5-1. 街道の町
五章
陽射しは着実に温もりを増し、風にほのかな芽生えの気配がまじる。凍てつく季節の間は決して嗅ぎ取れなかった、独特の匂い。
――春が、すぐそこまで来ている。
空の青も雲の姿も、気付かぬ間に少しずつ変化していた。降り注ぐ光の中で精霊が戯れているのか、何もかもがきらきらと眩しい。人の心も自然と浮き立つ。
そんな晴れ空の下、朝も早くから騒々しい大声が響いていた。
「コラァ! 手ェ抜いてんじゃねえぞ、そこっ!」
こんな怒声に『生き生きとした』などという形容を使うのはためらわれるが、実際そうとしか言いようのない声音だった。
コムリスから北東へ伸びる街道を軍団の二日行程ほど進んだ辺り、両脇に細長くへばりついた小さな集落の真ん中で、さきほどから怒声の主は頻繁に誰かを叱り飛ばしている。
ネリスとファウナ、オアンドゥスの三人は、質素な食堂の店先で古びたベンチに腰掛け、いささか呆れた面持ちでその様子を眺めていた。
「あのおじさんがあんなに楽しそうなの、初めて見るかも」
「そうねえ。もしかしたら元々、剣を取るよりこういう仕事のほうが好きなのかもしれないわね」
「経歴と技能を生かせるのが、嬉しいんだろうなぁ」
ぼんやりと推測する三人の前で、天竜隊の面々がヴァルトに怒鳴られながら、街道の補修に精を出していた。
もちろん、切石や土砂を運んでくるような大規模な事は出来ない。外れてそこらに転がっている石を見つけ、形を整えて再度はめ込み、隙間には手ごろな石を見繕って埋める。道の両脇には排水溝があり、小さな穴で雨水を周囲の地面に逃がす仕組みになっているが、それも大概詰まっているので、泥や腐った植物や虫などを、ひとつひとつほじくり出してゆく。
敷石が磨り減って出来た隙間に砂が溜まっていれば掃き出し、草が生えていれば引っこ抜き、道路脇に若木が生えていれば抜くか切り倒す。一里塚を覆う苔を削ぎ落とし、倒れていれば立て直し。
そうした気の遠くなる作業をしながら、一行はコムリスから五日かけて、この集落まで辿り着いたのだ。工事の指揮をとっているのはヴァルトで、プラストなど軍団経験の長い者がそれを補佐した。元軍団兵であっても、若手のほとんどはこうした土木工事に習熟する暇がなかったからだ。
というわけであるからして、むろん、
「お兄もよくやるよ……」
竜侯だろうとフィンも下っ端扱いになるのであった。呆れたネリスの視線の先で、フィンは額に汗をにじませ、真剣そのもので詰まった排水溝と格闘している。
最初は何事かと驚いていた集落の住人も、彼らが噂の天竜侯の部隊であり、街道を補修しながら北進していると聞くと、喜んで手を貸してくれた。
部隊と町の男達が工事にいそしむ一方、ネリス達は宿やその日の食事などを手配し、今は休憩中だ。その間も町の女達は、道路の脇に飲み水や手水を用意し、ついでにいい男はいないかと物色しては、くすくすひそひそさざめいている。お調子者の双子が手を振ったりなどして、即座にヴァルトの拳骨を頂戴した。
女達が笑い、工事をしている仲間も双子を悪気なくからかう。そんな明るい雰囲気にもかかわらず、オアンドゥスは厳しい顔で息子を見つめていた。
「昨夜も眠っていないんだろうにな」
「夜明けから少し休んだとは言ってたけど……」
ネリスも唇を噛み、本当にあの馬鹿兄は、と毒づく。ファウナもため息をついた。
「工事の手伝いをせずに眠っていたら、その方が私達を心配させるとでも思っているんでしょうね。無理なことはやめろと、また諭されるのじゃないか、って」
「どんだけ馬鹿なの、お兄ってば」
ああもう、とネリスはやりきれなくなって頭を振った。
――闇の獣をなだめる為にとフィンが試みた方法は、呆れたことに、彼らを追い返さずにその攻撃を受け止めること、だったのだ。
むろん命に関るような攻撃は防ぐ。だがそのほかは、あえてその身に受けることで相手の怒りを減じようというのである。当然ながら、普通の人間に同じ事はさせられない。ゆえに彼は、仲間達にはただ、憎悪を堪えるよう頼んだだけだった。
「闇の獣を……いや、闇の眷属を、けだものとして蔑み憎むのを、堪えて欲しい。彼らが怒りと憎悪を込めて襲いかかってきても、それに対して同じ憎悪をもって叩き返すのではなく、理性で堪えて欲しいんだ」
奴らに俺達の心が伝わるってのか。ヴァルトがそう言い返すと、フィンは正直に、分からない、と応じた。
「試してみないことには、まだ何とも言えない。ただ、彼らが共感によって意思疎通するのなら、俺達人間の感情も多少は作用しているはずだ。たとえ自分達の憎悪で意識がいっぱいだとしても、わずかな隙間は残っているだろう。……残っていると思いたい。そこに敵意以外の意思と感情を伝えられたら、望みがある」
だから、とフィンは続けた。彼らを獣と思わず、言葉の通じない異民族だと考えて欲しい、と。仕方がないから追い返すだけで、憎いわけではないのだ、と。
