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灰と王国  作者: 風羽洸海
第三部 帰還
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3-7. 黄昏に光る


 道すがら、ニクスは村のことをあれこれと教えてくれた。村長は元々、連れ合いが村の指導者的な立場であったのだが、事故で死んでしまってその跡を継いだのだ。彼女の気性と的確な判断力は誰もが認めるところだったので、特にもめることもなかったという。

 ここに集まった人間の多くは、先刻話した法律家クヴェリスによって救われた。クヴェリス本人は今もあちこちを回って人助けをしているのだが、時々村にも、様子を見に戻ってくるという。

「オリアは端折って話したけど、俺は売春宿に忍び込んで彼女を逃がした後、店の用心棒に捕まって投獄されたんだ。それを出してくれたのがクヴェリスさんでね。だけど連中は諦めてなくて、俺をもう一度締め上げてオリアの居所を吐かせるつもりみたいだったから、大急ぎで逃げてきたんだよ。……ただ、こんなことを言うのはなんだけど、俺達は運が良かったんだ」

「え?」

 それのどこが、とフィンは眉を寄せる。ニクスは肩を竦めた。

「クヴェリスさんが言ってたよ。オリアの親戚がひっかかった高利貸しは、確かにあくどいが最悪の手合いではなかった、ってね。もっと性質の悪いのだと、取り立ても金目のものを奪うのじゃなく、痛めつけるだけが目的で……女は子供でも年寄りでも構わず強姦され、挙句なぶり殺しにされることも少なくないらしい。オリアやファーネインが傷物にされずに『商品』として扱われたのは、珍しいぐらい幸運だったんだ」

「そんな……」

 フィンは胸が悪くなってうめいた。ここに来るまでに触れてきた数多くの意識の中に散見された、思わず振り払いたくなるほど暗く濁った意識。あれらの持ち主の一部、あるいは全部が、そうした非道な輩だったのだろうか。

 もしそうなら。そして、出来ることなら。

 意識の海からあれら穢れたものを掴み取り、握り潰してやりたい――。

 怒りと嫌悪を堪え、フィンはぎゅっと拳を握りしめ、唇を噛んで沈黙する。ニクスは大きなため息をついて天を仰いだ。

「それに、二人が連れ去られて俺がそれを追いかけてった後、村はますます状況が悪くなって、大きな暴動が起こったらしくてさ。クヴェリスさんが立ち寄った時には、鎮圧に来た軍団と、暴徒と住民、それに金貸しどもの私兵とが混戦になってて、大勢死んだらしい。結果的に俺達は難を逃れたわけだよ。オリアのお袋さんは駄目だったけど。

 やれやれまったく、北は闇の獣で大変なのに、本国は人の皮を被った獣が跋扈してるとは、世も末だな。皇帝は何をしているのやら」

 嘆息したニクスに、フィンは返す言葉がなかった。ヴァリス帝の弁護をしたい気持ちはあるが、こんな話の後で言い訳など出来はしない。それにフィンが皇帝の臣下になったのだと思われたら、ここの住人に無用の疑いを抱かせることになり、ニクスの立場も厄介なものになるだろう。

 フィンが黙っていると、ニクスは苦笑して彼の背を叩いた。

「馬鹿だな、おまえの責任じゃないんだから気に病むなよ。竜侯様でも無理なことはあるさ」

「ああ。……皇帝でも、な」

「どうかな。まあ、そうかもな」

 ニクスは曖昧に肩を竦め、それからふとレーナを振り返ると、口調を変えて言った。

「辛気臭い話はさておき、オリアにはレーナのことをあんまり詳しく言うなよ。コムリスにいた頃から一緒だったって知ったら、きっとがっかりするから」

「は?」

 フィンがきょとんとすると、ニクスはいささか意地の悪い目つきをして、わざと冷たい声音を作った。

「初恋の相手と再会してちょっとばかりときめいた直後に、実はとっくに別の女のものだった、って分かるなんて、嬉しくないだろ」

「いや、待ってくれ、それは違う。誤解だ」

「何がどう誤解だ。おまえまさか、コムリスでオリアに好かれてたのを知らなかったなんて言うなよ」

「…………」

 どこまで冗談で、どこから本気なのか。フィンは困惑して言葉に詰まった。

 あの頃オリアが、そう、多少好意的に自分を見ていたことは気付いている。だがそれが恋かというと、やや違うという気がしないでもない。母子二人、寄る辺のない不安と寂しさから、大所帯に属するフィンに頼りたかっただけではなかろうか。

