1-1.斜陽
一章
ひとつの国が滅んだ。
いつ、と断言できる日付があるでもなく、ただ、不意に人々は気付いたのだ。自分達を守ってくれていた何か大きなもの、それが消えてしまったことに。
最初の兆候は北の辺境にあらわれた。
町や村の外れ、耕作地や放牧地が終わって森や沼が迫る境に沿って、ぽつぽつと篝火の台が置かれている。日暮れ前に軍団兵が巡回し、祭司によって祝福された聖なる火を灯して、闇の眷属が人の領域を侵さぬように守るためだ。
その炎の数が、少しずつ減りはじめた。
最初はほんの数箇所だけ。次は三つにひとつが消え、夜が深さを増した。
それでも闇の眷属が攻めて来ないとなると、篝火はどんどん減り、とうとう軍団兵の巡回さえなくなった。
給料が届かなくなったからだ。
本国からカネも物資も届かないのでは、夜毎の燃料を賄えない。それどころか兵士や祭司の生活までも苦しくなって、口を糊するため金策に奔走することになる。
小さな兵営が真っ先に潰れた。
兵士の規律が乱れ、脱走と怠慢が相次いだ。秩序を守ろうと孤軍奮闘した将官は殺され、やがて各地の兵営は無法者の巣窟と化していった。そうして好き勝手にしていても、かつてなら鎮圧に差し向けられた本国の軍隊は、いつまでも現れなかった。
街道を進む軍靴の響きも、その噂さえも聞かれないまま数ヶ月が過ぎて。
――やがて密やかに、闇が動き始めた。
篝火がひとつまたひとつと消えるに従い、深い森や沼地の霧の奥に長らく身を潜めていたものたちが、宵闇と共に人の世界をじわじわと蚕食していった。初めは静かに用心深く、やがて大胆に、情け容赦なく。
畑を荒らされ命を脅かされて、農民たちはやむなく、城壁のある街へと流れ込む。元兵士らによる山賊まがいの軍隊が、闇の眷属を追い払うかわりに、寄る辺ない人々を奴隷に変えてゆく。
そうしてものの一年と経たぬ間に、栄えあるディアティウス帝国の版図には、不毛の荒野が見えない穴を穿つことになった。集落は孤立し、それぞれの町で勝手に作られた法が罷り通り、文化も芸術も見向きされず、人々は生きのびる為になけなしの財産を売り、隣人を、自尊心を、家族をさえ売った。
帝国北西部ヴィティア州、輝くディヴァラ海に面した賑やかな港町であったナナイスもまた、同じ運命から逃れ得なかった。