5-2. ただ為すべき事を
昼下がりには集落近辺の街道補修が終わり、一行は数軒の宿に分かれた。まだ日は高いが、遊ぶ場所があるでもないので、宿の食堂などでだらだら過ごそうというわけだ。フィンも汚れた服を着替えて、先刻の町の女達を訪ね、それから夜までに一眠りしておきたかった。
宿に入ると、主人が前掛けで手を拭きながらやってきた。
「お疲れ様でした、お部屋の用意は出来てますよ。……おや」
彼はフィンを見ると目をぱちくりさせ、ちょっと考えてから、あっと声を上げた。
「あんた、前にもうちに泊まりなさったね! 去年の夏頃だったか、ウィネアの方から脱走兵の一団と一緒に」
「そう言えばそうだね」後から出てきた女将もうなずいた。「道理で、見たような顔がちらほらあると思ったよ。なんだい、せっかくコムリスまで行ったのに、竜侯様の部隊に入って戻ってきちまうなんて」
それで良かったのかい、と半ば案じ、半ば呆れつつ女将が言う。フィンが曖昧な顔で返事に困っていると、主人が女将を手振りで黙らせた。
「馬鹿、違うだろう。……お若いの、あんたが竜侯様だったんだね」
フィンが「はい」とうなずくと、主人はうむと納得した。
「あの時も、なんだか普通と違う若者だなと思ったんだよ。だから覚えてたんだ。今はもっとこう、雰囲気が変わったね。ますます特別な感じがする」
主人はつくづくとフィンを眺めてそう評し、後ろで口を開けっ放しにしている女将を苦笑でたしなめ、それから自分も「おっと失礼」と頭を下げた。
「竜侯様に、あんただのお若いのだのはありませんやね。すみません。見ての通り、うちは上客向けの宿ってんじゃありませんから」
「気にしないで下さい」フィンは笑って応じた。「俺も上客じゃありませんから。着替えたら少し挨拶に出てきます。誰か訪ねてきたら、ここでしばらく待って貰っても構いませんか」
「ああ、そりゃいくらでも。待ってる間に何か注文してくれるかも知れませんからね。上の三部屋全部、好きに使って下さい」
「どうも」
フィンは軽く会釈すると、階段を上がった。部屋にはもう手荷物が運び込まれており、一室ではファウナとネリスが何やら手を動かしながらおしゃべりしていた。お疲れ様、と合間に声をかけられ、フィンも軽く手を上げて応じる。
彼は自分のものが置かれている部屋を見つけると、手早く着替えを済ませた。先刻ネリスに言われたことが頭をよぎったが、ここで礼装するのはいくらなんでも気が引けたので、皇都で新調した普段着にしておいた。剣も部屋に置いたまま、汚れた服だけを持って外に出る。
既に隊員達の汚れ物で溢れそうな洗濯桶に服を押し込むと、彼はオアンドゥスから聞いた家へ向かった。
待っていたのは、あの時の二人だけではなかった。
「いらっしゃったわよ!」
門を開けた女が叫ぶと、奥からきゃあと黄色い歓声が上がる。フィンは嫌な予感に怯んだが、回れ右するわけにもいかない。恐る恐る案内されるまま中へ入ると、居間には興味津々の女達がぎっしり詰めかけていた。
「どうぞ、こちらへ」
さあさあ、と促されたものの、フィンは戸口で何かにつっかえたように進めなくなってしまった。老いたるも若きも、好奇心で竜侯を窒息させんばかりに眼を輝かせて待ち受けている。ただの人間でも大概たじろぐ光景だが、フィンにはさらに、そこに満ちる貪欲な感情の靄まで見えてしまうのだ。逃げたくなっても責められるものではない。
刺激的で楽しい出来事に飢えていたところへ、ようやくやって来た餌。竜侯とは何者で、どんな人となりで、自分達とどう違うのか。すべての秘密を剥ぎ取って骨を晒させるまでは、食らいついて離すまい――
「申し訳ありませんが、あまり時間を取れないので」
手短にお願いします、との頼みは、いっせいに上がった不満の声にかき消された。
まあそんな、残念ですわ、そう言わずに、等々。
フィンが困惑している隙に、案内してきた女が彼の手を取って室内へ引き入れようとした。彼は慌ててそれを振り払い、鼻白んだ相手に目顔で詫びてから、女達に向き直った。あまり情けない顔にならないよう、表情を取り繕う。外から見るとそれは、ネリスが言うところの“墓石”、すなわち無愛想で気難しそうな顔に他ならなかったが、本人としては精一杯の防御なのだった。
「本当に、時間があまりないんです。夜が来るまでに少し休んでおかないと、闇の獣を退けることが出来ません。何か我々に質問や要望がおありでしたら、簡潔にお願いします」
白けきった場から、積極的に声が上がるはずもなく。結局フィンは、ささやかな感謝のしるしとして差し出されたワインだけを受け取ると、丁寧に礼を述べてさっさと退出した。
