2-2.少女
すっかり満足してフィンは顔を上げ、それからおもむろに剣を取って構えた。
獣退治の訓練では決まった型があるわけではなかったが、兵営にいた戦士の一人が、空いた時間に古式剣術の手ほどきをしてくれていた。軍団に入る前から、そうした方面の修行を続けていたのだという話だった。
もちろんフィンはそれを会得するだけの時間を与えられなかったが、それでも、一人で練習をする基礎は出来た。流れるように、様々な動きや姿勢をつないでいく。
剣の先まで神経を届かせ、些細な動きひとつひとつを意識して行う。そのことに集中していると、無心になれた。空っぽになった心に、夜の静寂と月光が水のように染みこんでくる。
このまま自身が溶けて世界とひとつになれるような錯覚さえしてきた、その時だった。
視界の端に何かが映った。最初、無我の境地にあったフィンはそれに気付かなかった。が、一呼吸遅れてその事実に意識が目覚め、ぎょっとなってそちらを振り向く。
――人だ。
フィンは静かに肩と胸を上下させながら、油断なく身構えた。
夜空には相変わらず雲ひとつなく、月光が大地を蒼く照らしている。崩れた建物の落とす影は短く、薄い。どこか夢想めいた夜の村に、いつの間にか白っぽい人影がぽつんと佇んでいた。
――いや、あれは人じゃない。
フィンは最初の認識を訂正し、眉を寄せた。人間なら、たった一人で夜中にふらふらしていることなどあり得ない。それも……フィンとそう歳の変わらなさそうな少女が。
警戒するフィンに向かって、少女はおずおずと近付いてきた。足音がほとんどしない。絹雲を空から剥がしてむりやり体に巻きつけているかのように、ひらひらふわふわした白っぽい服を身に着けている。金と銀を溶かし合わせたような長い髪が、同じようにふわりと波打っていた。
「……こん、ばんは」
遠慮がちに少女は挨拶し、自分の声に驚いたように目をぱちぱちさせた。それから、「あの」とためらいがちに続ける。
「ごめんなさい、邪魔するつもりはなかったんだけど」
悪意や敵意はなさそうだ。フィンは構えていた剣をひとまず下ろしたが、まだ緊張は解かなかった。無害な姿を装って人を騙す魔物の昔話は数多い。
魔物たちは闇の眷属とは違い、必ずしも敵ではなく、さして邪悪でもない。食べ物と引き換えに仕事をしてくれることもあれば、通りがかっただけの旅人に一生うなされるような経験をさせるものもいる。言うなれば黄昏に属する生き物である。
少女は小首を傾げ、金に近い琥珀色の目でフィンを見つめた。そのまなざしの純粋さに、フィンは思わずたじろぐ。彼の反応に、また少女は慌てたようだった。
「あ、あ、ごめんなさい。あの、ええと。私、あまり人と話した事がなくて。だから、あの」
おたおたと、しかし眠っている者を起こさないように気遣ってか、小声のままで言い訳する。納屋の中に仲間がいることを、この少女は知っているのだろうか。フィンは訝り、ちらと背後に目をやった。
「心配しないで」
少女がフィンの心を読んだように言った。
「私、ただあなたを見ていたいだけなの」
「……」
だけなの、と言われても。
フィンは当惑し、同時になにやら気恥ずかしく、変な顔になってしまった。少女はますます焦って赤面し、むやみに手をぱたぱたさせる。
「あ、ええと、また私、言い方がおかしかった? あの、なんて言えば良いのかな……分からないんだけど。ただ、近くで見たかったの。それだけ。でも、邪魔?」
そのたどたどしい様子が微笑ましくて、フィンはとうとう肩の力を抜き、苦笑した。すると少女もほっとしたらしく、満面の笑みを広げた。
「とりあえず、君の名前は?」
そっと小声で問うたフィンに、少女はやっと気付いた風情で両手の指先をちょんと合わせて「ああ」と言った。
「そうよね、最初に言わなきゃいけないのよね。私はディアエルファレナ」
「ディアエル……」
復唱しかけてフィンが絶句したのを、覚え切れなかったものと考えたらしい。少女はにっこりして言った。
「家族にはレーナって呼ばれてたわ」
「……レーナ」
呆然と繰り返し、フィンは少女を見つめる。
“ディア”は全能の神デイアを表す言葉で、ディアティウスという国名や皇都ディアクテのような地名にたまに使われるが、人の名前には使わない。あまりにも不遜だからだ。
デイアとアウディア以外の神だったなら、おかしくはない。大地の女神ネーナは特に人気があって、ネリスの名前も、ナナイスもウィネアも語源をたどればネーナが出てくる。だがデイアとは。
(やっぱり人間じゃないんだ。……精霊かな?)
