4-3. 防波堤
「あっ、来た来た! フィン兄!」
「お兄、こっちこっち! 早く!」
マックとネリスに呼ばれて、フィンは目をぱちくりさせながら、急いで城門をくぐった。そのまま問答無用で裏道へ連れ込まれ、人目を避けてこそこそと風車小屋へ向かう。
「何かあったのか?」
フィンが不審げに問うと、ネリスがいまいましげに唸った。
「竜侯様のおなりぃー、なんてやられたくないでしょ?」
「誰か歓迎の準備をしてくれてるのかい」
思わず苦笑したフィンに、マックがにやりとして応じる。
「そりゃもう、盛大なのをね。兄貴、第八軍団を闇の獣から助けた時、相当華々しく活躍したんじゃないの? 軍団兵も町の人たちも、竜侯様が来るのを今か今かと待ちかねてるよ」
「なんだって?」
どうやら冗談ごとではないと察し、フィンは真顔になる。マックは肩を竦めた。
「冬の間に兄貴の噂はかなり広まってたらしいよ。山脈から撤退した第八軍団が、兄貴のことを語り草にしたみたいだね。コムリスにも、徴兵されて一緒に山に行かされて、なんとか帰って来た人が結構いたみたいでさ。やっと北部にも竜侯が現れた、助けて貰える、って感じになってる。もう誰も軍団兵を当てにしてないんだね」
帝国の力も、その実体であるところの軍団兵も、もはや北部の人々にはすっかり失望されているのだ。代わりに、神話の時代から蘇ったがごとき“竜侯様”に救いを求めている。
「冗談じゃない、って言ったんだけど」
ネリスが不満げに膨れっ面をする。まったくだな、とフィンもうなずき、妹の頬を指で突いてやった。
「おまえがそんなに憤慨してくれちゃ、俺が怒れなくなるだろう」
「別にお兄の分まで怒ってるわけじゃないもん。あたしだって、お兄がそんな風に祭り上げられちゃいい迷惑だからさ。腹を立ててるのは自分の分だけ!」
憎まれ口で応じながらも、ネリスは膨れっ面をやめて、少し機嫌を直したようにフィンを見上げた。
「それより、一人で戻ってきたってことは……」
「二人は見付かったよ。でも、安全なところに落ち着いていたから、一緒には来なかったんだ。オリアはおなかに子供がいたしな」
「えっ、誰の!?」
「ニクスだよ。決まってるだろう」
「うわっ、意外……」
ねえ、とネリスは同意を求めてマックを見る。マックは灰色の目を悪戯っぽくくるりと回した。
「オリアさん、もっと兄貴にご執心かと思ってたけどな。案外、簡単に振られちゃったね、兄貴」
「馬鹿」フィンは苦笑し、マックの頭を軽く小突く。「ニクスはいい人だし、俺たちと別れた後も色々あったみたいだからな。その話はまた、皆にも聞かせるよ」
話しながら、岬へ続く一本道に出てきたところで、三人は揃ってつんのめったように足を止めた。
オアンドゥスが小屋に詰めかけた数十人の群衆をたった一人で阻止し、苛立った様子で声を荒らげていたのだ。
「いいですか、勘違いしないで貰いたい! あんた方が何を期待しているにせよ、俺の息子は神や精霊ではないし、ましてや、新しい領主でもないんです!」
集った人々は不満げにざわつくだけで、納得する様子も、引き下がる気配もない。せめて面会の予約をしろだの、いつ帰るのかまだ分からないのか、だのと抗議する。相手をしているオアンドゥスの方がもうじき爆発しそうだ。
「駄目です、約束は出来ません! 息子が望めばあんた方に会うだろうし、話を聞きもするでしょうが、むしろ助けが必要なのはこちらの方なんですよ! 我々はここに留まるわけじゃない。ここから北へ、なんとか人間の安全圏を広げるために戻ってきたんです。それに力を貸してくれるというのなら、わずかな燃料や食糧でも、些細な手助けでも、歓迎します。だが、こちらが皆さんに大盤振る舞いするのを待っているのなら、諦めてもう帰ってください!」
声を嗄らして説得を続けるオアンドゥスの姿を遠目に見て、フィンは微かにくすぐったそうな顔をした。
〈なんだか嬉しそうね?〉
〈ん? ああ、うん。俺はあの人の息子なんだな、と思って〉
竜侯様でもなく、頼れる兄貴分でもなく、人殺しの上手な戦士でもなく。守るべき“子”だと、オアンドゥスはかたく信じている。その強い心の放つ色彩が、群がる人々を覆う靄を越えて、鮮やかにきらめく。
フィンは守られる喜びの甘美な味わいを、じっくりと噛みしめた。これからはきっと、そう度々は味わえないだろう。求めるべきでもないのだろうし。
それから彼は、深く息を吸って一歩踏み出した。そうしようと意図せぬまま、目に力を込めて。
周囲の景色が、意識の海と溶け合っていく。フィンの、否、フィンの内にあるレーナの輝きが波となって伝わり、オアンドゥスに群がっていた人々がいっせいに振り向いた。魚の群れ全体が、ひらりと翻るように。
フィンは無意識に右手をもたげ、五本の指を開いた。そうして、群れをなだめるように、広げた手でゆっくりと宙を撫で下ろしてゆく。我先に飛びかかろうとしていた魚の群れがその場で止まり、急に他人の目を思い出したようにきょときょとした。
(そうだ、思い出せ)
いつもの海の状態を。いつもの泳ぎ方を。
