2-3.束の間の平穏
「フィン兄ー!」
「フィニアス!!」
口々に叫ばれて目を覚ますと、既に明るくなった空を背景に、ものすごい形相が四つ並んでいた。フィンが満ち足りた眠りの余韻を味わいながらうんと伸びをすると、ネリスとファウナがほーっと深い息をつき、へなへなと傍らに座り込んだ。
「よ、良かったぁ、生きてた……」
ネリスが母親に抱きついて、半分涙ぐみながら言う。フィンはまだ少しぼうっとしたまま、辺りをきょろきょろ見回した。
「ん……レーナは?」
「なに? おい、大丈夫かフィニアス」
オアンドゥスが不安げに、フィンの目の前で手をひらひらさせる。フィンはぐしゃぐしゃになった髪を無意識に手で梳かしながら、ぼんやりと答えた。
「女の子がいたんです。ゆうべここに……」
途端に後頭部を張り飛ばされ、前のめりになる。
「阿呆かおまえは!」もちろんイグロスだった。「ふらふら外に出た挙句こんなとこで寝るわ、しかも女の尻を追っかけ回す夢を見てたってのか!?」
フィンはじんじんする頭を押さえて、目をしょぼつかせた。全員の命を預かる一番手の見張りが持ち場を離れて熟睡していた、などというのでは、怒鳴られても張り倒されても文句は言えない。ネリスまでが「うわ。お兄、最低」と野次をくれる。安心した途端に容赦がない。
フィンとて立場が逆なら、見つけた時点で蹴り起こすだろう。彼らの怒りももっともだ。が、一応彼にも言い分はあった。
「夢じゃない、本当にいたんです。多分あれは……精霊だった。彼女が、今夜は奴らも出てこないって言って、俺を眠らせたんだ」
「へーぇ。さぞかし美人だったんだろうよ。まったく、本当に何事もなかったから良かったものの……」
ぶつぶつイグロスはぼやいたが、途中でふと眉を寄せた。
「……そう言えばおかしいな。俺も朝まで一度も目が覚めなかった。こんなこと、兵営に入ってからなかった筈だが」
「俺もこんなに気持ちよく眠れたのは久しぶりです」
「魔物に化かされたんじゃないの?」ネリスはまだ懐疑的だった。「旅人が美人に誘われて言われる通りにしてたら、朝には身ぐるみ剥がれて道端に寝てた、って昔話、よくあるじゃない」
「そんな感じじゃなかったよ。それに、びっくりするほど美人だったわけでもないし」
昨夜の邂逅を思い出しながら、フィンは曖昧に言った。
「それはまあ、どちらかと言えばきれいな顔だったと思うが……どことなく頼りなくて、なんだか、そうだな、仔犬みたいだった」
ぴったりの喩えを見つけ、フィンはちょっと笑った。まだ足元のおぼつかない仔犬が鼻をくんくん鳴らしながら、よちよちと膝に乗ってくる様子が思い浮かぶ。
「あまり人間と話したことがないと言っていた。きっと珍しくて見に来たんだろう。ともかく、おかげで一晩ぐっすり眠れたんだ。今日は距離を稼ごう」
「そうだね。ああもう、お兄に驚かされたせいで、まだ顔も洗ってないや」
いまさらぷりぷり憤慨しながら、ネリスは井戸へと走って行く。フィンも立ち上がって服についた砂を払うと、ゆっくり周囲を見回した。廃屋は廃屋のまま、村には相変わらず生き物の気配がなかったが、しかし朝日の光の下では、少し穏やかな風景として映った。
簡単な朝食の後で一行は再び街道を南へと進みだした。
道々ネリスはしつこいほど、フィンが見たものについて尋ねてきた。姿は、何を言ったのか、何をしたのか。
「見た目は……そうだな、多分俺とおまえの間ぐらいの歳の女の子で、髪と服は白っぽかった。目は琥珀色だったかな」
「本当に精霊かなぁ」
「さあな。だがディアエルファレナと名乗ったんだ。人間なら名前にデイアを戴くことなんかしないだろう? それに足音もほとんどしなかったし、本人も『人と話した事がない』とかなんとか、自分が人じゃないってことが当たり前みたいに言ってたんだ」