門まで送ってきた女が、困惑顔でひとつだけ質問した。
「失礼ですが……本当にあなたが竜侯様なんですの?」
遠慮がちな声と、顔色を窺うまなざし。不信と疑惑、もし本物なら怒らせただろうかという恐れが、女のまわりに薄い靄となって漂う。フィンはそれを見て取り、どう答えたものかと思案した。
竜と絆を結んでまだ一年足らずであり、元々ただの粉屋なのだと説明するか。しかしそう言ったところで、本当なのかという疑いは払拭されまい。どうして粉屋が竜と、という新たな疑問を生むだろうし、いちいちすべてに答えてはいられない。
フィンは肩を竦め、端的に応じた。
「こんなことで嘘をついても、何にもなりません。それより、後で皆さんのところにもイスレヴ議員が質問に伺うと思います。北部の現状を調査するためですので、ご協力をお願いします」
では、と頭を下げて、フィンは少し急ぎ足でその場を離れた。自分があまり良い印象を与えなかったことは痛いほど分かったが、イスレヴが和らげてくれるだろう、と勝手に後を託す。感情が見えるのと、それを上手く扱うのとは、まったく別の能力のようだ。やれやれ。
宿に帰ると、フィンはすっかりくたびれ切って、ベッドに倒れこんでしまった。その傍らに、レーナがふわりと姿を現す。
「ねえフィン、人間の考えることってよく分からないけれど、私、ずっとフィンのそばにいた方が良くない? 普通の人間には絆が見えないから、ああしてフィンを疑ったりするんでしょう?」
「うーん……そうだなあ。でも、君がその姿で現れても、竜だとは信じてもらえないだろう。俺も最初はずっと、精霊だと思っていたし。と言って元の姿のままじゃ、大きすぎて何かと不便だろうし……どっちにしろ、君を見世物にしたくない」
フィンは手を伸ばしてレーナのふわふわした髪の端に触れ、指先でもてあそぶ。
「大勢の人間の相手をするのは、疲れるだろう」
「ええ、少し。でも、フィンも疲れてるわ」
「少しだけだよ」
フィンはおどけて同じ言葉を返すと、大きな欠伸をした。
「君ともっと話したいのにな。夜まで休ませてもらうよ」
「そうして」
レーナは微笑んで、フィンの額にそっと唇をつけた。藍色の瞳が閉じ、まもなく彼は静かな寝息を立て始めた。ゆっくり上下するその胸に、レーナは軽く手を触れる。絆の光が息づく、左胸に。
そうして彼女は愛しそうにフィンの寝顔を見つめたまま、ずっとそばについていた。
闇の獣を憎まないように――その言葉は、決してたやすく人々に受け容れられるものではなかった。
天竜隊が守備に加わると聞いて喜んだ自警団も、この話を聞かされると、憤慨して彼らを防衛線から追い払ってしまった。
「どうするよ、坊主。ここでもおまえ、盾になるつもりか?」
遠く離れた篝火を見やって、ヴァルトが言った。手遊びに剣の刃を指先で弾いている、その澄んだ小さな音が、闇が来るまでの秒読みに聞こえる。
「実際にやって見せるしかないだろう。それに、信じて貰えるかどうかは関係ない。やるべき事は同じだ」
フィンは淡白に応じてフェーレンダインを抜いた。白い光が鞘からこぼれる。彼はどんどん薄れていく残照の中で、竜の視力を使って周囲をぐるりと見回した。
コムリスへと続く街道が、暗い大地の上で仄かに光っているのが感じられる。細かな星屑を少しずつ撒いたように、所々途切れながら。それはフィンがここまで歩きながら、あるいは補修しながら、わずかずつレーナの力を石や大地に染みこませてきたしるしだ。
道行く者が夜も安全であるほどの光は注がず、微かな道しるべ程度にしてある。そしてまた、途切れがちなのも故意にしたことだった。闇を完全に分断することのないように、と。
目を転じると、街を囲む篝火の明かりが見えた。現実にそこにある、人の目にも見える炎。黄色い光に照らされた男達の顔は、警戒と緊張にこわばっている。
そして――暗闇の到来と共に、冷たい絶望の気配がゆっくりと湧き上がり、群れ成してひたひたと迫りつつあった。
「来る」
フィンは短く言って、単身、篝火から離れて闇の中へと歩き出す。見送ることしか出来ない仲間達は唇を噛み、せめてもと、光の外縁ぎりぎりまで歩を進めた。自警団の面々が顔を見合わせて、不安げなささやきを交わす。
じきに辺りはすっかり暗闇に包まれた。月はまだ昇らず、星も半ば雲に隠されている。光るものは、篝火と、フィン達の武器に宿る竜の力だけ。
そこに、青い燐光が加わった。
キチキチキチキチ……カリッ、カリカリ……
得体の知れない、だがもうすっかり耳に馴染んだ音が耳に届く。フィンはぞわりと背筋に悪寒が走ったのを堪え、身を守るように剣を構えた。
