識も技術もないので仕方がないが、自分が少し不甲斐なかった。

「レーナ、皆が来るまでに海を見に行こう」

 ぼんやり突っ立っていても仕方がない。フィンはレーナを手招きし、海岸に続く小道を歩き出した。レーナも人の姿になり、小走りについて行く。

 風除けの木立と土手を越えると、以前と同じ砂浜が広がっていた。そう広くはなく、左右ともじきに岩だらけの磯になり、断崖へと続いている。右手、すなわち東には風車があり、左手の街側には神殿が建っていた。少なくとも、一年前は。

 フィンは両方の崖を見上げないようにして、海原を見渡した。これだけは、以前と同じだ。穏やかな春の海。波も静かにゆったりと砂浜を洗っている。繰り返される、耳に馴染んだ響き。

「コムリスでも海は見たけれど、こっちの海のほうが好き」

 レーナが言って、フィンの顔を覗きこみ、にっこりした。

「フィンの目と同じ色。すごくきれい」

「…………」

 ごほ、と、フィンがむせた。咳払いのつもりだったが、失敗したのだ。

「俺じゃなくて、海を見てくれよ。そっちの方がきれいだから」

「?? フィンもきれいよ?」

「……うん、分かった。でも今はあまり見ないで欲しいんだ」

 泣いた後の顔をまじまじ見られるのは、嬉しいことではない。だがレーナにはそんな感情が理解できないようで、相変わらず彼を見つめたまま、目をぱちくりさせた。

 こうなったら、自分が逃げるしかない。

 フィンはわざとらしく目をそらし、波打ち際まですたすた歩いて行くと、屈んで指先を砂に押し当てた。指の型が、次の波に洗われて薄れ、その次の波で完全に消える。

 レーナもそばまで来ると、ちょこんとしゃがんで同じ遊びを始めた。砂に模様を描いては消され、また描いて、を繰り返す。その間フィンはじっと佇んだまま、懐かしい記憶をひとつひとつ辿っていた。

 やがてふとレーナが顔を上げ、水平線を見やった。

「ずっとこの景色を見たかったの。フィンの心にあった、ナナイスの海」

 立ち上がり、指についた砂を払う。それから彼女は、憂いの欠片もない純粋な喜びに満ちた笑顔になった。

「やっと一緒に見られて、嬉しい」

「……うん。俺もだよ」

 ようやくフィンは微笑んだ。無理に作ったのでなく、ごく自然に浮かんだ笑み。

 つい先刻ひどい衝撃を受けたところだというのに、そんな風に笑えたことに、我ながら驚く。だがその感覚も、レーナを見ていると長続きしなかった。

(そうだ、ここからまた始まるんだ)

 新しい暮らし――レーナと家族と、仲間のいる生活が。

 希望の光が胸に兆すのを感じながら、彼はごく自然に、ふわりとレーナを抱きしめていた。


 フィンは家族もやはり衝撃を受けるだろうと予想し、立ち直るまでの間に、こっそりプラストと再建手順を相談しておくつもりでいた。

 が、彼がそんな態度なのでは、保護者たる両親もおちおち放心していられない。ひとしきり驚き嘆いただけであとは感情を抑え、無理に笑顔を作って見せた。

「なに、街も神殿も建て直せばいいさ。今ならどこでも好きな場所を選べるしな」

 白々しく張り切るオアンドゥスに、フィンは心配そうな目を向ける。途端に鼻をつままれてしまった。

「なんだその顔は。息子に心配されるほど、やわじゃないぞ」

「でも、おじさん」

「悲しくないとは言わんさ。夜中にこっそり一人で泣くかもしれん。現場を見つけても、知らんふりをしてくれよ」

 父親の沽券に関るからな、とオアンドゥスは苦笑した。そして、フィンの鼻を解放してから、頬に残る涙の跡をぐいと拭ってやる。彼は何も言わずに痛々しい笑みを浮かべてフィンを見つめると、安心したように小さくうなずいた。フィンも黙って目を伏せ、少し顎を引いた。言葉はなかったが、なんとなく父の心情が分かる気がした。

「よし」

 オアンドゥスはフィンの肩を強く叩くと、痛ましい表情を消してプラストに向き直った。

「まず水道だったか? 瓦礫をどかせばいいんだな」

「ああ。当面はそれでいいだろう」

 それから埋まっていない井戸を探して……。

 あれこれと男達が相談していると、いつの間にかその輪のすぐ外に、ネリスがやってきていた。口を挟まずにただ聞いているだけだが、その両目からはまだぽろぽろ涙がこぼれている。気付いたマックが慌てて言った。

