表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰と王国  作者: 風羽洸海
第三部 帰還
119/209

6-2. 一年を経たテトナ


 その夜は静かだった。月は細くて夜半過ぎまで昇らず、空は星に埋め尽くされている。地上は見渡す限り空よりも暗く、フィンが今焚いている小さな火のほかに明かりはない。にもかかわらず、闇の気配は遠かった。

 フィンは穏やかな気持ちで空を見上げ、デイアのおわすところ常に光があるのだと思い出して微笑んだ。横に座っているレーナが、遠慮しながらもぴたりと寄り添い、肩にもたれかかる。フィンは軽く頭を撫でてやった。

 やがて空に雲がかかって闇が濃くなると、遠くに青い光点がぽつりと現れた。

 一対、二対。なぜこんな所に明かりがあるのかと訝り警戒するように、周囲を行きつ戻りつしながら近付いてくる。フィンはゆっくり立ち上がると、焚き火から数歩、闇の方へと進み出た。剣はまだ抜かない。

「こっちで火に当たるか」

 フィンは静かに話しかけた。むろん言葉が通じる相手ではないが、声の調子から敵意のないことを伝えられないかと、望みを託して。

 反応はなかった。カチカチと乾いた音が行き来する。薄ら寒い冷気が足元に漂い始め、低い唸りが次第に重なり合って怒りを奏で始める。

 レーナの見守るまなざしを感じながら、フィンはさらに歩いた。自らの内に宿る強い光に意識で覆いをし、闇の手が触れられるところまで進む。

 シュッ……!

 空気をこする音がした直後、フィンはまともに一撃を受けて吹っ飛んだ。文字通り体が一瞬宙に浮き、仰向けに倒れる。咄嗟に喉を庇った腕に、憎悪の牙が喰らいついた。

 奥歯で声を噛み殺し、渾身の力を込めて獣を振り払う。勢いをつけて立ち上がったその足が地面を踏みしめる間もなく、今度は脇腹に鞭のようなものが飛んできた。かろうじて身をそらし、衝撃をかわす。上着の裾に、闇のかすった跡が白く霜の帯となって残った。

「流石に素手は無謀か」

 数が少ないから大丈夫かと思ったのだが。フィンは唇を噛み、フェーレンダインを鞘から抜く。白い光がこぼれ、闇の獣がぎくりと反応して飛び退った。

 フィンが剣を構えると、闇が押されて下がり、青い光もじりじりと小さくなってゆく。

(すっかり追い払いたいわけでもないんだがな)

 攻撃してさえ来ないのなら、すぐそこをウロウロされても構わないとまで思っているのだが、

(そんな思いは俺だけの身勝手か)

 相手はもちろん、他の人間達もとんでもないと否定するだろう。

 敵意を抱いたまま闇の獣が退いてゆく。フィンはそれを残念に思ったが、しかし、レーナの力と剣の光が自身を包み支えてくれる感覚は、やはり拒みがたく心地良いものだった。

 ややあって青い光が完全に消えると、フィンは小さなため息をひとつこぼして首を振り、剣を鞘に収めて焚き火のそばに戻った。

「お疲れ様」

 人間臭い言葉をいつの間に覚えたのか、レーナがそう労ってフィンに触れる。フィンは目を瞑って、柔らかな光が流れ込む感覚を味わった。腕の痺れが取れ、疼くような鈍い痛みが一呼吸の間だけ走り、消えた。目を開けて袖をまくると、うっすら残った赤黒い痣が消えてゆくところだった。

「ありがとう」

 フィンが律儀に礼を言うと、レーナは嬉しそうに微笑んだ。フィンも笑みを返し、やれやれと腰を下ろす。

「なかなか上手く行かないものだな」

 その隣にレーナがまたくっついて座り、「大丈夫よ」と答えた。慰めではなく、励ましの声で。

「少しずつだけれど、闇の色が変わってきているもの。きっといつか、フィンの望みは叶うわ」

「……そうだな」

 フィンはうなずき、ぽんとレーナの肩を叩いた。

 交代のマックが起きてくるまで、二人はずっと寄り添って、焚き火の炎を見つめていた。

 翌日もそのまた翌日も、状況はあまり変わらなかった。

 街道は完全に往来が絶えており、盗賊にすら出会うことはなく、道沿いにあったと思われる農地や牧場も、ただの野原に戻っていた。茂みの中で鳥達がさえずり、時折それを狙っている猫か何かが、がさがさと草を揺らす。

 フィンは外れた敷石の隙間に生えた手強い草と格闘していたが、ようやっと根を掘り返して引っこ抜くのに成功すると、額の汗を拭ってふうっと周囲を見回した。

「これからが大変だな」

「え?」マックが聞き返し、彼の視線を追って納得する。「ああ、元の農地に戻すのが、ってことかい。そうだね。本格的に畑を作れるようなるまで、まだまだかかるだろうし、その間も荒れ放題だもんな」