 もっとも、当人がそれを恋だと感じたのなら、事実はどうあれ、形成される思い出はひとつだ。

 そうなるともうフィンにはよく分からないし、ニクスも本気で『恋敵』扱いしているわけではなさそうなので、結局それは脇に置いておくことにした。

「オリアのことはともかく、俺が別の女のもの、というのは違うだろう。確かにレーナとの絆は特別なものだが、彼女は竜なんだから」

 生真面目にそう言ったフィンに、ニクスは呆れ、レーナは少しだけ残念そうな顔をした。二人の反応にフィンが戸惑っていると、ニクスは頭を振りながらため息をついた。

「……まあ、おまえがそう言うんなら」

 でもな、と彼は続けかけたが、そこでフィンとレーナに複雑な目を向け、結局そのまま、まあいいよ、と曖昧にごまかしたのだった。

 フィンは発せられなかった言葉の影につかまってしまい、落ち着かない気分になる。ニクスの後を歩きながら、彼は自分の爪先ばかり見ていた。

(ある意味では確かに、俺とレーナはお互いがお互いのものであるわけだが)

 竜の命と力を分け与えられている人間。人間という器を通して己が力を発揮する竜。結びついたふたつの存在はわかち難く、間に他者の入り込む隙はない。

(しかし、それとこれとは別だろう?)

 だって、俺はレーナに恋してるわけじゃないし、レーナだって始終きれいだの好きだの言うけれど、それはいわゆる恋愛感情ではないし、そもそも種族が違うわけだし。

 ぐるぐる考えていると、ますます分からなくなってくる。じきに彼は、棚上げという解決法を選んだ。

(そのうち分かるだろう)

 いずれ、自分が誰かと結婚して所帯を持ちたいと決めたら。あるいは逆に、レーナがどこからか竜の伴侶を見つけてきたら。

 その考えが少しばかり気に入らないことを自覚しつつ、フィンはその感情をも含めて、ずっと未来の自分に問題を丸投げしたのだった。


 ニクスの予想に反して、オリアはすぐにレーナと仲良くなってしまった。

「なあ、おまえ、わだかまりとか何かないのか?」

「何言ってるのよ。さては、昔の熱を思い出したかと疑ってるのね? そんなに心が狭いなんて思わなかったわ」

「そうじゃない、そうじゃないって! けどほら、おまえとレーナがフィニアスを両方から引っ張ったりしたら面白いなと……」

「馬鹿!!」

 すっかり夫婦のやりとりである。聞きながらフィンは笑ってしまった。彼にしてみれば、ことのなりゆきは意外でもなんでもなかった。オリアはネリスやファーネインにお菓子をくれた優しいお姉さん、なのである。柔らかい光を身に帯びたふわふわの仔犬のような少女に対して、そう長く警戒心を抱けるわけがない。

 そのオリアがふとフィンを振り返り、懐かしむ表情になってつくづくと言った。

「もしかしたら私、コムリスにいる頃から、本当はあなたのことに気付いていたのかもしれない。何となく勝手に思い決めていたんだもの。この人なら私を守ってくれる、頼りになる、ほかの人とは違う、って。今思えば図々しいわよね」

「…………」

「まさか竜侯だなんて、思ってもみなかったけど。魚のお父さんもびっくりだわ」

「それはもう忘れてくれないかな」

 何の話だとニクスが身を乗り出し、オリアがフィンの下手な冗談を暴露する。笑いが弾け、微かに漂いかけていた切なさを洗い流した。

 和やかな空気に包まれて心づくしの夕食を馳走になった後、フィンはニクスと共に村の外れを回って篝火台に火を灯した。薄墨色に沈んでゆく世界の中、ぽつぽつと宝石のように炎が輝く。フィンはあえてレーナの力を注ぐことはしなかった。下手なことをして獣の注意を引いては本末転倒だ。

 歩きながらフィンは、不思議な気分になって村を振り返った。

 ここは故郷ではない。ナナイスの街や風車小屋とは、地形も規模も住民も、何もかもが違う。なのに、まるでここで生まれ育って、何年もこうして日暮れに明かりを灯してきたような気がした。それほどここは、穏やかだった。

 ごく自然に足が止まる。彼の心中を察したように、ニクスも立ち止まってささやいた。

「夢みたいだろう」

「……ああ」

「俺も時々、今までの事が全部夢で、本当はずっとここで、村人として暮らしてきたような気がするよ。あるいは逆に、今ここにいることが夢で……そろそろ目が覚めちまうんじゃないか、ってね。肩を揺すられて、はっと顔を上げたら、暗闇の中に点々と青い光が見えるんじゃないか、って」

