2-4.道を阻む罠
呑気なことを言っていられたのも、太陽が西に傾くまでだった。
「小屋ひとつ見当たらないな……このままじゃ、街道の脇で野宿になりそうだ」
周囲を見回してフィンは眉をひそめる。イグロスが苦々しげに空を仰いだ。
「しかも、今夜はお月様は拝めそうにないぞ」
薄桃色に染まりつつある西の空に、灰色の綿雲が増え始めていた。オアンドゥスも空を見渡し、空気の匂いを嗅いで言う。
「雨は降らないだろうが、雲はかなり出そうだな。早めに焚き火の準備をした方が良いんじゃないか」
ネリスとファウナも不安げに辺りを見回した。街道は緩やかな起伏の丘を越え、浅い谷間に入って行こうとしている。両側には木立が広がり、その間を縫って走る街道の白い筋が、次の丘へと続いているのが見える。ただ数箇所で、森が道を覆い隠していた。
帝国が健全だった頃は、街道の両脇数メートル以内には木が生えないよう、常に手入れされていたものだ。根が伸びて敷石を押し上げると道が傷むし、道の際まで届く茂みは、待ち伏せしている追い剥ぎの姿をすっかり隠してしまうからだ。
しかし今は、敷石の端から手を伸ばすと木の葉に触れられるほどになっている。
「いったい何年前から、放ったらかしにされていたんだろう」
フィンはつぶやき、足元の石畳に目を落とす。磨り減った石と石の隙間に砂が詰まり、既に小さな草がしょぼしょぼと細い葉を伸ばしている。フィンは街道をここまで来たことは一度もないが、ナナイスに行く時に通る道はいつもきれいで、石と石がぴったりくっついていた。
「さてなぁ」イグロスが頭を掻いて、フィンの独り言に答えた。「五年か……六年。あるいは十年か? ともかく、俺が兵営に入った頃には、街道の補修は俺たちの仕事じゃなくなっていたからな。あの頃からだなぁ、皇都が騒がしくなったのは」
「何かあったんですか?」
フィンは野宿に適した場所を探しながら、話を促した。イグロスも視線を行く手の左右に走らせながら、上の空で続ける。
「皇帝が替わっただの、総司令官が辞職したの殺されたの、竜侯会議が解散させられただの、そんな報せがしょっちゅう届くようになったんだ」
竜侯会議とは、かつての大戦の名残である。稀少で高貴な竜の助力を得られた人間――『竜侯』は数少なく、常に十指で足りる程度しかいなかった。自然、彼らの発言力と威信は増し、やがて『竜王』を中心にした『竜侯』たちが人間世界を動かすようになった。結果としてそれが、大戦後の分裂と争いを招いたのだが。
御伽噺の時代が終わって、竜の姿など見られなくなった後も、称号だけは残った、というわけである。
しんがりをつとめるオアンドゥスが首を傾げて唸った。
「そういえば、今の皇帝が誰なのか知らないな。俺が覚えているのは、アエディウス様で終わりだ」
「あの爺さんはしぶとかったがねぇ」イグロスが不敬な台詞を吐いて苦笑した。「良くも悪くも骨太で、ふやけた帝国のお偉いさんを叩き直そうと頑張ってた。成功したように見えたんだが、馬鹿息子どもがめちゃめちゃにしちまったみたいだな。長男のゲナスが即位したあと何年かして、暗殺されて、それから何人入れ替わったかな。今、誰が玉座に座っているのかは、俺たちにも知らせが届いてないから分からんよ」
世間話はだんだん早口になっていく。イグロス自身、それを意識している様子はなかった。むしろ彼の頭を占めているのは、周囲の暗がりだった。
フィンもオアンドゥスも、それは分かっていた。平気なふりをしているだけで、彼は脅えている。自分達もそうだ。
とうとうごまかしがきかなくなって、イグロスは立ち止まった。フィンも足を止め、剣の柄に手をやる。ネリスとファウナは青ざめて身を寄せ合い、急いで荷物から角灯を取り出した。
