6-1. 春の訪れ
六章
白一色だった山脈にまだらの模様が現れると、平地に雪解け水が溢れる。ポル川の水量が増し、ヴェルティア方面の低湿地へ濁流が走ってゆく。濡れた大地に次々と芽吹く緑の草、待ちかねたように笑いさざめく小さな花々。
天竜隊がウィネアを出発したのは、そんな季節になってからだった。
夜毎の襲撃が減り、軍団兵にも『闇の獣を憎むな、蔑むな』という鉄則が浸透し、各神殿の祭司からも協力の約束を取り付けられた。アンシウスをがんじがらめにしていた状況が少し穏やかになることで、市民生活の厳しい制限も緩み、街が活気付く。イスレヴの仕事も楽になるだろう。
そこまで確かめて、ようやくフィンも北へ発つ決心がついたのだ。その頃には部隊の面々も、それぞれの去就を決めていた。
「それじゃあ、ここでお別れだな」
フィンが手を差し出すと、ヴァルトは複雑な顔をして、荒っぽく短い握手を返した。
「ま、しばらくの間はな。ヴェルティアの仕事が片付いたら、ナナイスにも回ってやるよ」
彼が手を離すと、そのそばにいた何人かも、次々にフィンと握手をした。テトナ以来の隊員が何人かと、コムリスから入った隊員のほとんどが、ヴァルトと共にヴェルティアへ向かうと決めたのだ。第八軍団からも、一個小隊が派遣される。
ヴェルティアは元々河口の湿地帯にある街で、昔の軍団兵が排水工事を行ったおかげで泥に埋もれずに済んでいる。住民がいなくなった今、放置すれば獣に荒らされ、草木と砂に侵蝕されて、寄港地として役に立たなくなるだろう。
ウィネア以外の北部の町を建て直すために海運は欠かせず、そのためにはまずヴェルティアを確保せねばならない。ヴァルトはそう説いて、アンシウスから人手と工具を分捕ったのだった。
「気をつけてな、ヴァルト隊長」
イスレヴとアンシウスも彼らを見送りに来ていた。ヴァルトは司令官に敬礼すると、新しい部下達を率いて、街道を西へ向かって出発する。アウディア神殿の祭司が一人、彼らの後からロバにまたがってぽくぽくついて行った。
「さて、俺たちも出発するか」
フィンは残った仲間を見回し、にこりとした。プラストと陽気な双子、それにマックとフィンの家族。それだけだった。北へも西へも行かないと決めた隊員は、ウィネアに残って引き続き防衛や街道補修に従事することになっている。
「本当に、人手は要らないのかね」
イスレヴが眉をひそめて念を押した。彼もまたウィネアに残り、北部の財政再建に取り組むことになっている。フィンは明るく答えた。
「ええ。ここから先は城壁も何もありませんから、あまり大人数だとかえって守りきれません。ナナイスに無事に着いて、人を呼べる状態になったら知らせます。それまでにイスレヴ殿は、ウィネアの住民の中からナナイスやテトナに移住したい人を募って、何かしら支援出来るようにやりくりしておいて下さい」
「そちらに関しては、任せてくれたまえ。ああそうだ、お嬢さんに餞別があったのを忘れるところだったよ」
イスレヴはぽんと手を打ち、上着の隠しからごそごそとなにやら取り出した。手招きされてネリスが訝りながら近寄ると、イスレヴはにっこりして飾りピンをひとつ差し出した。短い髪にも留められる、軽く小さく、可憐な意匠のものだ。ネリスが目を丸くすると、イスレヴは辞退の隙を与えず、手ずから彼女の髪に留めてやった。
「これから向かう先は殺伐としているだろうから、心の潤いを忘れんようにな。ファウナ殿にも何かと思ったのだが、オアンドゥス殿の手前、宝飾品は遠慮しておいたよ。味気ないが、荷物にこっそり紛れ込ませてある。後で見つけて下され」
あらまぁ、とファウナがおどけた驚きの声を上げ、意味ありげに夫を見やる。ネリスは恥ずかしそうに、大人しい声で礼を言った。フィンはにこにこ嬉しそうにそれを眺め、
「良かったな、ネリス。イスレヴ殿、お気遣い感謝します」
ぺこりと頭を下げると、アンシウスに向き直って敬礼した。
「では司令官、我々はこれで」
「うむ。……ナナイスが落ち着いたら、またこちらにも来たまえ」
お決まりの挨拶というのでもなく、真情のこもった声だった。フィンはうなずき、さっと踵を返すと先頭に立って歩き出した。
人数が減ったので街道の補修は、ごく簡単な範囲に留めた。どうせこの先は、人家などありはしない。人や馬車が往来するようになってから、きちんとした仕事をすれば良いのだ。
しばらく無言で歩いた後で、ふとマックが苦笑をこぼした。