「……だとしたら」ネリスは考え深げに言った。「あたしたちに力を貸してくれる為に来たのかな。闇の獣がどんどん増えてきたから、精霊たちもようやく隠れているのをやめて、出てきてくれたんだと思う?」
「だったらいいんだが、俺にはわからない」
フィンも眉を寄せて唸った。闇の眷属と戦っているのか、と、いとも無邪気に彼女は問うた。そのことで、助力をしようとか助言をくれようとか、そういったそぶりはちらとも見せなかった。人間の置かれている苦境を理解しているのかどうかも怪しい。
「頼めば力を貸してくれるかなぁ。せめて夜の間、あいつらを寄せ付けずにいてくれたら、それだけでもすごく助かるんだけど。……あっ」
ぶつぶつ言った直後、ネリスは不意に後ろを振り向いた。
「どうしたんだ?」
「お兄、ちょっと止まって」
言われて訝りつつもフィンが足を止めると、ネリスはフィンが引いていた馬の傍らに駆け寄った。荷物を積んでいる馬の方だ。前肢を上げさせ、蹄の間に挟まった石を取ってやる。
「よく分かったな」
フィンは目をぱちくりさせた。引き綱を持っている自分には、何の異常も伝わってこなかった。それにネリスも、後ろの様子など全く見ていなかったのに。
ネリス自身も小首を傾げて、「うん、なんとなく」と曖昧に答えた。
「あ、何か踏んだ、って感じたの。まぁ、すぐに気がついたから良かったよ。ね?」
ぱたぱたと馬の首を叩いてやり、また前に戻る。そんな妹の様子に、フィンはふと以前の出来事を思い出した。
「そういえば、ナナイスに入ってじきにおまえと会った時、おまじないをしてくれただろう。あれ、ちゃんと効いてたぞ。あの後でフィアネラ様が、俺にはネーナ神の加護が授けられてる、っておっしゃってた」
「え、そうなの?」
「ああ。もしかしたらおまえ、祭司の資質があるのかもな。ウィネアは大きな街だから、着いたらネーナ神殿を探してみよう」
きっと立派な神殿があるだろう。そこでネリスを受け入れて貰えたら、一家も街に落ち着けるかもしれない。粉屋は出来ないだろうが、オアンドゥスなら大抵の力仕事はこなせるし、自分だって少しは役に立てるだろう……。
フィンがそんな風に考えていると、兄の心中を分かっているのかいないのか、ネリスはあまり気のない様子で「そうだね」と他人事のように応じ、それからはたと気付いてぽんと手を打った。
「あっ、じゃあさ、お兄が今日まで無事だったのって、あたしのお陰ってことじゃない? もっと感謝して貰わなきゃ。ほらほら、何か言うことあるでしょ」
得意満面に迫られて、フィンは目を丸くし、ついで笑い出した。
「まったく、おまえは。分かったよ、おありがとうございます、慈悲深いネリス様」
仰々しく一礼してから、フィンは手を伸ばしてネリスの頭をくしゃりと撫でた。
「……本当に感謝してるよ」
意図したよりも、声音に真情があらわれてしまい、言った当人が気恥ずかしくなって手を離す。ネリスの方は照れ隠しなのか口を妙な形にひん曲げて、やれやれと大袈裟に呆れたふりをした。
「あーあ、もう、なんでお兄って、面白いことのひとつも言えないのかなぁ。つまんなーい」
「悪かったな」
フィンがぼやくと、イグロスが振り返ってにやにやした。
「なぁに、面白いのはお嬢ちゃん一人で充分さ。何せ“墓石”の兄貴まで笑わせちまう威力があるんだからな。この上、当の兄貴まで面白いことを言い出してみろ、俺たちゃ旅芸人一座になっちまうぞ。そうなりゃ座長はお嬢ちゃんだな」
わはは、とイグロスは自分の台詞に笑う。ネリス一人が膨れっ面になり、残りの面々はどうにか同情的な顔を取り繕いつつ、懸命に笑いを堪えていたのだった。




