5-6. 風向きの変化
日々陽射しが強まっているとは言え、まだ風は肌寒い。にもかかわらず、天竜隊の面々はこぞって干物になろうとでも言うのか、兵営の庭で日向を奪い合うように転がっていた。
「今夜も同じ調子なら、なんか別のやり方を考えようぜ」
なぁ、とヴァルトが話しかける。視線の先でフィンが、太陽に手をかざして薄れゆく傷を眺めていた。隊員達にも毎日レーナが触れて傷を癒しているのだが、精神の痛手はなかなか簡単には治らない。気力がどんどん低下していく。
フィンは痣が消えると、寝不足のやつれた顔で起き上がった。
「そうだな。でも、そろそろ変化があらわれるような気がする。今夜もう一晩だけ、なんとか乗り切ってくれ」
「本当だろうなぁ? 駄目だったら、特別手当を寄越せよ。上物のワインとか……」
ヴァルトはぶつくさぼやいたが、もう嫌だ、とは言わなかった。他の隊員達も同じだ。フィンはごろごろ日干しになっている仲間達を見渡して、ちょっと笑った。
「何か探しておくよ。本当に感謝してる。皆にも」
「そういう台詞は真面目に言うな。ケツが痒い」
「あんたがそんなに慎み深いとは知らなかったよ」
フィンはにやりとして皮肉を返し、うんと伸びをした。光を顔に受けると、気分が晴れ晴れする。
「船着場へ行ってくる。なんとなく予感がするんだ」
懐かしい気配が近付いている、そんな感覚が今朝からずっと心の片隅を騒がせていた。タズが来るのかもしれない。竜の視力を使えば一帯を見渡すことも出来るのだが、同時にウィネアに渦巻く感情をうまく避けられる自信がなくて、確かめてはいなかった。
「気をつけろよ」
プラストが素っ気なくそれだけ言ったが、心配は伝わった。フィンは苦笑してうなずき、ゆっくり歩き出す。兵営を出る前から既に、不信と疑いにどんよりした靄が彼の方へ漂ってきた。
本当にウィネアを助ける気があるのか、いったい何を考えているんだ、自分達は無事だからって……
到着初日とはうって変わって、軍団兵は誰もフィンに笑顔を見せない。話しかけもせず、遠くから剣呑なまなざしを向け、ひそひそと陰口をささやく。
フィンはそれらを気にしないように努めながら、平静を装って歩き続けた。
街ではもっと酷かった。聞こえよがしの悪態、姿を見るなりさっと道路の反対側へ逃げる者、敵意は見せずとも係り合いを恐れて目をそらす者。たった数日で、呆れるほどの変化だ。
フィンはあくまで普通に歩き続けた。萎縮すれば不信と不満を増大させるだけだし、そうなったらイスレヴも仕事がやりにくくなる。既に彼は市議会とアンシウスを相手に、どうすれば市民の生活を元通りに出来るか、現状で国に納められる税はどれだけ出せるか、本国からの支援について安全な輸送方法を確保できるか、といった厄介な協議を始めているのだ。
〈フィン、痛くない?〉
レーナが心配そうに話しかける。その温もりが心を包み、フィンの肩から無意識に入っていた力が抜けた。向けられる敵意で擦り切れた心が、途端に柔らかさを取り戻す。フィンは己の感情の変化に気付き、一人微かに苦笑した。
〈大丈夫だ。つらいのは確かだが、痛みはそのままにしておいてくれ。何も感じなくなったら困る〉
ウィネアの人々の不安や不満を、まるきり他人事にしか感じられなくなったら、楽にはなるだろうが、不適切な振る舞いをする恐れがある。それで本当に市民を敵にしてしまったら、何のためにここまで来たのか分からない。
諭されてレーナは少し残念そうな気配を見せたが、無理強いはせずに引き下がった。フィンは彼女が“その他大勢”の人間に対して、あまり良い感情を持っていないようだと気付くと、なだめるように話しかけた。
〈レーナ。確かに、群れとしての人間の振る舞いは、あまり良くないことが多いかもしれない。大戦の頃に終末を招きかけたのも、人間の暴走が原因だったわけだし……個々の意識が群れの意識に支配されてしまうのも、よくあることだ。でも、俺やマックやネリスも、同じ人間なんだよ〉
〈フィンは特別よ。フィンみたいにきれいな人はいないわ〉
〈あー……そうだとしても、さ。君にとっては、ちっぽけな人間は群れでひとつの生き物に見えるだろうけど、一人一人を見たら違っているものなんだ。だから、その……あんまり、嫌わないでくれるかい〉
〈人間は嫌いじゃないわ。怖いの。フィンが傷つけられるのはもっと怖い〉
レーナの意識が寄り添う。フィンは〈大丈夫だよ〉と繰り返し、そっとその光を包み込んでやった。
そうこうする内に、気付くと川辺に出ていた。かつて船着場には商船がひしめいていたが、今は近場で川魚を獲る小さな漁船があるだけだ。荷揚げのための広々した場所も、埃とごみ屑が舞うばかり。
フィンは人影のまばらな船着場を抜け、川面に腕を伸ばしている桟橋の先端まで歩いて行った。ここまで来ると、川上から川下まで遥かに見渡せる。竜の視力を使うまでもなく、小さな船影が目に入った。
「あれだ!」