むろん反発の方が強かった。無茶を言うな、第一あれこれ言われたからってハイそうですかと気持ちを切り替えられるものか、奴らに食われた仲間はどうなる、等々。それでもフィンが辛抱強く、すぐには無理でもせめて試してみてくれ、と説得したおかげで、離反する者も出ずに夜を迎えられたのだった。
そして、一夜明けたらもう、文句を言う者はいなかった。
彼らに無茶な要求をした本人が、一番無茶なことをしたと知って。そしてまた実際に、その夜の攻撃は明らかに途中から弱まったと気付いて。
「あの朝の酷い顔ったら、闇の獣より化け物じみて見えたね。そこらじゅう赤紫の痣だらけになって、げっそり頬がこけてさ……元から墓石みたいだったけど、あれじゃ墓石にくっついてる亡霊の方だよ」
今も悪態をついているネリスだから、その日にはまさに嵐のように罵倒したものだった。ファウナは泣くし、オアンドゥスは怒るし、大変な騒ぎだったのだ。
しかしフィンは陽光を浴びながら一眠りすると、呆れるほどけろりとした風情で起きてきた。そしていつものごとく大真面目に、誰かが闇の眷属の意識に隙間を作らなければ、伝わるものも伝わらないだろう、などと理屈で皆を黙らせてしまった。
今も彼の態度は変わらないが、家族の目には、無理をしているとしか映らない。
土木工事の手順を学べるのはまたとない機会だから、などと嬉しそうに作業に加わり、仲間達もそれを認めてはいるが、時々ふっと彼が上の空になることに、誰もが気付いていた。
「竜侯なんかでなければ」オアンドゥスが小さな声でつぶやいた。「ああまですることもないのにな」
「……うん」
ネリスとファウナも、オアンドゥスが吐露した真情を咎めはしなかった。
竜侯にならなければ、フィンはウィネアの外で死んでいた。それは三人とも承知しているし、レーナを恨めしく思っているのでもない。ただ、やるせないばかりだった。
と、沈んでいる三人のところへ、町の女が二人連れ立ってやってきた。その手に、恐らくワインであろう、封の破られていない壺があった。
「あのぅ、恐れ入りますが、竜侯様はどちらにおいでなのでしょう?」
一人が遠慮がちに問いかけ、一家が顔を見合わせたのにも構わず別の娘が勢い込んで続けた。
「コムリスでもご活躍されたとか、最近はその噂でもちきりだったんですよ! その竜侯様がおいでになって、しかもこうして道を直して下さって。何にもありませんけど、せめてお礼をさせて頂きたいんです!」
頬を上気させて眼を輝かせている様からして、恐らく未婚の、夢見るお年頃なのだろう。ネリスが笑いを堪えて顔を背け、オアンドゥスが曖昧な表情でちょっと頬を掻いた。
「あー……、あそこで」
と、フィンのいる辺りを漠然と手で示す。女達がこぞってそちらに身を乗り出した。
「泥まみれになっている……」
言いかけたと同時に、たまたまフィンが腐った藁を引き抜いたはずみで泥はねをかぶり、うわっ、と声を上げた。
「今、声を上げたのが、うちの息子なんですが」
ふんふんそれで、と女達が続きを待つ。その周囲にいる誰かが竜侯なのか、とばかりに。ネリスが堪えきれずにぐふっと奇声を漏らした。
「……あれがそうです」
もごもごとオアンドゥスが締めくくる。女達はしばらく、ぽかんとして動きを止めた。ややあって、え? と訝しげに瞬きし、二人揃ってオアンドゥスをまじまじと見つめる。
なにやら身の危険を感じたオアンドゥスは、急いで声を上げた。
「おい、フィニアス!」
呼ばれてフィンが、きょとんと振り返る。来い来い、と手招きされ、彼は顔についた泥を袖で拭って、小走りに道を渡ってきた。
「どうしたんですか、おじさん」
「ああいや、この方達がな」ごほん、と咳払い。「竜侯様にお礼をしたいとおっしゃっているんだが」
「えっ」
フィンは一瞬ぽかんとし、それから二人の女のまなざしに気付いて、慌てて自分のなりを見下ろした。
「あ……っと、すみません、今はちょっと、汚れているので。お気持ちはありがたいんですが、また後で改めて伺っても構いませんか」
早口になったのは、女達の表情に、驚きだけでなくなぜか非難の色があると見て取ったからだ。フィンの言葉に、嘘でしょう、とばかり女二人が眉をひそめる。とうとうネリスが声を立てて笑い出した。
「あっははは! お兄、夢を壊しちゃ駄目じゃない! 竜侯様らしく、あのよそ行きの服を着て、どっかその辺の木陰から皆に命令してるぐらいでなきゃ」
「何を言ってるんだ、おまえは……。あ、おじさん、すみませんがとりあえず、皆を代表して応対して貰えますか。後でどちらに伺えばいいか聞いておいて下さい」
「あ、おいフィニアス!」
逃げるな薄情者、とばかりの叫びを振り切って、フィンは作業に戻っていく。途方に暮れたオアンドゥスの横から、ファウナが立ち上がって二人の女ににっこり笑いかけた。
「あんな竜侯でごめんなさいね。でもあれで、私達の自慢の息子なんですよ」
「はあ……そうなんですか?」
女達は納得する様子もなく、しつこく不審げな目でフィンの姿を追っていたのだった。