「……ねぇ、引き返せないかな」
ネリスが小声で、誰にともなく提案する。答える者はいなかったが、それは誰もが手遅れだと承知しているからだった。
森はいまや一行の頭上に覆いかぶさり、まだ光の残る空をほとんど隠していた。道は暗がりに消え、そしてその奥に――ぽつり、と青い光が灯る。
「一体だけ……か?」
イグロスがつぶやいて、剣を抜いた。フィンも剣を構え、左右に目を走らせる。オアンドゥスが後ろから「こっちにはいないようだ」と答えた。その時、ボッと音を立てて角灯に光が入った。青い点が瞬き、ふっと消える。
「このままゆっくり後退しよう」すかさずオアンドゥスが言った。「安全なところまで下がって、朝になるのを待つんだ」
ネリスとファウナは角灯を掲げ、既にじりじりと後ずさっている。だが前の二人は動かなかった。
「待っても無駄だろうよ」
イグロスが唸る。どういうことかと眉を寄せたオアンドゥスたちに、フィンが振り返って言った。
「この道の暗さは尋常じゃない。きっと朝でも真昼間でも、ここは暗いままです。まだ梢の隙間から明るい空が見えるのに、この先は……」
指差す先には、全く先の見えない暗闇。木々のぼんやりした形さえ分からない。丘の上から見下ろした森は決して密生していなかったし、部分的に森が街道を隠しているところでも、これほどの闇が生まれるとは考えられない。
ネリスが状況を察し、ごくりと固唾を飲んで角灯を掲げ、フィンのそばにやってきた。
「つまり、駆け抜けるしかないってことだね」
「そうだ」フィンは硬い表情でうなずいた。「おばさんはそのまま、馬に乗っていて下さい。おじさんは松明を。ネリスはこっちの馬を頼む。角灯は俺が持つから」
「分かった」
ネリスは角灯を渡すと、かわりにイグロスから荷馬の引き綱を受け取った。馬も緊張し、耳を寝かせ気味にしている。一番後ろでオアンドゥスが火のついた松明を掲げると、いくらか闇が退いたようだった。
「行くぞ。最初はゆっくり……合図したら、全力で走るんだ」
イグロスがささやいた。全員がうなずき、前を見据える。今はまだ、青い点は見えない。
剣を構えた二人を先頭に、一行は闇の中へと踏み込んで行った。嫌がってしり込みする馬を、ネリスがなだめて進ませる。
静かだった。不自然なほど何の音もしない。進む一行の足音だけがうつろに響く。
闇そのものがひとつの巨大な生き物のようだった。その腹の中へ進んで行くのだ。剣を握るフィンの手が、じっとりと汗で湿る。
(どこだ、どこから来る)
左右に目を走らせながら、フィンはいつものように青い光点を探していた。緊張が高まり、あと少しで叫ぶか走り出してしまいそうな限界に達した、その時――
キッ、と、引っ掻く音が空気を裂いた。
フィンとイグロスは素早く剣を構え、足に力を込める。一瞬後、キチキチキチキチと激しい音を立てて何かが襲いかかった。
「畜生、なんだこいつッ!」
イグロスが喚きながら、見えない一撃を弾き返す。硬い鋼のような音が響いた。
「目が見えねえ……!」
唸ったのは、彼自身の目のことではない。あの青い光点が見えないのだ。距離感がつかめない。
毒づくイグロスの横でフィンは震える膝を従わせ、こわばる腕で、音と気配を頼りに攻撃を防ぐ。少しずつ前進しては行くが、相手が街道の真ん中に居座っているのか、それとも左右どちらかの闇に隠れて攻撃してきているのかも分からなかった。
(せめてもうすこし明かりがあれば)
埒もない願いを奥歯で噛み殺し、フィンは片手で角灯をかざしながら、片手で剣を振るう。一瞬だけ光の届く範囲に現れる『獣』は、獣と言うよりも巨大な甲虫に近いのではないかと想像された。固いくせによくしなる触手のようなものが、空を切って襲いかかるのだ。