訝りつつも、フィンはレーナの期待するまなざしに応じて名乗った。
「俺はフィニアス。フィンでいいよ」
フィン、と名を繰り返された瞬間、彼はどきりとした。見えない手で心の中に直接触れられたような気がしたのだ。無理に押し入られたわけではなく、とんとん、と軽くノックされた程度のものだと直感したが、それでも、普通なら手の届かないところにいきなり触れられて、たじろぐ。
それは相手にも伝わったらしい。「あ」とまた慌てて、レーナはおたおた謝った。
「ごめんなさい、私、本当に人と話すのが下手みたい。あの、もう邪魔しないから……ただ、見ていて良い?」
「いや、大丈夫、ちょっと驚いただけだよ。構わないけど……見るって、何を?」
戸惑いながらフィンが答えると、レーナはほっと笑みを広げた。
「あなたを。だって、とってもきれいだから」
「………………」
あまりに予想外の言葉だったので、フィンは一気に脱力してしゃがみこんでしまった。堪えようという意識が生じる余裕もない。
「あ、あれ? あの、ああ、困ったな、私また何かいけないこと言ったのね。どうしよう」
頭上からまた、あたふたと声が降ってくる。フィンはこのまま立てなくなりそうだと思いながら、やれやれとレーナを見上げた。
「きれいっていうのは、普通、君みたいな女の人に使う言葉だよ」
「えっ」
途端にレーナは目を丸くして赤面した。フィンとしては、お世辞ではなく、ただ客観的事実を述べただけのつもりだったのだが、どうやらレーナの方はまたどこか噛み合わない受け止め方をしたらしい。どんどん真っ赤になって、耳から首までほやほやに茹だってしまった。
「いや、えーと……レーナ? 俺が言ってるのは、単に見た目の話で、それ以上の含みが何かあるわけじゃないんだが」
「み、見た目? って、外側よね。そ、そうなの? あ、そうか、そうよね、人って見えないのよね。ああびっくりした」
「……俺もびっくりしたよ」
人外のものと話すのがこんなに疲れるとは思わなかった。フィンはため息をひとつ吐いて、なんとか立ち直る。
「君は俺の何がきれいだって言いたかったんだい? 見た目じゃないだろ」
自分の容貌が、どんなに褒めようとしてもせいぜい『精悍』ぐらいの言葉しか出てこないことは、フィンも分かっていた。鏡をしげしげ見た事はあまりないが、一般的な美形の基準に照らして自分の顔は……なんというか、少しばかり鋭く厳しすぎる。ネリスに墓石呼ばわりされても仕方がないと諦めがつく程度には。
きれいだ、と言われたことがあるのは今までの人生でたった一度、祭司フィアネラがフィンの双眸を覗き込み、ナナイスの海と同じ色ね、と評した時だけだ。
しかしレーナの感覚はやはり人とは異なるようで、小首を傾げてしげしげとフィンを眺めて言うことには。
「私には人の基準はよくわからないけど、フィンは外側もきれいだと思うわ。でも……最初に私が言ったのは、フィンの内側」
ついと手を上げ、人差し指でちょんとフィンの胸に触れる。心臓の辺りに。同時にフィンは、さっきの見えない手に触れられる感覚を味わった。
「人ってね、内側も結構、私達には見えるところまで出てきてるの。特にきれいな人はうんと遠くからでも分かる。だからつい、ふらふら見に来てしまって……」
「待ってくれ。つまり君には、人の心が見えるのか」