「ここでは、夜通し篝火を守らなくてもいいのか」

「今のところはな。一応、二人一組で交代して見張りはするが、獣の近寄ってくる気配はほとんどないよ。人間の方が心配だ」

「そうか」

 それからしばらく、どちらも黙って歩く。次の台に松明の火を移しながら、フィンは静かに問うた。

「ここでの暮らしに満足かい」

「難しい質問だな」ニクスは苦笑した。「獣の餌食にされる心配はない。その点では満足だよ。だがここの暮らしが満ち足りているとは、到底言えないな。とにかく物が不足している。自分達で作れるものには限界があるし、売買しようにも外の世界のカネはなかなか手に入らない。医者もいないし、皆で助け合ってはいるが……」

 そこまで言って、彼は小さく頭を振った。そして、次第に藍色を深めてゆく空を仰ぐ。

「それに、人が集まれば問題も起きる。同じ身の上の仲間だといったところで、心まで同じじゃない。俺たちが逃げ込んだ時よりも確実に村は人が増えているし、逃亡中は気にならなかったことも、落ち着いた途端、問題になったりする。正直、このままやっていけるのかどうか、不安だよ。だが他に行くあてもないしな」

「逃げ隠れしなくて良くなれば、解決するかな」

「物や人の不足はな。だが多分、この村が公に認められてよそとの行き来が盛んになれば、闇の獣も一緒にやってくるだろうよ。……おいフィニアス、また難しい顔をしているぞ。おまえが悩んだところで、解決できる問題じゃないさ。自分達の事は自分達で何とかする。おまえは気にせず、北へ戻って闇の獣を蹴散らしてくれ」

 言葉尻でニクスはややおどけて見せた。闇を退けるのがそう簡単でないのは、お互い承知の上だ。フィンは彼の気遣いに感謝して微笑んだ。

「ああ、そうするよ。あんたもオリアの心変わりを心配しなくてすむだろう」

「なんだと、いつの間にそんな自信家になったんだ、この」

 ニクスが笑ってフィンをどやしつける。フィンは大袈裟によろけながら、遠い将来を思い描いた。

 いつか、北の地が安全になったら。ファーネインの傷が癒えて外に出てきたなら。ニクスとオリアが家族を連れて、遊びに来てくれるかもしれない。そのまま、新しい北部の町に住んでくれるかもしれない。

 彼らだけではない、闇の獣や荒んだ人間に追われて故郷を離れた人々が、帰ってくるかもしれない。

 そんな日が、現実になれば――。

(頑張ろう)

 一歩ずつでも進み続ければ、きっとこの夢は叶う。今の自分には恐らく、それだけの力がある。竜侯としての力も、皇帝とのつながりやイスレヴという味方も、気心の知れた頼れる仲間達も。かつてナナイスを出た時には持たなかったものを、今は手にしているのだ。出来る事はきっとある。

 フィンは決意を新たにすると、翌朝早くに村を離れた。

 ニクスとオリアのほかは村長にだけ挨拶を済ませ、怯えさせてしまった子供にもう一度謝ってから、普通の人間のように徒歩で立ち去る。そうして村から充分離れてから、フィンは再びレーナの翼に乗って空高く舞い上がった。

〈さあ、急いでコムリスに向かおう。おじさん達はもう着いているかもしれない〉

〈ここまで来たら、そんなに遠くはないわ。ゆっくり行っても大丈夫。……ねえ、フィン、やっぱりフィンはとってもきれいね〉

 唐突な褒め言葉を頂戴し、フィンはかくりと脱力しかかった。何をいきなり、と目をぱちくりさせながら、彼は曖昧に、それはどうも、と礼を言う。

〈どうかしたのかい? 急にそんなことを言って〉

〈どうもしないけれど。ただ、思っただけ〉

 ふふ、と小さく笑う気配。レーナは一人嬉しそうにしているだけで、説明してくれる様子がない。フィンは小首を傾げたが、追及はせず前を向いた。

 遥か高い空の上から眺めると、まだまだ遠くにある海のきらめきまでが、小さく見える。丘や森のなだらかな起伏の間に、ちらちら見え隠れする濃紺の欠片。しばらくぶりにそれを目にして、フィンは無意識に口元をほころばせた。

 海を見ると、故郷に戻ってきたような気がする。穏やかに、時に荒々しく、遠くどこまでも広がる海がそこにあるだけで、こことは違う別の世界に触れたような解放感が身を包んでゆくのだ。

(ナナイスに戻る頃は、季節も変わっているだろうな)

 上手くいけば、暗く黒く荒れた冬の海ではなく、明るい紺碧に輝く夏の海が、帰還を迎えてくれるかもしれない。フィンは孤児院の皆と一緒に遊んだ頃の記憶を、そっと大事に味わってから、ふたたび胸の奥へとしまいこんだ。

 今はまだ、吹きつける風は冷たく、よそよそしい乾いた岩の味がしていた。


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