表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰と王国  作者: 風羽洸海
第三部 帰還
108/209

4-6. 母・娘・妻


 枕元で小さなランプが、か弱い炎をゆらめかせている。

 フェルネーナは夫の腕に抱かれたまま、暗闇に浮かぶ炎をじっと見つめていた。夜通し灯しておくのは油がもったいないし、何より火災の危険があると承知してはいたが、どうしても消す気になれなかった。

(大丈夫、こんなに小さなランプだもの、油の量もたかが知れている。それに、ひっくり返らないように広い卓の真ん中に置いてあるし――)

 自分に言い訳をして、目を瞑る。瞼の裏に朱色の光が映った。

(あの子はもう眠ったかしら)

 遠く離れた我が子に思いを馳せると、胸の奥に微かな温もりが生じた。穏やかで安定した感覚だ。フェルネーナはほっと息をつく。ネラに異変がないのなら、セナトも無事だろう。シロスの皇帝別荘へ向かったと聞いたが、少しはあの年頃の男児らしく、駆け回って遊んだりもしているだろうか。

 あれこれと思いをめぐらせていると、すっかり目が冴えてしまった。

 我知らずため息を漏らす。と、隣で眠っていたはずのルフスがごろりと体の向きを変え、彼女の髪をそっと撫でた。

「眠れないのかい」

「ええ。……あなたも?」

「色々と考えてしまってね」ふう、と小さく首を振る。「折角、久しぶりに家でゆっくり眠れるというのにな。余計なことばかり頭に浮かんでしまう」

 軍団兵と一緒に領内の警戒に当たっている時は、我が身の事などほとんど考えない。どう兵を配置すれば、効率よく篝火の番を出来るか。燃料や穀物の確保は。補修すべき施設の優先順は。

 考えるべき事は山のようにあり、対処してもしても、次から次へと湧いてくる。だがそれらは、実際的な手を打ち、片付けることが可能なものだ。際限はなくとも、とにかく処理しているという手応えは得られる。

 この館にいると、自分ではどうしようもない、またどうなっているのか推測しか出来ない、そんな問題に悩まされるのがつらい。

「もどかしいよ」

 ルフスは妻の豊かな金髪をかきわけ、うなじにそっと唇をつけた。寝室でなら、こうしてフェルネーナをただ一人の女として愛せるのだが。その生家にまつわる厄介なあれこれ一切を、しばらくの間、棚上げにして。

 フェルネーナの方も同じ気分で、夫に向かい合って体を寄せた。そのまま二人はしばらく、黙って互いの体温を感じていた。優しい安堵に満ちたひと時に、昔を思い出したルフスが小さく苦笑した。

「結婚したばかりの頃は、僕はすっかり舞い上がっていたな。君と一緒にいるのに、落ち着いていられるようになるなんて考えられなかった」

「あら、そうなの?」フェルネーナもつられて笑う。「私には、あなたは随分落ち着いているように見えたけれど。何があっても揺るがず動じず、まさに軍団長閣下だと思ったわ」

「揺るぎようもないぐらい、かちこちに緊張していただけさ」

「でしょうね」

 ふふっ、とフェルネーナが口元を押さえる。ルフスにとってはあまり名誉でない出来事を思い出したらしい。ルフスは参ったという顔で、暗闇に溶ける天井を見上げた。

 心温まる記憶のおかげで穏やかになった沈黙は、しかし、またすぐに重く沈んでしまった。二人はどちらからともなく目を合わせ、互いを慰めるように、肩や腕をそっと撫でた。

「……あの子は、立派な皇帝になれるかしら」

「なれるとも。館を発つ前には、昔とは別人のようにしっかりしていたし、あの年頃の子はぐんぐん成長するものだ。心配は要らないよ」

「そうね。あの子だって、気弱なままではないわよね」

 お互い、言いたいことは別にあると承知の、空々しい会話だった。

 ――あの子は、生き延びられるのだろうか。皇帝と祖父の策謀に巻き込まれ、否応なく道具にされて、味方の一人もいない皇都で勝ち抜くことが出来るのだろうか。

(そして、私たちは……?)