「ネリス! 無理しないで、おばさんと一緒にいなよ」

「母さんなら、とっくに薪を集めに行ってる」

 答える声は少し震えたが、口調はしっかりしていた。

「あたしのことは気にしないで。どういう計画か把握しておきたいの」

「でも……」

「気にしないでってば。涙が止まんないだけで、もう平気なの!」

 平気じゃないだろうそれは。と、突っ込みたくても突っ込めず、男達は困って顔を見合わせる。ネリスはうんざりした風情でため息をつき、挑むようにフィンを見上げた。

「前にも言ったでしょ。お兄一人に我慢させとくのは癪なの。いいから話を進めてよ」

「……分かったよ」降参、とフィンは両手を上げた。「おまえには負けるよ。でもな、ちょっと何かにすがりたくなったら、いつでもレーナに言うんだぞ」

 ほかの人間には甘えようとしないだろうと踏んでの助言だったが、案の定、これにはネリスも素直にうなずいた。

 やるべき事を打ち合わせ、広場の水道を救い出すだけでその日は暮れてしまった。幸い雨は降らなかったが、雲が多く月もまだ細いその夜は、街の外に青い光が蛍のように乱舞した。

「近付いて来ないな」

 フィンと一緒に見張りについたエウォーレスが、不思議そうにつぶやく。二人の間には消えかけた焚き火の燠がちろちろ瞬いているだけだ。その方が、獣たちの注意を引かずに済むと考えてのことだった。

「ここにまた人間が戻っているとは、まだ気付いていないんだろう」

 フィンは瓦礫と廃屋の間に見え隠れする青い光を目で追いながら答えた。レーナの光を覆い隠している今、闇がすぐそこまで迫っているのは感じられるが、そこにかつてのような復讐の怨念はない。冷ややかな敵意は残っているようだが、すっかり人間を追い払ったつもりでいるのだろう。

「ああして遠くにいるだけなら、きれいに見えなくもないんだが」

 フィンが何気なくつぶやくと、横でエウォーレスが「うえっ」と呻いて身震いした。

「俺はまだ怖いよ。こないだの当番の時なんか、地平線の近くにある星を奴らの目と見間違えて、ぎょっとしたね」

「近寄ってこられたら、俺だって怖いさ」

 フィンは苦笑で応じた。いくら平常心を保とうとしても、刻み付けられたかつての恐怖はなかなか消えない。あの乾いたカチカチいう音、忍び寄る冷気、それらに触れると否応なく初めて当直についた晩を思い出す。

 話題を変えようと、フィンはふと思い出したように装って訊いた。

「そう言えば、どうしてあんたとエウゲニスはナナイスに来てくれたんだ? ウィネアに家があるんじゃないのか」

「ん? あー……いや、家は……なくなってたんだ」

 珍しく口ごもり、エウォーレスは視線を落とした。小枝で燠をつつき、火の粉をパッと舞い上がらせる。フィンが口を挟むより早く、彼はちょっと頭を掻いて、軽い口調で続けた。

「ほら、俺達、そんなつもりじゃなかったけど脱走するはめになっただろ。いや別におまえのせいだってんじゃないから、謝らなくていいんだけどな。近所の人の話だと、親は俺達が二人とも死んだもんだと思ったらしくて、遺族に支払われる見舞金を貰いに行ったんだってさ。でも、あの頃はまだディルギウスがいたから……脱走兵の親だって決め付けられて、うんまぁ事実そうなんだけどさ、だからって袋叩きにしていいって法はないよなぁ。

 それで結局、俺達のために作った墓に、親のほうが入っちまったんだってさ。まあ、無駄にはならなかったわけだね」

 そこまで言って、彼はフィンを振り返ると、荒っぽく肩を小突いた。

「だから、おまえのせいじゃないって言ってるだろ。なんでそう真面目かなぁ。もうちょっと軽ぅく生きないと、女の子にもてないぞ」

「あんたがもてているようにも見えないが」

 フィンは真顔で言い返し、べしっと頭をはたかれて苦笑した。

「あんた達が来てくれて助かったよ。だけど、いくら今のナナイスに女の子がいないからって、ネリスにはちょっかい出さないでくれよ」

「出さないよ、まだ子供じゃないか。俺達は竜侯様について行くって決めたんだ。当面は女の子抜きで我慢するさ。ここで辛抱しとけば、いずれナナイスが復興した時には、俺達きっと名士とか英雄とか、そんな感じになってるはずだろ? 間違いなく女の子に大人気だよ」

 よりどりみどりだね、とエウォーレスはしまりなく笑う。フィンは「どうだかな」と皮肉っぽく応じたが、その実、相手が口ほどには下心を抱いていないと見抜いていた。エウォーレスを取り巻いているのは、明るく軽やかな色彩だ。欲や打算に濁った靄ではない。

(女の子はともかく、生活に余裕が出来たら何か礼をしたいな)

 青い光を眺めながら、フィンはぼんやりそんなことを考えていた。


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