5-7. ひとつの区切り
ウィネアの城壁内に押し込められていた人々が、商船の到着に解放されたと感じて舞い上がるのも無理はなかった。日のある間に行ける範囲しか移動できず、孤島の生活同然になっていたところへ、世界は外に広がっており帝国もまだ存在するのだと、目で見て手で触れられる物でもって知らされたのだから。
市民の雰囲気は一変し、天竜侯に対する不信もあっさり払拭された。タズとフィンが友人だということから、なぜか、フィンが商船をウィネアへ連れてきた、という話になったのだ。
途端に愛想良くなった街の人々には、現金なものだと呆れずにはいられなかったが、それでもありがたい変化には違いなかった。軍団兵も再び協力的になり、フィンの言葉を今度こそきちんと聞くようになってくれたのだ。
城壁の防衛は、その日を境に少しずつだが楽になっていった。
夜明けと同時に前後不覚に倒れこんでしまうのが常であったのが、よろめきながらも皆、兵営まで帰りつけるようになった。負傷の程度も、わずかながら軽くなった。
変化を感じたのは軍団兵だけではない。
周辺の畑へ毎日出て行く農民達もまた、それに気付いた。
前日に起こした畝が、翌日にも大半、きちんと形を保っている。発芽した苗が半分以上、無事に育つようになった。ウサギ捕りの罠や小川に仕掛けた網に、獲物がちゃんと残っている。
もしかして――。
そんなささやきが交わされるようになり、市民の間では少しずつ、下落していた竜侯の地位が元へ戻り始めた。最初の熱狂とは異なり、もっと落ち着いた信頼によって。
夜毎に丸く明るくなる月に従うように、人々の顔も晴れやかになってゆく。やがて、決定的な夜が訪れた。
煌々と輝く満月に照らされたその夜、ついに闇の獣が姿を現さなかったのだ。
翌朝にはもう、早くもお祭り騒ぎが始まっていた。知らせが軍団兵から市民へと伝わると、もはや誰もその日の仕事に取りかかろうとはせず、日が昇って間もないというのにワインの封を開け、広場や道端で祝杯を上げだした。
「めでたい連中だ」
城壁から降りて兵営へ戻る道すがら、ヴァルトがぼそりとつぶやいた。フィンも、そうだな、と同意はしたものの、そのまなざしは温かい。
「長い間、城壁の内側で縮こまっていたんだ。喜べる時には喜べばいい。……それにしても、人間も案外、闇の眷属と似たところがあるんだな」
「なんだと?」
本気で聞き違いかと疑ったらしく、ヴァルトが顔をしかめた。フィンはすっかり祝祭色に染まった街を見渡し、小さく首を振る。
「言葉じゃなく、雰囲気で動く。全体にその雰囲気が伝わるまでは容易に変わらないし、一度染まったらまた、すぐには歯止めがきかない。集団の規模が大きくなればなるほど、動きや変化が鈍くなる。今だから白状するが、タズの船が着くまでは、街を追い出されるかと本気で心配していたんだ」
「追い出される?」プラストが鼻を鳴らした。「生温いな。俺は近いうち、町の連中と軍団兵になぶり殺しにされると思ったぞ。いつ逃げ出すか、ヴァルトと相談していたぐらいだ」
うへっ。双子が揃って嘔吐しそうな声を漏らした。
「そういう物騒な相談は」
「俺達にもちゃんと知らせてくれないと」
「自分の才覚で生き延びろ」
プラストは素っ気ない。うわあひどい、と双子が口々に抗議する。フィンは苦笑しつつ、取り越し苦労をせずに済んで良かったじゃないか、とおざなりに慰めた。ヴァルトはそんなフィンの様子を胡散臭げに見ていたが、双子が騒ぐのをやめると、欠伸をひとつしてから言った。
「どっちにしろ、そろそろケツに帆かけて逃げる潮時だな」
「なんだって?」
今度はフィンが聞き返す。ヴァルトは醒めた顔で肩を竦めた。
「おまえの言った通り、またここの連中は一色に染まっちまった。竜侯様万歳、の色にな。アンシウスが喜ぶと思うか?」
「それは……喜びはしないだろうが」再会してすぐの一幕を思い出し、フィンは渋面になった。「彼はディルギウスとは違う。極端な事はしないだろう。ともかく、いずれにせよ俺達はここに留まるわけじゃないんだから」
言い終えると、複雑な空気が仲間達の間に漂った。おや、とフィンは眉を上げる。
「ここに留まりたい人?」
流石に挙手する者はいなかったが、曖昧な態度で何人かが顔を見合わせ、なにやらもぐもぐつぶやいた。
「少しはのんびり出来るかと……」
「もうちょっと暖かくなるまで」
次は、雪解けでぬかるんだ大地が乾くまで、と言い出すんだろう。フィンは天を仰いで神々に助けを乞うた。
「そうだな。そろそろ、きちんと決めないと。もちろん、数日中に発つというわけじゃない。また月が細くなれば、あるいは天気が悪ければ、連中は押しかけてくるだろうし、アンシウスや軍団の皆に後は任せたと押し付けられる状態でもない。海路で補給が可能だという保証もない。だから出発までまだしばらくはかかるだろうが……もしウィネアに残りたいというなら、俺は止められない」