思わず喜びの声を上げる。近くにいた人々が、ぎょっとなって振り返った。そして、フィンの視線を追って川下を見やり、どよめく。もう何ヶ月も交通が絶えていた川を 、一隻の船が遡航してくるではないか。
にわかに辺りは活気付いた。係留の準備をする者、知らせに走る者、何はともあれ見物に来る者。その騒がしい声を背で聞きながら、フィンはひたすら目を凝らしていた。無意識に竜の視力を使い、その船が確かにタズの乗ったものだと認めると、我慢出来ずに片手を空へ伸ばした。
〈レーナ!〉
呼ぶと同時に竜が巨体を現す。悲鳴と喚声を無視して、フィンは宙に舞い上がり、一目散に船へ飛んだ。甲板でも驚きの声が上がったが、こちらはすぐに皆、フィンだと気付いて手を振ってくれた。
竜のはばたきが風を起こし、帆をはためかせる。向きもめちゃくちゃな突風のせいで甲板は大わらわになったが、フィンが気付いて船尾に回ると、帆は追い風を受けて膨らんだ。
船が充分街に近付くと、フィンは接岸の邪魔にならないよう、一旦遠くへ飛んで行った。ぐるりと一回りして作業が終わるのを見計らい、レーナに頼んで桟橋に降ろして貰う。同時に、船からタズが駆け下りてきた。渡し板を踏み外しそうな勢いで。
「いやっほー、フィン! なんで今日着くって分かった!?」
「偶然だよ。ともかく無事で良かった」
抱き合って再会を喜ぶ二人に、周囲の市民は呆気に取られていた。甲板から船長が顔を出し、こらタズ、と怒鳴る。
「竜侯様の友達だからってサボるんじゃねえ! さっさと荷を降ろすぞ!」
「へーい!」
威勢良く返事したタズに釣られ、
「手伝います!」
フィンが申し出た。途端にタズがふきだし、船長が目を白黒させる。咄嗟に言葉が出てこない船長に代わり、タズが笑いながらフィンの肩を叩いた。
「馬鹿、おまえがウロチョロしちゃかえって邪魔だよ。それより街の偉いさんか誰か、カネを握ってる人を呼んで来てくれ。色々あんだぜ。値段の交渉をしないとな」
「そうだな。じゃあ、また後で」
フィンは恥ずかしくなって苦笑し、ごまかすように片手を上げて走り出した。
商船が着いた、との知らせは瞬く間に街中に広がった。船着場には人だかりが出来、アンシウスや卸問屋の商人らが到着した時には、ちょっとしたお祭り騒ぎになっていた。
船長が彼らと交渉している間、フィンはタズに積荷をあれこれ見せて貰っていた。もちろん買えるわけではないので、ただの冷やかしだが。
品物はコムリスで積んだものばかりではなかった。
「ヴェルティアは廃墟になってたよ」
あっさりとタズが告げ、フィンもそうかとうなずく。ナナイスが落ちる前から無法状態になっていたという街が、そう長くもつわけがないと理解していたから、衝撃はほとんどなかった。
「素通りしても良かったんだけどな、船長が上陸するって言い張ったもんで、遅くなっちまった。念のために生き残りがいないか探すんだ、って命令だったけど」
タズは言って苦笑し、積荷の中に埋もれている衣装櫃をコンコンと叩く。
「ま、実態はこの通り。俺達が何日もかけて、形が残ってるものを片っ端からかき集めて、船長が売れそうな物を選んだんだ。あんまりいい気分はしなかったけど、腐らせるよりマシだし。船長曰く、このまま放っといても鳥やネズミの巣にされるだけだ、勿体ねえ、ってわけ」
「もっともだな」
フィンは苦笑し、衣装櫃を見下ろした。お揃いの刺繍を施した子供用の服、晴れの日のための一張羅。誰かの人生を髣髴とさせる品物を他人が売買するのは、少し胸が痛い。だが確かにこのご時世、感傷で無駄に出来る物などないのだ。はぎれ一枚、糸一本さえ。
「水道はどっかで駄目になってるみたいで使えなかったけど、井戸は無事だった。何本か石榴とか無花果の樹が生き残ってたし、充分な補給とまではいかないけど、あそこが利用出来るなら、もっと北にも行けそうだ」
意味ありげにそう言ったタズに、フィンは目を丸くした。まさか、と彼が口を開くより早く、タズがちっちっと舌を鳴らした。
「慌てるなよ。おまえが陸路でナナイスまで行くのは分かってる。こっちだって、このまま北へ向かえるわけじゃない。けどコムリスに戻ってから、おまえ達がナナイスに着く頃を見計らって、食糧とか建築資材とか、運んでってやるぐらいは出来るだろうさ」
「本当か!?」
「船長はその気だよ。ちゃんと代金を支払ってくれるんなら、って条件付きだけどな」
「それが一番の問題だな」フィンは渋面になった。「ナナイスに掘り出し物が眠っていたらいいんだが。衣服や食品は腐っているだろうし」
「神殿にお宝があったはずだ、とか言っといてやろうか?」
「無茶言うなよ。まあ、来るだけは来て貰えるように頼もう。何があるかは、向こうに行ってみないとわからないからな」
誰か床下に金貨の壺でも隠してないかな、などと他愛無いことを話しながら、二人はゆっくり歩き続ける。その間にも、船着場の賑わいはさらに増し続けていた。