「ヴァルトさんの毒舌も、しばらく聞けないとなると寂しいね」
「そうか?」フィンはわざと顔をしかめた。「俺としては、せめてこの隙にネリスの言葉遣いを直してやりたいよ」
「余計なお世話! なによ、元気なのがいいとか言ってたくせに」
「元気なのと、言葉が汚いのは別だぞ。せっかくイスレヴ殿に可愛い髪飾りを貰ったんだから」
「イスレヴさんは気が利くよね。やっぱり都暮らしが長いからかな」
膨れっ面をしていたくせに、ネリスは途端にころっと機嫌を直す。フィンとマックは思わず顔を見合わせて苦笑した。
他愛無いやりとりの間にも、歩みは着々と北へ進む。
何事も起こらないまま、日が傾いて辺りが黄昏に染まりはじめた。ちょうどその頃、行く手に朽ちた宿駅の残骸が現れた。
一日分の旅程ほどの間隔を空けて、雨風だけはしのげるようにと建てられている小屋だ。三日、あるいは五日ほどの間隔で、食事の出来るまともな宿があったものだが、今ではもう見る影もないだろう。
フィン達は夕日の残照がある間に、出来るだけ小屋を修繕し、乾いた枯れ草を集めて床に敷いた。二頭のロバは外につないで、荷物を下ろしてやる。レーナがふわりと姿を現し、形ばかり、雑用を手伝いだした。
食事の用意をしながら、ファウナがぽつりと一言、「思い出すわね」と漏らした。何人かが小さくうなずいたが、話を続ける者はいなかった。
思い出す、が、懐かしむ記憶ではない。腹をすかせ、血と泥に汚れ、疲れきった足を引きずりながら歩いた道程。
無口になったフィン達に、双子が話しかけるともなく喋りだした。
「ナナイスからウィネアまでって結構あるんだろ」
「普通に行くだけでも、わりと大変だよな」
「フィニアスはよくやったよ」
「俺達なんて」
「ウィネアから出たことなかったのに」
うんうん、とうなずき合う双子に、プラストがげんなりした顔を向ける。
「その喋り方はやめろ。おまえらが片方ずつでもちゃんと話せることは知ってるぞ」
双子がおどけて首を竦め、場に笑いがこぼれた。
「そういえばさ」とネリスが身を乗り出す。「あたしまだ二人がどっちか区別つかないんだけど、何かコツがある?」
「どっちでもいいよ」
同時に答えた双子に、そういうわけにはいかないでしょ、とネリスが呆れる。双子は顔を見合わせ、
「一応、エウォーレスが兄で」
「エウゲニスが弟なんだけど」
ほかに違いはないよ、とばかり肩を竦めた。フィンはそのやりとりを見物していたが、ネリスが何の答えも出せずにいるので、何気ない態度で口を挟んだ。
「右にいるのがエウォーレスだろ。エウゲニスは左、そう、あんただ」
「なんで」
「分かったんだ?」
びっくりして目を丸くした二人に、フィンはにやりとしただけで答えなかった。とぼけて鍋の蓋を持ち上げ、中身を確かめるふりをする。ちなみにその鍋は、イスレヴが餞別にくれた新品だ。
謎めかすだけの兄に、ネリスが「ずるーい」と口を尖らせた。
「それもやっぱり、竜侯だから? ねえ、レーナもあの二人、区別がつくの?」
急に話を振られて、食器の用意をしていたレーナが目をぱちくりさせる。彼女は改めて双子をしげしげ眺めると、ちょこんと小首を傾げた。
「私には、あんまり分からないわ。違っているのは確かだけれど、どっちがどっちとか、いつも区別していないから」
とうとうフィンがふきだした。彼は笑いながら振り返り、「靴だよ」と双子の足元を指差す。
「昼間、片方がぬかるみに突っ込んでただろう。その時に、兄貴は鈍臭い、とかなんとか言ってるのが聞こえてたんだ。それだけだよ」
種明かしされて、双子がありゃと互いの靴を見下ろす。なんだ、とネリスが苦笑した。
「そうだね。なんでもかんでも、竜侯だから、ってわけじゃないよね」
「そういうことだ。おっと……おばさん、煮えましたよ」
「こっちも焼きあがるわ。これでおしまい、っと」
伏せた丸鍋で薄焼きパンを作っていたファウナが、あちち、と耳たぶをつまむ。荷物には堅焼きパンも入っているが、それは雨で火が起こせない時の為にとっておかなくてはならない。
「豪勢だね」
マックが自分の器を受け取り、嬉しそうに言った。同じ野宿でも、テトナからウィネアへ向かっていた時とは大違いだ。充分な食糧があり、闇の獣を退けられる力を手に入れて、誰の心も明るく希望を抱いている。
かつて闇に追われて逃げ出した場所へ、今度は光を灯しに行くのだ。弱く微かな光でしかないとしても。