そこで彼は改めて仲間達を見回した。ばつが悪そうに目をそらす者が一人、二人。少し渋る程度の気持ちで発言したことが、去就にまで発展しようとは思わなかったのだろう。フィンはちょっと苦笑した。
「別に、責めるつもりはないよ。成り行きで粉屋になって以来、あるいは実態もよく知らないのにコムリスで応援に加わってくれてから、今まできつい戦いばかりだったのに、誰も俺を見放さずにいてくれた。充分だ。皆、それぞれ落ち着きたい場所や、取り戻したい故郷があるだろう。今後のことを考えておいてくれ」
穏やかな口調に安心したように、隊員達はほっと息をつく。プラストが無造作に言った。
「俺は一緒に行く。ナナイスを再建するにしても、家の建て方ぐらい知っている奴が一人はいないと、話にならんからな」
「急がなくていいんだ」
フィンは言ったが、プラストは肩を竦めただけだった。代案がないだけだ、とばかりの素っ気ない仕草だった。ヴァルトも顎を掻きながら、そうだなぁ、とつぶやく。
「テトナにはまだ戻れねえし、ウィネアに残っても仕事はねえし。だがぞろぞろ竜侯様のケツにくっついてくのも芸がねえな。どうしたもんだか」
「まあ、ゆっくり考えてくれ」
芸の問題か、と苦笑しながらフィンが応じたその時、広場にいた市民の一人が天竜隊を認めて歓呼の声を上げた。もう酔っ払っているのか、羨ましい、と隊員達は足を止めてそちらを振り向く。居合わせた人々が次々に声を合わせ、拳や手を高く上げた。
「竜侯フィニアス様、万歳! 北部天竜隊、万歳!!」
群衆の声が、いつしかひとつの節を繰り返しはじめる。いまやフィン達はその場を去ろうにも叶わないほど、すっかり取り囲まれていた。
「フィニアス様! フィニアス様!!」
熱狂的な叫びが彼を呼ぶ。ヴァルトに背中をどやされたフィンが数歩よろめくと、それを前に出たものと見て、わっと拍手が沸き起こった。フィンが困惑して人垣を見回すと、何か言ってくれるようだと期待して、声が静まってゆく。
にっちもさっちも行かなくなったフィンは、藍色の目をちらっと天にやってから、こほんとひとつ咳払いをした。
「最初に断っておきますが、私は『物事を退屈にする天才』だそうです。こんな風に盛り上がった場で発言するのには最悪の人選ですが、興醒めしても恨まないで下さい」
いたって真面目にそんなことを言った竜侯に、どっと笑いが起こる。マックが片手で顔を覆った。フィンは苦笑し、無意識に人々に対してレーナの光を振り向けながら語った。
「昨夜、闇の眷属が攻撃して来なかったのは事実です。しかし、これですべてが終わったわけではありません。月のない夜にはまた彼らが現れるでしょうし、近郊の畑や牧場は荒れ果てたままです。街道沿いの村も、多くは廃墟になりました。我々はまだこれから、そうした小さな町や村を建て直してゆかなければなりません。ウィネアだけが安全になれば、それで終わりではないんです」
行ってしまうのか、見捨てられるのか――不安のつぶやきに群衆がざわつく。フィンは励ますように、強い口調になった。
「この町にはアンシウス司令官がいます。竜の力がなくとも、彼は治安を保ち、皆さんが飢えることのないように手を尽くしてこられた。これからも司令官に――お互いに、協力して下さい。闇の獣の脅威が薄らいでも、皆が助け合うことが必要なのは変わりません。大戦の頃の傲慢と愚行を繰り返すのではなく、今度こそ本物の平和と安全を、この北部に築くために」
彼はそう締めくくり、終わりのしるしに右手を左胸に当てて一礼した。再び沸き起こる拍手と歓声。万歳の声に送られて、フィン達は広場を後にした。
「格好良かったよ、兄貴」
マックが小突き、フィンは照れくさくなって奇妙な顔をする。
「イスレヴ殿の受け売りだよ。あんまりこういうのは得意じゃない」
「へっ」ヴァルトが鼻で笑った。「竜侯様万歳、か」
単なる厭味にしては複雑な声音だった。フィンはさっきのお返しとばかり、ヴァルトの背を叩いてやる。
「ああ。でも俺だけじゃない、俺達全員に向けられた賛辞だよ。だから素直に受け取れるんだ」
「どうだかね。ま、悪い気はしねえし、こちとら竜侯様と違って一席ぶたずに済むんだから、黙って褒められとくさ」
ヴァルトはにやりとして憎まれ口を返し、ふああ、と大欠伸をした。
「やれやれ、とんだ足止め食っちまったな。さっさと戻って一眠りしようぜ。今晩また連中が来ないって保証はねえんだからな」
ごく当たり前に発せられた言葉に、隊員達は表情を改めた。そう、まだ何も終わっていないのだ。明日も、明後日も、その先もずっと、地上の縄張りをめぐる闇の眷族との戦いは続くだろう。
フィンは皆の気が引き締まったのを感じ取り、ヴァルトに目顔で感謝した。分かっているのかいないのか、相手はとぼけて耳をほじるだけだったが。
(まあ、これもいつも通りってことだな)
フィンは諦めまじりに苦笑し、咳払いしてごまかしたのだった。




