第68話「グレインの撤退」
十一月の半ば、グレインの署名活動が止まった。
理由は、意外なところから来た。
カルセンのミラ代表が、外交文書の中でエレナへの王室特別称号付与を「ヴァルドラの進歩的な取り組み」として公式に言及したのだ。外国の外交官が、エレナの称号を肯定的に評価した——その事実が、国内の反対派の勢いを削いだ。
外国が認めたものを否定することは、外交上の問題になり得る。貴族たちがその計算をすれば、署名活動への参加を躊躇する。
「ミラさんが動いてくれたんですか」
エレナはルシアンに言った。
「事前の調整があった」
「殿下が頼んだんですか」
「私ではない」
ルシアンが少し間を置いた。
「……アグネスが、ミラに連絡を取った。私には知らせずに」
エレナは驚いた。
「アグネスが?」
「ミラが王都を去る前に、アグネスが個人的に会っていたらしい。今の状況を説明して——そういう流れになった」
エレナはしばらく言葉が出なかった。
アグネスが、動いていた。あの厳しくて公正な侍女頭が、自分の判断でエレナを守ろうとした。
「……アグネスさんに、お礼を言わなければ」
「私も言うつもりだ」
エレナはルシアンを見た。
「規則の範囲外のことを、アグネスはしたんですか」
「厳密には。でも——お前を守るためだ。私は咎めるつもりはない」
エレナは少し考えた。
「あなたの周りには、いい人たちがいます」
「そうか?」
「アグネスさん、リーナ、ソーニャ、マリアも——みんな、あなたのことを大切に思っている」
「私よりも、お前を大切にしていると思うが」
「それはあなたへの愛情の形が違うだけです」
ルシアンが少し間を置いた。
「……お前は、なぜそう思える」
「人の好意を、素直に受け取る習慣があるので」
「羨ましいな」
エレナは少し驚いた。
「羨ましい、ですか?」
「私には——そういう受け取り方が、まだ難しい」
「練習できます」
「どうやって」
「私が渡す好意を、全部受け取ればいいだけです」
ルシアンが、エレナを見た。
その目に、少し柔らかいものがあった。
「……そうするか」
「はい、そうしてください」
エレナが笑うと、ルシアンも——少し、笑った。
その笑顔を見て、エレナは胸の中で思った。
戻ってきている。少しずつ、確かに。




