明日への祝福
数年前、久しぶりに骨髄検査を受けた時、医者から教えてもらったことがある。
人は歳をとるにつれ衰えていく。
それは、痛覚にも言えることなのだと。
若い頃に比べたら、今の方が、骨に穴を開けるこの検査も痛くないはずだよ、と。
痛がりで怖がりの私を落ち着けるための言葉だったのかもしれない。
その時に受けた骨髄検査はやっぱり痛くて、麻酔が切れた後は半べそになったけれど、それでもそう聞いていたからか、二十代に入院して受けた時に比べれば幾分かマシだったような気もする。
気がしただけかもしれないが。
歳を重ねる毎に、出来ないことが増えていく。
ごく普通の人でもこの感覚はあるだろう。
人生の諸先輩方からしたら、私の感覚など、まだまだ笑ってしまう程度かもしれない。
ただ、そうと思っても、この数年は急激に出来ないことが増えた。
以前は一万歩ぐらいなら歩けていたのに、今は八千歩が限界だし、日よっては自宅の階段を上るのにすら息が上がる。
大好きだった手芸も手があっという間に疲れてしまうため、あまり多くは出来なくなった。
子どもの頃から吹いていた楽器も30分も吹いたら、その後4日も筋肉痛に悩まされた。
普段の生活でも、腕に少し重めのバッグを掛ければ痣になることも増えたし、瓶や缶詰が自分で開けられないことも増えた。
それが寂しく感じる時も、もちろんあったし、なんなら今も少し寂しい。
仕方ないから、今の限界を探りながら少しずつ試してみる。
どこまでならまだ出来る?
そうしながら振り返った時に、ふと気が付いたのだ。
衰えることもまた、祝福なのだと。
一気にすべてを失うのではなく、一つずつ気持ちを整理しながら手放していく。
衰え、少しずつ出来なくなることによって、死への準備時間をもらっていたのだ。
人は誰でもいつかは死ぬ。
眠るように逝ければ御の字だが、今の世の中、純粋な老衰で亡くなる人の方が少なそうだ。
最期の時、痛い、苦しいと思いながら逝くのだと思いながら生きるのは、怖い。
段々と衰えて五感も鈍り、出来ないことが増えていくのは、自分の死を受け入れるための準備なのだとしたら、なんとありがたいことなのだろう。
ゆっくり、ゆっくりと、今の自分を受け入れて、残していくもの、手放すものを選んでいく。
終焉に向かって、自分も周りも気持ちの準備をしていく。
いきなりすべてを失ってしまうのでは、そのショックで自暴自棄になってしまうかもしれない。
でも、少しずつならば、仕方ないねと苦笑しながら、他に目を向けることもできよう。
衰えとは、そのためにあるのだとしたら、とてつもない祝福なのではないだろうか。
まだ八千歩歩けるのなら、元気な時には出掛けよう。階段はのぼった後にちょっと息を整えてから何かをしたらいい。
疲れてしまってもまだ動くのだからやりたい時には少しずつ手芸もしよう。
ロングトーン出来なくても自宅で吹く分には困らない。20分あれば娘と簡単な合奏はできる。
バッグはやめて肩ひもの柔らかなリュックにし、荷物も減らそう。
瓶や缶は、娘のお手伝いのきっかけに使えばいい。
……ほら、まだ、大丈夫。笑いながら生きていける。
いつか、終わりが来た時には、笑顔で逝こう。
ゆっくり衰えていくこの体に貰った猶予。この祝福を抱いて。
私は今日も、生きていく。
明日の検査通院、嫌だなー、悪い結果が出ないと良いなーなんて苦笑しながら書いていました。