「……そのまま消えていく村や街も、あるだろうな」

「仕方ないよ。何だっていつかは土に還るもんだし、街が残ったって住んでる人がすっかり変わっちまうこともある。いつまでも変わらないものなんてないよ。俺にとってはテトナがふるさとだけど、今はもう、兄貴や皆と一緒にいるってことが、同じぐらい落ち着く当たり前のことになってるんだし」

 マックはにこりとして言った。フィンの心を軽くしようという狙いもあるだろうが、それ以上に彼の声には真摯な想いがこめられていた。

「何十年かして俺が昔を思い出すことがあったら、きっとこの天竜隊が一番懐かしいだろうね」

「何しろおまえが名づけた部隊だしな」

 プラストが珍しく微笑んだ。マックは照れくさそうに頭を掻き、ごまかすようにまた草むしりに精を出す。

 そうしながらマックは、無意識に心の準備をしていたのかもしれない。数日後、ついにテトナの跡地に到着した時も、彼は取り乱すことなく静かに廃墟を眺めていた。

 一年前よりもさらに荒れた村は、もう人が住める状態ではなかった。あらゆる場所に草が生い茂り、家屋の屋根は腐り落ち、唯一持ちこたえていたはずの神殿も、遠目に分かるほど破壊されている。

「……使えるものがあるか、探してもいいか?」

 そっとフィンが声をかけると、マックは苦笑して「もちろん」とうなずいたが、自分も加わろうとはしなかった。村に散っていく仲間達を見ながら、茫然としているだけ。

 その横に、珍しく静かに、ネリスが並んだ。何も言わず、一緒に村を見ている。

 ややあってマックが唐突に口を開いた。

「俺の家、あっちなんだ」

 指差した方にあるのは、どれも区別がつかないほど崩れた民家。ネリスが黙って一歩踏み出すと、マックは自分の爪先を見つめて深く息を吸ってから、顔を上げて歩き出した。

 転がる瓦礫や絡みあう茨の藪を避けながら、かつて道だった場所を通って一軒の崩れた家を目指す。網代と泥の壁は穴が開いたままで、雨風の吹き込む内部まで丸見えになっていた。

 扉はとうに朽ちていたので、二人は壁の残骸をまたいで中に入った。

 壊れた椅子とテーブルが部屋の隅に転がり、土間のかまどは灰が飛び散っている。しばらく何をするでもなくうろうろしてから、不意にマックが言った。

「こっちには何も残ってないんだ。神殿に避難した時に、必要なものは全部持ってったからさ」

「そっか」

 ネリスは相槌を打ち、何気ない風情を装って付け足した。

「思い出だけだね」

「……うん」

「うちの風車も、おんなじだろうなぁ」

「……ん」

 返事はほとんど聞き取れない。ネリスは両手を腰の後ろで組み、明後日の方を見たまま独り言のように続ける。

「内緒にするからさ。泣いてもいいよ」

「…………」

 少し湿った苦笑が、ありがとうの代わりだった。

 同じ頃、フィンはオアンドゥスと一緒に廃屋の瓦礫をどかしていた。昨年ここを発った時に、めぼしい物はあらまし集めてしまったが、あの時はもっぱら食糧が必要だった。当時は無視した、今は有用なものが、まだ残っているかもしれない。錆びていない釘、水汲みの桶や丈夫な革紐、まだ使える工具や農具。