フィンが見守っていると、魚達は興奮から醒めたように、あるいは小さな集団になり、あるいは一匹だけで、ゆったりとそれぞれの泳ぎ方を始めた。それにつれ、海の景色も潮が引くように消えてゆく。
現実にも、人々はぶつぶつ文句を言いながら、三々五々散りつつあった。恐らく大半は、ただ物見高く集まっただけなのだろう。フィンがゆっくり歩を進めると、もしやあれがそうか、というように視線を投げて寄越しはしたものの、話しかけようとまでする者はいなかった。
ただし、それでもオアンドゥスの前を去らない人間もいた。彼らははっきりとした目的と強い意志を持って、竜侯の帰りを待っているのだ。
フィンは懸念顔のオアンドゥスに笑みを見せ、何ら問題ないというような口調で言った。
「ただいま、父さん」
「フィニアス……」
名を呼んだきり、オアンドゥスは絶句する。その表情には、驚きと喜びと当惑、それにわずかながら恐怖が入り混じっていた。
久しぶりに無事で会えた喜び。人だかりを見ていながら堂々と現れたことに対する、驚きと当惑。そして、彼が群衆を操作したのだと察したがゆえの恐怖。
フィンはオアンドゥスの感情を、人としての目と竜の目の両方で読み取り、申し訳なくなって小さく頭を下げた。何か間違いをして叱られた子供に戻った気分だったが、悪いことに今の彼は、己が何をしたかを自覚しているし、相手が己を叱れないことも分かっているのだった。
だが幸い、気まずい空気は続かなかった。横でネリスが呆れたように頭を振り、いつもの口調で問いかけたのだ。
「すごいね、お兄。何やったの?」
「おまえにはどう見えたんだ?」
「んー、薄い光がこう、すーっと人だかり全体に降りて来たように見えたね。あれっと思ってるうちに、皆、しらけちゃったみたい。あれはお兄がやったんでしょ? それともレーナ?」
「さあ、どっちかな。俺はただ、大勢が興奮しているようだったから、少し鎮めなければまずいことになると思っただけだよ」
フィンはネリスの態度にあわせて、大した事ではないというように答える。ネリスは、へぇ、と小馬鹿にしたように片眉を上げた。
「良かったね、お兄」
「うん?」
「だって、お兄ってばガチガチの堅物だから、上手いこと言って人を丸め込むの、全然駄目じゃない。父さんもだけどさ。あのまま放っといたら喧嘩になりそうだったけど、下手にお兄が出てって何か言ったら、もっと大変なことになってたかもよ。本当、良かったねぇ。レーナがいてくれて、さ」
台詞半ばにして、既にマックは顔を背けて肩を震わせ始めた。オアンドゥスも表情を緩め、フィンに同情的な視線をくれる。
フィンはやれやれと天を仰いでから、諦め顔でうなずいた。
「そうだな。おかげで助かった。さて、俺はこの人達の話を聞いてから行くから、先に皆に戻ってきたと知らせておいてくれ」
「あたしは使い走りじゃないんだけどな。ま、いいでしょ、たまにはね」
ネリスは偉そうに言って、マックと目配せを交わし、一人で先に小屋へ入っていく。どうやら、お目付け役はマックに交代、ということらしい。
「いいのか? フィニアス」
オアンドゥスが気遣ってくれたが、フィンはその場に残っている数人を見回してから、ええ、と答えた。
「ただの野次馬ではないようですから。おじさんも時間があるなら、一緒に聞いてくれますか」
「もちろんだ。俺はおまえの父親なんだからな」
しかつめらしく付け足された一言に、フィンは危うく失笑しかけ、かろうじて真顔を保った。父さん、と言い直すのは恥ずかしかったので、ごほんと咳払いしてごまかすと、来客に向き直った。
用件はいたって真剣なものばかりだったが、しかし、フィン達にはどうしようもない内容も多かった。闇の獣に心身を喰われた身内を治して欲しいだとか、今の市長に代わってコムリスを守って欲しいだとか、果てはうちの娘を嫁に貰ってくれだとか。
そうした請願を、フィンとオアンドゥスは言葉を尽くして諦めさせていった。マックも時々口を出して、情に訴えかける市民をきっぱりと拒絶する手助けをした。
お互いにとって有益な話が出来たのは、ほんの一握りだった。
仲間に加えてくれという、血気盛んな若者が一人二人。借り手がいなくなった共同住宅の家主が、天竜隊を増員するなら宿舎として格安で提供すると言ってきた。食料店の主は、近郊の農家からいつも買っているが、その農地を守るのに少し力を貸してくれたら仕入れが安定する、と告げた。
そうした有益な話は、相手の名前と住まいを確認した上で、皆と検討してから連絡する、といって帰した。
すべての客が片付くと、マックがふぅとため息をついた。
「兄貴、秘書を雇わなくちゃ駄目かもよ」
「部隊がもっと大きくなれば、そうなるかもな。でも今のところは必要ないさ」
「まだクビにしないでくれよ」
オアンドゥスが苦笑し、二人の肩を抱えるようにして小屋へ向かわせる。
「ともかく、よく帰って来た。無事で何よりだ」
無骨な手の温もりを感じながら、フィンは少し照れくさそうにささやいた。相手に聞かれたいのか聞かれたくないのか、自分でも決めかねたまま、ごく小さな声で。
「父さんも、無事で良かった」
会いたかった。
その一言だけは、流石に恥ずかしくて口には出せなかった。