 考えてはならないと、理性が手綱を引く。だがフェルネーナの心はどうしようもなく、暗い方へと滑り落ちてゆく。

(いつまであの人に支配されていなければならないのかしら)

 小セナトが姿を現さなければ、彼女自身が何も知らないところで勝手になされた取り決めにより、皇帝の妻にされるところだった。その話をルフスから聞いた時には、怒りを通り越して絶望した。もはや己の父は、断じて父と呼べる存在ではないと思い知らされたのだ。

 傲慢で身勝手な取り決めを退けられなかった夫にも、失望しなかったわけではない。だが少なくとも彼は、己の無力とその結果を正直に告げた。彼女と同じぐらい絶望した様子で謝罪する夫の姿を見た時、フェルネーナの胸中に今までにない感情が生まれた。

(負けたくない。ルフスにまでこんな惨めな思いをさせるなんて、許せない)

 心の奥深くで、闘志がくすぶる。だが正面切って戦うことは、少なくとも今のところは、不可能だ。フェルネーナは女で、父親も夫もいる以上、法に認められた権力は無に等しい。そして夫は、舅であり主君でもある男には逆らえない。逆らえば何をされるか知れたものではない。軍団は形式上はすべて皇帝に忠誠を誓っているが、現実にはその土地ごとに『主』がいるのだ。東のエレシア然り、西の大セナト然り。

「せめて今は、味方を作らなければ」

 ルフスが独り言のようにつぶやいたので、フェルネーナは自分の考えが伝わったのかと驚いた。目を見開いた彼女に、ルフスはいささか自虐的な苦笑を見せた。

「不甲斐ない夫に失望しないでくれるかい。いや、失望されても仕方ないが、その……他のところへは」

「もう、お馬鹿さん」

 皆まで聞かずに失笑し、フェルネーナは手近な場所をつねってやった。あ痛、とルフスが顔をしかめる。フェルネーナはくすくす笑って夫の肩に頭をあずけた。

「そうね。あの子の不在で身に染みたわ。私たち二人だけでは、出来ることが限られている。家門や家にとらわれている時代ではないわよね。あの子のためにも、まずは皇帝陛下を確実に味方にしておきたいわ。ナクテ領主の、ではなく、私たちとあの子の味方に」

「そうだね。……いささか不安はあるんだが」

「どういうこと?」

「今の評議会は、あまり皇帝に協力的ではないらしい。だからこそセナト様は、使えると読んでおられるようだが」

「やりそうなことね」フェルネーナは顔をしかめ、鼻を鳴らした。「評議会はあの子を帝位に即ける気をなくすかもしれないし、即けても、自分達に都合の良いようにすることしか考えないでしょう。陛下に味方はいないのかしら」

「グラウス将軍が最大の友であられるようだが、将軍は今、東部問題にかかりきりだからね。評議員の中にも皇帝派がいるとは聞くが……。あとは、北の竜侯ぐらいかな」

「あの男の子?」

 フェルネーナが遠慮なく言ったもので、ルフスはふきだしてしまった。竜侯に対してそれはないだろう、と揶揄する目を向けると、彼女は少し赤くなって言い訳した。

「だって、まだ二十歳かそこらでしょう。ほんの子供だわ。もう、そんなに笑わないで!」

「うん、まあ、そのぐらいだろうな。でもあの『男の子』は、信頼できると思うよ」

「確かに、誠実そうな雰囲気だったわね。それは否定しないけれど、でも彼はずっと西へ向かって、それから北部に行くのでしょう? 味方と言っても……」

「ああ、本国側の有力者というわけじゃない。でも万一亡命するはめになったら、遠くに味方がいるのはありがたいだろうね」

「……そうね」

 フェルネーナは渋々同意し、ふ、と息をついた。山脈の北など、彼女にとっては別世界だ。本国とは遠く隔たった文明未開の地、とまで言ってはあの青年竜侯に失礼だろうが、しかし正直なところ、そんな土地へまで逃げていくことになったら、もうおしまいだと思う。

(せめて、あの人を少しでも懐柔出来れば)

 既に他人のような気分で、フェルネーナは最近の父親を思い浮かべた。

 皇都を睨んで飢えた獣のように牙を研ぐのではなく、ナクテ領主として己の土地に目を向け、そこに未来を見出してくれたなら。

(もう一度、せめてお義理にでも、家族だと言うことが出来るでしょうに)

 そのためには、ひとつ欠けているものがある。

「フェルネーナ?」

 ふっつり黙り込んだ彼女に、ルフスが心配になったのか、そっと名を呼ぶ。フェルネーナが顔を上げると、穏やかな灰色の瞳が、大丈夫かと問いかけていた。昔から変わらない、優しく愛情深いまなざしだ。

「ねえ、ルフス」

 フェルネーナは彼が自分の夫である喜びを改めて噛みしめ、その広い胸に身を寄せてささやいた。

「私まだ充分、もう一人ぐらい子供を産めると思わない?」

「もう一人?」

 ルフスは目を丸くし、それからにやりとして答えた。

「あと五人でも大丈夫さ」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