脚の長い圭子
駅前の待ち合わせ場所、掲示板の前で、啓司は腕組みをしたまま何度かの溜め息をついた。約束の時間を三十分過ぎたところで、人混みの頭一つ上から、見覚えのある姿が慌ただしく近づいてくる。
178センチを超える長身、ブレザーの裾から伸びる驚くほどスラリと長い脚。高校3年生の圭子は、そのモデルのようなスタイルゆえに街中でも嫌でも目立つ。彼女は大きな歩幅で駆け寄ってくると、啓司の前で膝に手をつき、息を整えた。
「啓司さん、ごめんなさい! 補習のあとに進路指導で先生に捕まっちゃって…」
「何?三十分!俺、ここでずっと放置されてたんだよ!」
啓司はふん、と横を向き、横顔で不機嫌さをアピールする。せっかくの休日デートだというのに、出だしから出鼻をくじかれた思いだった。
圭子は困ったように眉を下げ、苦笑いを浮かべた。
「本当にごめんなさい。でもほら、私、歩幅が大きいから駅からここまで超早歩きで来たんですよ? 2倍くらいのスピードで!」
「歩幅の問題じゃないよ」
言い訳になっていない言い訳に、啓司は呆れたような声を出す。だが、圭子が申し訳なさそうに自分の長い脚をトントンと叩きながら、「この脚で一生懸命走ってきたんです」と言わんばかりに視線を送ってくるのを見て、毒気を抜かれてしまった。
「まったく。お腹空いたから、何か奢って」
「はい! なんでも奢りますよ先輩!」
ぱっと表情を明るくした圭子が、啓司の隣に並ぶ。小さな步幅で歩き出す啓司に合わせて、彼女は長い脚を持て余すように、少しだけ歩調を緩めた。
カフェで空腹を満たした二人は、秋風が心地いい街へと繰り出した。
特別な目的もなく大型商業施設に入り、ガラス越しに秋冬の新作服を眺める。ディスプレイのマネキンを見上げるたび、啓司は隣の圭子と見比べずにはいられない。すらりと伸びた長い脚と抜群のスタイルは、どの服を着せても完璧に映えるはずだった。
「これとか、圭子なら絶対に似合うんじゃない?」
「うーん、丈はちょうど良さそうですけど……今は服より、大学に入ってからのことの方が頭いっぱいで」
圭子はガラスに映る自分の制服姿を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「私、無事に合格したら……ロシア文学を専攻しようと思ってるんです」
「ロシア文学? 急にシブいな」
「啓司さんもドイツ文学科じゃないですか。ゲーテとかヘッセの話をしてるときの啓司さん、すごく楽しそうだから。あ、フルトヴェングラーも!
私も原語でドストエフスキーとかトルストイを読んで、啓司さんと文学の話をしてみたいんです」
不意の告白に、啓司は言葉を詰まらせた。自分が大学で楽しそうに学んでいる姿が、彼女の進路に影響を与えていたとは思ってもみなかったのだ。
「ロシア語は日本語とは違うし文法もややこしいし、覚えること多いぞ」
啓司は気恥ずかしさを隠すように、少し素っ気なく返した。すると圭子は、いたずらっぽく苦笑いを浮かべる。
「大丈夫ですよ。私、背も高いし脚も長いから、ロシアの凍えた大地も一歩でガシガシ跨いで進めますもん」
「スケールが大きいんだか小さいんだか分かんない例えだな」
「ふふ、でも本気ですよ。早く啓司さんと同じ大学生になって、もっと対等にいろんな話がしたいです」
誇らしげに胸を張る圭子の横顔を見上げながら、啓司は照れくさそうに頭をかいた。ウィンドウに映る二人の影は、背格好こそ少し歪だが、距離だけはすっかり縮まっている。
夕暮れの商店街の抜け道。赤ちょうちんの明かりがちらつき始める時間帯、高三の圭子は制服の短いスカートをなびかせながら、隣を歩く大学生の啓司の顔を覗き込んだ。