 もちろんそう簡単にお宝は出てこない。オアンドゥスは手を休め、大きなため息をついて外を見やった。

「マックは大丈夫かな」

「ネリスがついていたから、大丈夫でしょう」

 フィンが答えると、オアンドゥスは複雑な顔になった。フムだかウームだか、何ともつかない唸りを漏らして頭を掻く。

「なあフィニアス。その……あの二人だが、おまえはどう思う?」

「どう、って?」

 フィンは束の間きょとんとし、それからオアンドゥスが言いにくそうなのを見て、ああとうなずいた。

「今のところは特に何もないようですが。本人達がどう思っているのか、いまいちはっきりしませんし。おじさんはどうしたいんですか?」

「むぅ……。いや、マックは確かに、あの歳にしては随分しっかりしているし、ネリスの婿にするのも悪くないとは思うが」

「まだ二人ともそんな歳じゃありませんよ」

 苦笑しながらフィンが言う。オアンドゥスは助けられたように、ほっと息をついた。

「うむ、まあ、そうだな。実を言うと、おまえを養子に迎えた時に、ネリスの婿にと思っていたんだ」

「実現しなくてお互いの為に良かったですね」

 フィンはおどけて肩を竦めたが、オアンドゥスは真顔だった。

「おまえ、遠慮していたんじゃないだろうな?」

「それは」一瞬言葉に詰まり、正直にうなずく。「まあ、少しは。でも結果的には良かったと思っていますよ。おじさん、ネリスは俺の大事な妹です」

「ふむ……まあ、俺だって、何も無理にもと言うんじゃない。おまえが引け目を感じているのでなければ、それでいいんだ」

 うん、とオアンドゥスはうなずき、よっこらせっ、と屈んで棚の残骸を動かす。フィンもそれを手伝った。カツン、コトン、と音を立てて何かがこぼれる。小さな匙や薬味入れなどのようだ。フィンがそれらを拾い集めて検分していると、上からオアンドゥスの声が降ってきた。

「おまえも本当なら、そろそろ嫁さんを貰ってもいい歳だな」

「まだ早いですよ」

 出来るだけさり気なく、フィンは苦笑に紛らせて答える。オアンドゥスは彼の動揺に気付かないまま、部屋の隅に転がっていった何かを取りに行った。

「だがもう今年で二十歳だろう。この仕事が落ち着いたら、ナナイスで所帯を持つのもいいんじゃないか? こんな不便な所へ来てくれる娘さんがいれば、だがな」

 オアンドゥスは軽口めかして笑った。フィンもちょっと笑って、返事をごまかす。

(いい歳、か。普通なら、確かにそうかもな)

 以前のナナイスでなら、男はほとんどが二十代の半ばまでに結婚したものだ。だが今は状況が違う。それに何より、

(何十年生きるかわからない場合は、いつが『いい歳』になるんだろう)

 自分はもう普通の人間と同じものさしで、人生を計ることは出来ない。フィンは手の中の細々した生活の残骸を見つめたまま、しばらくじっと考え込んでいた。


 一行はテトナでその夜を過ごし、翌朝にはもう出発することにした。さして役立つものは残っていなかったし、闇の獣の気配も近かったからだ。

 かつて家族とイグロスだけで歩いた道を、今度は逆向きに辿ってゆく。フィンは見覚えのある景色に出くわすたび、ちくりと胸に痛みを感じた。

「そういえば、ここは……」

 道がなだらかな下りになり、木立が間近に迫っている場所にさしかかると、オアンドゥスがふと思い出してつぶやいた。フィンも辺りを見回し、少し考えてから気付く。

「闇の獣に待ち伏せされた場所ですね。あの時とは大分、雰囲気が変わっていますが」

 行く先に目を凝らすと、木立を抜けた街道が緩やかに上り、低い丘へと続いている。ナナイスを出て二日目、あの丘を下ってきたところで木立の間に潜む闇の獣に出くわしたのだ。

「……イグロスと俺で、なんとか時間を稼いで……」

「大慌てで駆け抜けたっけね。そう言えば」

 ネリスも思い出してぐるりを見回した。あの時は、まだ日があると言うのに真っ暗な闇が道を塞ぎ、角灯と松明があってもほとんど足元だけしか照らせなかった。

 今はただ薄暗いだけの、寂れた道だ。左右の木立が道の半ばまで枝を伸ばして、ちらちらと木漏れ日が踊っている。その意味するところはひとつ。

 ――もはや、ここを通る人間は一人としていない。この先にあるのは、無人の荒野だということ。

 むろん誰も、あえて口にはしない。黙々と枝を払い、両脇の草を刈って見通しを良くすると、何も言わずに先へ進んだ。

 丘の向こうには、北部特有の懐かしい風景があった。広い平野と瑞々しい緑の木立。朝霧の名残を含んで土は湿り、点在する池や沼地では水鳥が群れなしている。その間を、まっすぐに伸びてゆく街道。

(帰って来た)

 フィンは唇を噛み、白い街道をまなざしで追った。遠い丘の陰になって消えているが、その先にはナナイスがある。懐かしい海も。

 同じく感慨に耽っていた家族が、それぞれなりに吐息を漏らす。プラストはもちろん、いつもはうるさいほどの双子も、邪魔はしなかった。

 ややあってフィンは気を取り直し、皆を振り返って微笑んだ。行こう、と声をかけ、歩き出す。あと少しだと思うと、足取りも軽くなった。

 日暮れまでに一行は廃村に着いた。一年前、フィンが初めてレーナに出会ったあの村だ。寝泊りした納屋は壁が腐って崩れ、中に入るのは危険になっていたため、今回は全員が外で眠った。

 同じ道、同じ場所を順に辿っているのに、一年という時間があらゆるものを変えてしまった。それでもまだフィンは、そのことに衝撃を受けるには至らなかった。

 ナナイスを、目にするまでは。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