必死で攻撃を防いでいる内に、どうやら相手も我を忘れたらしい。行く手にぽつんと青い光点が現れた。往来の真ん中ではない。左側だ。
「右を走れ!」
イグロスが怒鳴り、腕を振る。ネリスを先頭にファウナとオアンドゥスが駆け出した。フィンは彼らが逃げ切れるように、角灯を掲げて『獣』を道の左端へと追い詰める。イグロスは素早く道の先まで走り、行く手に触手が飛んで来ないように防いで、三人が駆け抜けるまでの時間稼ぎをする。
倒せるなどとは考えていなかった。何か特別な、神々の祝福を受けた魔法の剣でも使わない限り、光のない状況でいくら刺しても突いても、『獣』たちは何の痛痒も感じないのだから。
三人と二頭が背後を駆け抜けると、イグロスとフィンも攻撃を防ぎながら、前へと移動を再開した。獲物に逃げられたと悟ってか、青い光点が冷たく燃え上がり、攻撃は八つ当たりのように激しくなった。
「くそ、急げ小僧! 逃げるぞ!」
イグロスが怒鳴る。フィンは角灯をかざしてはいたが、何しろ片手だ。身を守りながら移動するのに手間がかかる。一方イグロスは両手で剣を振るえたが、光がない。オアンドゥスの松明が遠ざかると、彼の方には闇が忍び寄ってきた。
「早くしろ、馬鹿野郎!」
狂乱の態でイグロスが叫んだ直後、フィンは右足に一撃をくらって横ざまに倒れた。角灯が手を離れ、宙を飛ぶ。イグロスがそれを必死で掴み取った。
フィンは倒れたまま、角灯の光が描く軌跡を見ていた。右足は膝から下がちぎれたか凍りついたかのように感覚がなく、顔から血の気が引いて、酸っぱい胃液がこみ上げてくる。
角灯に照らされたイグロスの顔が、苦痛に歪むフィンの視界に映った。蒼白になり、かっと目を見開いて、倒れた仲間を凝視する顔。そこに浮かぶのは、絶望と恐怖、そして――。
ひどく長い一瞬だった。
死ぬ、とフィンが覚悟した直後、イグロスの手が伸びてフィンを引きずり起こした。フィンも我に返り、右足を引きずって左足と腕だけで立ち上がると、救いの手に縋りつく。ぶざまにどたばたしながら、二人は必死でそこから逃げ出した。
どうにか全員無事に暗がりを抜け、途切れがちな月光の射す空き地に火を焚いて腰を下ろせた後も、誰も喋ろうとはしなかった。フィンの足を手当てする時に、ネリスとファウナが小声で一言二言、どうしようかと相談しただけだ。足は紫色の痣が太い筋になっていたが、これまで当直の夜に負った傷と同じく、血は出ていなかった。
フィンは気休め程度の手当てを受けながら、呆然としていた。どうやってここまで逃げて来られたのかも思い出せなかった。覚えているのは、あの、不吉な長い一瞬だけ。
(あの瞬間、確かにイグロスは俺を見捨てようとした)
角灯に照らされた顔に、残酷なほどはっきりとそれは表れていた。そのことにフィンは衝撃を受けたが、しかし、自分にはイグロスを責められないと分かってもいた。
(俺だって)
見捨てるかもしれない。
あの一瞬、角灯を掴んでそのまま走り去れば、フィンを助け起こすよりもずっと安全だったはずだ。獣はフィンを食うのに忙しく、イグロスのことは見逃しただろう。この先まだ越えてゆかねばならない夜や、道中の危険などは別問題として、ともかくあの場を生き延びるには、倒れた者を見捨てるのが最良の策だった。彼の迷いを責められる者などいない。
その理解が痺れた頭にゆっくり浸透し、フィンはぞくりと戦慄した。
今日自分が見捨てられても仕方がなかったように、いつか自分も誰かを見捨てるかもしれない。己が生き延びるために。そしてそれは、身勝手だとか卑怯だとかいった問題ですらないのだ。
――それが、今この世界で生きる者の現実だ。
フィンは膝を抱え、頭を腕に埋めた。オアンドゥスが一番手の見張りにつくと言ってくれたのも、ほとんど耳に届いていなかった。