キスをしよう
朝、目を覚ますと手を伸ばす。
触れられる位置にある、確かな温もり。
微睡んだまますり寄れば、抱き寄せられて安堵する。
おはようのキスをしよう。
ごく当たり前に一瞬重なる唇に、自分の居場所を確かめる。
結婚して二十年以上。
挨拶のキスをする夫婦は、どれぐらいいるのだろう。
知人たちによくからかわれるが、うちは夫婦仲がいい。
……と言っても、日頃から好きだの愛してるだのと言っているわけでもなく、ただ、ごく自然に一緒に居る。色気も甘ったるさも何もなく挨拶としてキスやハグをする。
まるで欧米のようだと言われるかもしれない。でも、海外ドラマにあるような、あんな甘さもないのだ。
おはようと、いってらっしゃい、おかえりなさいに、おやすみ。
互いに相手を確認して安心する。そんな、挨拶。
それは、多分、そうできる今が尊いものだとお互いに知っているから。
旦那の仕事は、激務だ。
時間拘束的にはもっと上はいっぱいいるだろう。
でも、あのストレスフルな立場の仕事は、私の知っているどんなの仕事よりも過酷だ。
たくさんの、本当にたくさんの部下を背負い、日々重圧に耐えながら働いている。
酷く憔悴した顔で帰ってくるのを見たりすると、いつか倒れて帰ってこなくなるのではと思ってしまうのだ。
夜中、ふと目が覚めた時にはつい耳を澄ましてしまう。
つい目を凝らしてしまう。
ちゃんと呼吸はしているか、苦しそうではないか、確かめてしまうのだ。
対して私の方は、日々自宅で養生しているわけだけど、医者に好き勝手言われている体だ。
特にこの数年でがくっと体力が落ちた。
流石にそろそろ迎えが来るのかもしれない。
それも仕方がないかな、と思うぐらいには予想よりずっとずっと長く生きた。
そんなだから、朝は互いに確認してしまう。
今日の相手の様子はどうだろうか、熱は出ていないか、苦しそうではないか、頭痛は大丈夫?
触れて、温かいことを確認し、反応で体調を確認する。
そうして、キスをする。
ただ掠めるだけのキスで、今日も二人生きているね、と、そんな当たり前のようで当たり前ではない今を確かめる。
そんなことをしていると、子供部屋から娘がおはようと寝室に走り込んでくる。
そうして、親子三人でぎゅうっと抱き合ってから、それぞれに動き出す。
旦那は仕事に、娘は学校に行く準備をはじめ、バタバタと忙しない一日が始まる。
放っておくとのんびりしてしまう娘を急かし、注意していないとするっといつの間にか出掛けてしまう旦那を玄関で呼び止めてキスをする。
どんなに疲れても、ちゃんとここに帰ってきて、そんな願掛けをして送り出す。
人は、本能で自分以外の温もりを欲してしまう生き物なのだと思う。
家族は、触れることを許される大事な存在。
共に生きると決めた伴侶は、ただそれだけで特別なものなのだろう。
唯一、唇を許し、そして許してくれる相手。
そんな相手がいてくれたからこそ、私はこの歳まで永らえることができたのかもしれない。
明日も、おはようのキスをしよう。
明後日も、その次の日も、更にその次の日も。
お互いが生きている限り、当たり前のように。
あぁ、今日も一緒だね、隣にいてくれてありがとう、と感謝を込めて。
そして、そんな日がこの先も続いていくよう、祈りも込めて。
私たちを見て育つ娘も、いつかキスする相手を見つけるのかもしれない。
そんな日まであと何年。
願わくば、その日までキスの力で永らえたいと思ってしまうのだ。