「ねえ啓司さん、実際のところ『あっちの方』はどうなの? 大学入って変わった?」
この唐突でストレートな問いかけに、啓司は一瞬足をとめ、苦笑いしながら缶コーヒーのキャップを開けた。
「相変わらずぶっ込んんでくるな、圭子よ。高校生の聞くことか?」
「もう十八よ、子供扱いしないで!周りだって、誰とどこまで行ったとか、そういう話ばかりなのよ」
「確かにな。なんで高三になると皆付き合い出すんかねえ?」
「啓司の方こそ、彼女できたって聞いたけどさ」 「今の彼女?勿論、圭子さ!」
「高校のときみたいに清い交際なんてやってないでしょ、あたし達?」
啓司は歩調を緩め、ふうと息をついた。
「まあ……そりゃな。高校の時と違って、お互い一人暮らしの部屋があるから、自然とそうなるよ。でも、なんていうか……距離感が難しいんだよな」
「距離感?」
「そう。体の関係を持つと、付き合いの『濃厚さ』は一気に増す。でも、それがイコール心がつながった証明になるかというと、そうでもない。ただの習慣みたいになっちゃうリスクもあるし、相手の期待値が一気に高くなるのを感じることもある」
「期待値って、結婚とか?」圭子は首をかしげた。
「そこまではいかなくても、束縛が強くなったりな。でもさ、二十歳の俺たちにとって、結婚なんてまだまだ現実味がないわけよ。キャリアも決まってないし、自分の生活を支えるので精一杯なのに」
「あはは、結婚は早すぎるよね。でも啓司、体の関係は深くなるのに、将来の約束はできないって、なんかズルくない?」
圭子の鋭い指摘に、啓司は参ったように頭をかいた。
「そう言われると耳が痛いけど……男女関係って、必ずしも『結婚』というゴールに向かって一列に並んでるわけじゃないと思うんだよ。今のお互いを補い合ったり、確かめ合ったりするための関係もある。ただ、それを『責任から逃げてる』と言われたら、反論は難しいかな」
「ふーん。大人になるって、自由が増える分、そういう曖昧な関係のグラデーションに耐えなきゃいけないってこと?」
「そうかもな。高校生の恋愛みたいに『好きだから付き合う』だけで済まなくなるのが、大学生以降のリアリティだよ」
圭子は歩道橋の階段を上りながら、振り返って啓司を見下ろした。
「なるほどね。受験が終わったら、私もその曖昧で面倒くさい世界に行くんだ。楽しみにしとくわよ、啓司お兄さん!」
夕日を背にした圭子の表情は、少しだけ大人の階段に足を踏み入れたような、大人びた不敵さを帯びていた。
歩道橋の頂上で足を止めた圭子は、少し上機嫌な笑みを浮かべたまま、啓司を振り返った。
「じゃあさ、受験が終わったら連れてってよ。夜の倉敷に」
「倉敷? また渋いところ攻めてくるな」
「白壁の町並みがライトアップされて綺麗なんだって。夜の美観地区を二人で散歩して、オシャレな町家に泊まるの。日帰りじゃなくて、一泊でね」
啓司は「一泊か」と苦笑しながらも、どこか嬉しそうに頷いた。
「いいよ。合格祝いにな。夜の倉敷川沿いを歩くのも、なかなか風情があって良さそうだ。約束な」
「やった!めちゃくちゃ楽しみ」
満足そうに微笑んだ圭子は、一歩階段を下りて啓司との目線を合わせた。それでもまだ頭半分ほど高い位置から、ふっと身を乗り出す。
階段の段差を利用した、少し背伸びのような、けれど見下ろすようなアンバランスな身長差のキス。柔らかい唇が重なったあと、離れ際に圭子がいたずらっぽく囁いた。
「大人になっても、ちゃんとエスコートしてよ」
そう言い残すと、彼女は制服の裾を翻して一気に階段を駆け下りていった。啓司は残された唇の感触と缶コーヒーの温もりを確かめながら、遠ざかる後ろ姿をいつまでも目で見送っていた。
「可愛いな。次はエッチしよう」
と彼は呟いた。