闇の獣たちは、戸惑い、警戒しながらフィンを遠巻きに取り囲んでゆく。この人間が、闇に相反する光の力を宿しながら、先制攻撃をしかけてこないのが不思議なようだ。
その間にも、ほかの獣はいつものように町の人間を襲いに行く。だがその後は、いつもと同じにはいかなかった。
弱いながらも篝火に宿る竜の力が、獣達の戦意をわずかに殺ぐ。それでも一匹の獣が、隙を突いて自警団の一人を引き裂こうと飛びかかった。
男が獣を弾き飛ばそうとして、大きく剣を振る。だがもはやそれに慣れた獣は軽々と刃をかわし、カッと顎を開いて男の喉めがけて食らいつく――寸前、突き出された槍の穂先が獣の口内を灼いた。
咆哮を上げて獣はもんどりうち、闇の中へ逃げ帰る。
「この辺は俺達に任せて、あんたらはもっとまとまってろよ!」
軽く獣を追い払った双子の片割れのそばで、同じ顔をしたもう一人が、二つ並んだ青い光点の真ん中へと矢を放った。
人間達の反撃に遭った獣は怒り狂い、ただ一人で闇の中に立つフィンに雪崩を打って襲いかかった。
山のような闇にのしかかられ、フィンは歯を食いしばって耐えた。体の前にかざしたフェーレンダインが致命傷は防いでくれるが、鋭い羽根が額をかすめ、鞭のような触手が腕を打つ。熊の罠に踏み込んだかのように、足に巨大な顎が喰らいついた。
「うあッ!!」
堪えきれず声を上げ、フィンはよろめいた。ここぞとばかり、空いた背中を上から下まで爪がえぐる。たまらず膝をつき、剣を地面に突いて支えにする。
「兄貴!!」
マックの悲鳴が聞こえた。来るな、とフィンは咄嗟に怒鳴り返す。それでも足音が近付くのに気付き、フィンは力を振り絞って立ち上がった。サッと素早く剣を振り、束の間、闇の獣を遠ざける。
「まだ大丈夫だ、戻れ!」
「……っ、馬鹿兄貴! 今度ちょっとでもよろけたら、もう命令は聞かないからな!」
泣きそうな声だったが、それでもマックの足音はまた小さくなった。
安心する間もなく、再び闇が襲いかかる。フィンは無意識にレーナの力を体に巡らせて、薄い鎧のようにそれをまとった。
(こんな程度で、なだめられるわけがないのは分かっているが)
憎悪と怒りを叩きつけられ、絶望に足をすくわれる。
(千年の永きにわたって溜め込んできた憎悪を、ほかの人間が受け止められないのなら、俺がこの身に受けるしかない)
挫けそうな膝を励まし、フィンはただじっと耐え続ける。
やがて意識が朦朧とし、剣を構えた腕が徐々に下がり始めた。まずい、と思ったものの、もう踏ん張りはきかなかった。膝から力が抜け、一歩、二歩とよろめく。そのまま心身共に冷たい暗闇の淵へ沈みかけた時、眩い光の壁が生じて彼を支えた。
フィンの目に、暗闇の前に立ちふさがるレーナの姿が映る。
直後、腕を引かれて無理やり篝火のそばまで連れ戻されてしまった。
「無茶しすぎだよ! 兄貴一人であいつらの憎しみを引き受けるなんて、毎晩続けたところで何十年かかるか!」
憤慨しながら、マックがフィンの体を毛布の上に横たえ、丸めた上着で枕を作ってくれる。フィンは全身凍傷にかかったような気分で、じんじん痺れる手足にレーナの力をゆっくり巡らせ続けていた。
「ああ、そうだな。もっと気長にやらないと」
「そうだよ! 無理して途中で死んじまったら、意味ないだろ!?」
マックは本気で怒っているが、しかし、やめろ、とは言わない。それが嬉しくてフィンはこっそり微笑んだ。
じきにマックは一通りの世話をすませ、戦列に戻って行った。
フィンは横たわって、じわじわとしか癒えない傷に苛まれながら、篝火の背後に広がる暗い空を見上げていた。マックの言葉が何度も頭の中にこだまする。
(何十年かかるか、か)
逆に言えば、フィン一人しか出来ないこの方法であっても、何十年もかければ闇の眷属が落ち着くことも考えられるわけだ。
(何十年――もつかな、それまで)
痣だらけになった手を篝火の炎にかざし、苦笑する。夜が明けて存分に光を浴びられたら、この傷はじきに癒える。だが……。
(まあ、出来る限りは続けるさ)
ぎゅっと手を握る。炎の光を掴み取るかのように。
(俺にはレーナがいるんだから)
そう考えるのとまったく同時に、
〈私が一緒にいるわ〉
レーナがささやき、温もりがフィンを包んだ。彼はにっこりすると、よし、と勢いをつけて体を起こした。まだ少しふらつくが、動けなくはない。
「もう少し頑張ろう」
つぶやいて、フェーレンダインの柄を握る。とりあえず今夜はもう、まともに攻撃を受け止めるのは無理だが、皆と一緒に追い払うぐらいは出来る。
刃の白い輝きを満足げに眺め、フィンはゆっくり仲間達の方へ歩いていった。




