4-2. 皇帝の孤独
『皇帝陛下ならびに評議員諸氏に、グラウス=オラシウス=ティオルより謹んで報告・請願奉る。
ノルニコム州都コムスにおける戦後処理は滞りなく進行中。元ロフルス竜侯軍の解体は終了、竜侯家の家紋は街から一掃された。しかし住民感情はいまだ不穏なものがあり、第五軍団の再編には時間がかかる見込み。
また敗残兵の一部がノルニコム北部に逃れ、ドルファエ人のもとに身を寄せたとの報もあり、引き続き警戒を要する。ついては私グラウス=ティオルの司令官任期を延長し、コムスにて東部平定の任にあたることをお許し頂きたく――』
皇帝が淡々と報告書を読み上げてゆくと、議員達は安堵の表情になって緊張を解いた。これでもう、怒り狂った女竜侯が炎を吐きながら皇都に迫る悪夢に怯えずともよい。グラウス将軍が東部にいる限り、反乱の再燃する恐れはあるまい。
反対の声はなく、臨時であった東部司令官の地位はさらに二年、期間を延ばされることになった。ヴァリスはその間、いつもの冷ややかな平静さで会議を見守っていた。
彼の元にはもちろん、公文書としての報告以外に、私的な書簡が届いていた。それにはいつもの親しげな文体で、ごまかしのない事実が詳細に記され、早く皇都に戻りたいのは山々だがあとしばらく議員ども相手に孤軍奮闘して貰わねばならぬ、と苦しい心情が綴られていた。
実際、ヴァリスは皇都で孤立していた。今のところは東西の竜侯の問題が一応解決したということで、一時のような緊張はなくなったが、さりとて評議会が協力的になったわけではない。
「時に皇帝陛下、東西の問題は将軍とセナト侯に任せて安心となりましたが、北部についてはどうされるおつもりですかな」
そら来た。ヴァリスは質問者フェルシウスに醒めたまなざしを向けた。
「その件なら、既にイスレヴ議員を派遣した。諸君らも承認してくれたはずだが?」
「さよう、北部の情勢視察および徴税の徹底を指導する特別監査官として、ですな。少しは成果を得られるよう願いたいものです。しかし天竜侯が同行するとは、聞いておりませなんだ」
「彼は竜侯とはいえ一市民にすぎぬ。誰とどこへ行こうと自由だ。今回はたまたま行き先が同じであるからと、護衛を買って出てくれたにすぎぬ。こちらにしても、イスレヴ議員に護衛官をつける手間と費用が省けてありがたい申し出だった」
「支出面で言えば、そう確かに、ささやかな節約でございますな」
フェルシウスは慇懃に一礼して認めたが、その口調ははっきりと揶揄するものであった。そんな問題は些事だとばかりに。
「何しろイスレヴ議員は監査官としては異例の任期三年を与えられております。その間の護衛が不要となれば、いくらか国庫の助けにはなりましょう。しかし……さりとて、此度の将軍のように、任期延長を願い出られることはありますまいな? 我々としては、三年でも長すぎると存じますが」
我々、か。誰と誰のことやら。ヴァリスはわずかに眉を寄せて答えた。
「状況次第であろう。思いのほか北部が安全であれば、任期満了を待たず本国へ帰還することもあり得るが、てこずれば三年では足りるまい。竜侯の協力を考えた上で、三年というのが妥当な期間だとしたまでだ」
「さようでしょうか」
「それほど気になるなら、議員、次の夏には休暇を取って北部へ避暑に行かれるが良い。天竜侯らの話によれば、夜は闇の獣が町を取り囲んでくれるため、随分と涼しくなるそうだぞ」
ヴァリスは真顔できつい皮肉をお見舞いし、フェルシウスが怯んだ隙に話を切り上げて、議事堂を後にした。
早くもフェルシウスとその一派は、小セナトを通じて竜侯セナトとの結びつきを強めようとしている。ノルニコム軍撃破の後、今後の協議のために竜侯セナトが皇都を訪れた時など、呆れるほど議員達の動きが活発化したものだ。
幸か不幸かセナト侯の方では積極的に議員らを取り込む気配もなく、ヴァリスの地位は当面安泰のようだが、それとていつまでもつか分からない。
(小セナトが祖父の後継者ではなく、私の――帝国の後継者であるとの自覚を持ち、そのように行動する力を持ったなら、私が皇帝の座に固執する必要もないのだが)
ため息をこぼし、ヴァリスは王宮の私室でグラウスからの手紙を読み返した。
元気にしているか、きちんと食事をとっているか、と過保護な心配から始まって、彼らしく力強い文字が状況を伝える。
『俺たちは竜侯を倒したがために、ノルニコム人すべての恨みを買ってしまった。夜間の哨戒もいまだに戦中と同じ態勢だし、兵達も市民の敵意に晒されて神経をすり減らしている。やりきれんよ、まったく。
命令すれば反抗はしない。だがそれは、我々に暴力をふるう理由を与えないためにすぎず、従順というのではない。食料の調達にしても、毒を盛られはせぬかとこちらがピリピリしている有様だ。
エレシアの側近だったマリウスという騎兵隊長が、今は実質的にノルニコムの代表として我々と市民をつないでくれている。この男も協力的ではあるが、心から従っているわけではないのは明らかだ。誰もが、今は亡き竜侯エレシアを慕い、その記憶にすがっている。
敵が生者ならば戦えるが、死者の思い出に剣と槍では太刀打ちできぬよ。何か良い案があったら教えてくれ。今はただ、兵が市民を刺激せぬよう抑えておくだけで精一杯だ』
実直なグラウスの苦悩ぶりが目に見えるようだった。姑息な人気取りの手段など思いつかないのだろう。もっとも、その手の能力に長けた人物であっても、文面から察せられるような状況では、ご機嫌取りをしようものなら逆効果だと考えるだろうが。
カネをばら撒き、利便を図ってやれば、目端のきく者はすぐになびくだろう。だがそうした者は、風向きが変わればなびく向きも簡単に変える。不穏な事態になった時、東部に駐屯する軍団の助けにはならない。
疲れる仕事ではあろうが、ここは今まで帝国が各地でしてきたのと同じ、公平で誠実な統治を行うことで、少しずつ信頼を取り戻すしかないだろう。
(その点では、グラウスほど適任な男はいるまい)
質実で忍耐強く、正義を重んじる将軍。彼ならばノルニコムの民を刺激することなく、辛抱強く荒波がおさまるのを待ち続けられるはずだ。
――もっとも、その間ヴァリスは皇都で孤立無援になるわけだが。
(数年の辛抱だ)
ヴァリスはこめかみを指でこすり、返書をしたためるべく、羊皮紙とペンをとった。
帝国を末期から救うが如く現れた天竜侯によって、北部の状況は改善するだろう。議員達も税収が好転すれば少しは協力的になるだろうし、ナクテ竜侯は……少なくとも小セナトが成人するまでは、静かにしているはずだ。
その間に、出来る限りの手を打っておかなければ。
ヴァリスは険しい顔で、ペン先を羊皮紙に下ろした。じわりと黒い染みの広がるさまが、不吉な生き物の触手に似て見えたのは、少し疲れているせいかもしれなかった。




