白い結婚は、離婚届までがセットです
「本日をもって、フィオレンティーナ・レエ・スパニエルとの婚約を破棄とする!」
豪華なテーブルを叩く、第一王子の傲慢な声。
静まり返った会場に、彼が広げた「罪状」の紙がパサリと音を立てる。
(あーあ、早く終わってくんないかな……)
私は群衆の端で、他人事のようにその光景を眺めていた。
今日という日のために、何種類ものドレスを新調し、背筋を伸ばすためにあえて高いヒールを選んだ。
「礼儀を欠けばこの世界では生きていけない」……父の厳しい躾が、今でも私の支えだ。
ふと、これまでの日々が脳裏をよぎる。
侍女に任せればいい朝餉を、わざわざ三十分かけて離宮まで取りに行ったこと。
夫が目覚める二時間前に起き、一房の乱れもなく髪を整え、市場で厳選した日替わりの香水を纏うこと。
部屋には、袖を通す機会のない数千のドレスと、封を切っただけの数万の香水が積み上がっている。
これらは、あの日「婚約届」を出した日から、むなしく比例するように増えていった。
正確には、公爵家が遠征に出ていない時、私は一歩も外に出られない。
実家である貧乏伯爵家を立て直す報酬と引き換えに結んだ、「三年間」という期限付きの『白い結婚』。それが私の檻だった。
いつかの茶会で、向けられた視線を思い出す。
あれは同情か、あるいはもっと残酷な、哀れみだったか。
「あの御方には浮気癖があるから、お気をつけなさい」
そう囁いた令嬢が指差した先には、隣国の女公爵リーゼルがいた。
少しの化粧で完成された美貌に、指先で傲慢に光る大粒のダイヤ。……私とは、何もかもが違った。
その時ようやく、点と線がつながった。
どれだけ必死に香水を変えても、髪を整えても、夫が一度として気づかなかった理由。
それは三年前、初夜の寝室。
『俺が、君を愛することはない』
素っ気なく言い放った彼の瞳には、最初から微塵も、私の姿など映っていなかったのだから。
「貴様!どうだ、俺はお前が泣き叫ぶ顔を今日まで待ちわびていたのだ!」
(やっぱり、あのフィオレンティーナって子も、今までと同じなのね……)
群衆の中心で断罪されている彼女は、辺境伯令嬢だと聞いている。
王立学園では領地経営を学び、常に優秀な成績を収めてきた才女。
そんな彼女でさえ、この「婚約破棄」という予定調和な舞台からは逃れられないらしい。
そのすぐ隣。
勝ち誇ったように「オホホホ」と扇子を掲げているのは、公爵令嬢のイザベラだ。
今はまだ高笑いをしているけれど、次の一手は決まっている。
「フィオレンティーナ様が私を虐めたのですわ」と、潤んだ瞳で王子に縋り付くための待機中なのだろう。
見慣れた、反吐が出るほど滑稽な光景。
(この調子じゃ、昼の鐘がなってしまうわね)
そう思った、その時。
「ふっふっふっ、貴様のその絶望に染まった顔が……!」
王子が悦に入り、勝ち誇った笑みを浮かべた瞬間。
フィオレンティーナ様が、まるで「今日の天気は晴れですね」とでも言うような軽やかさで言葉を被せた。
『快諾しました』
「はっ? ……いや、婚約破棄だぞ? そして、俺は今からこの愛らしいイザベラと結婚……」
「ええ、どうぞご自由に。それでは、私は次の仕事が詰まっていて忙しいので。」
流れるような動作でカーテシーを済ませ、出口へ向かおうとする彼女。
あまりの展開の速さに、王子の顔がみるみるうちに引き攣っていく。
「待て! そ、そうだっ! 貴様は罪人なのだ、国外追放だぞ! こ・く・が・い・つ・い・ほう!」
「そのつもりです。領地経営のノウハウはすべて頭に入っておりますし、隣国からは既にヘッドハンティングの打診をいただいておりますので」
「おい! ちょっと待て! イザベラ! 何とか言ったらど・う・なん・だ!」
助けを求められた公爵令嬢はといえば、フィオレンティーナが持っていたはずの「利権」や「王太子の執務代行」という重荷がすべて自分に回ってくることに気づいたのか、あるいは単に王子の余裕のなさに引いたのか。
「は? 急になんですの。とにかく、新婚旅行はどこにしますの? 私、豪華客船でなければ嫌ですわ!」
「待て! ちょま! ま・じ・で……!?」
(ふっ……)
その瞬間、私の中の何かが切れた。
◆
公爵家の一室。
私は迷わず、一番大きなトランクを引きずり出す。
「奥様!? いったい、何を……何をしておられるのですか!?」
血相を変えて飛び込んできたのは、古参の侍女であるリンだ。
彼女は、私が狂ったように棚から香水の小瓶を掴み、トランクへ放り込む姿を見て、震え声で問いかける。
「リン、ちょうどいいわ。手伝って」
「手伝うって……これ、市場で一番高い新作の香水じゃありませんか! まだ封も切っていないのに!」
「そうよ。だから高く売れるわ。いい? 質屋と、それから馴染みの商人を今すぐここに呼びなさい。一時間以内に」
私はドレスの山から、一番動きやすくて、かつ一番換金率の高そうな宝石付きの夜会服をひっ掴んだ。
「離婚届に判押してあるから。 旦那が戦地から帰ってくる前に逃げるわ」
「奥様……正気ですか!? 旦那様に知れたら……」
「知れたら? 愛していない女が何をしようが、あの人は興味なんてないから。」
窓の外では、昼の鐘がゴーン、ゴーンと鳴り響いている。