「その人が出している部分はね。本質まで見ようと思ったら、中に入り込まないと駄目だけど。でも、そこまでしなくても、きれいな人は分かるの」
「どうかな」フィンは苦笑した。「俺はそんなに心のきれいな人間じゃないよ。まぁ、見ていたいと言うんなら、こんな奴でも気が済むまで眺めてくれて構わないが」
そこまで言って、彼はふと空を見上げた。
「でも、月がある内に帰った方がいい。君の家がどこにあるのか知らないが……月が沈んだら、星明りだけじゃ闇の獣を防ぎきれないだろう。きっと奴らが来る」
闇の獣が精霊を襲うものかどうかは分からないが、かつて大戦の折に精霊が人間に与したのなら、やはり獣たちに憎まれているだろう。こんなふわふわした少女では、あっけなく奴らの爪に引き裂かれるに違いない。
だがフィンの心配など、レーナはまるで意に介さなかった。まったく恐れ気もなく、ことんと首を傾げて問うてくる。
「あなたは、闇の眷属と戦っているの?」
「戦わずに済むなら、そうしたいよ。でも連中の方が人間を憎んでる。今は帝国がガタガタになってるせいで軍団がちゃんと機能しなくて、今までみたいに闇の獣を抑えておけなくなってるんだ。だから、どこにいても夜になったら奴らに襲われる」
フィンは早口になって答えた。自分の言ったことを相手がちゃんと理解してくれるかどうか分からなかったが、このままいつまでもおしゃべりしている場合ではないと思い出したのだ。納屋のこちら側はいいが、裏側ではもしかしたら、影に潜んで獣たちが近付いているかもしれない。すっかり馴染みになった、あのキシキシいう音は聞こえないが……
「今夜ここには来ないわ」
まるで知人の予定でも告げるように、あっさりとレーナが言った。フィンはぎょっとなり、目を丸くして少女を見つめる。
「どうして分かる?」
フィンの驚きようを見て、レーナは分からないことの方が驚きだと言わんばかりにきょとんとした。
「だって、こんなに明るいもの。私に見える限り、この辺りには彼らはいないし……それに、ここにはもう彼らを呼び寄せるものがないから。人の暮らしも、明るい炎も、人の欲望も」
「だが今は俺と家族と、仲間がいる」
「ええ。でも、アウディア様とネーナ様の力があなたたちを隠しているから、彼らには分からないわ。それに、ずっとここにいるわけじゃないんでしょ?」
「それは、そうだが……」
「大丈夫よ。彼らは来ない。心配なら、夜が明けるまで私がここにいるから。あなたはゆっくり眠って」
ふわりとレーナがフィンの額に手を触れる。途端にフィンは、抗い難い睡魔に襲われてよろめいた。
「駄目だ、そんなわけには」
「大丈夫。休んで。私が見ているから」
ささやく声は優しく、フィンの意識を包み込んでゆく。やっぱり何か魔物に騙されたんだろうか、という疑いがちらと脳裏をかすめたが、意識のより深いところでは、本能的に安全だと悟っていた。
倒れかかったフィンを、レーナが抱きとめ、そっと横たわらせる。地面にじかに横になっているのに、固さも冷たさも感じなかった。子供の頃に空を見上げて、あの雲の上に乗っかる事が出来たら気持ちいいだろうなぁと想像した、その通りの感触だ。
どうやらレーナが膝枕をしてくれているらしい、とぼんやり感じたのを最後に、フィンは昔の幸せな夢の中へと落ちて行った。