繋ぎとめる言葉
旦那と付き合いだして、今日で三十年みたいです。
「好きに生きてごらん。俺が見届けるから」
もう何十年も前に貰った、旦那から私へのプロポーズの言葉だ。
今となっては、本当にプロポーズがその言葉だったっけ? 微妙にもうちょっと違ったっけ? と、なるような曖昧な記憶ではあるが、それでもその言葉があったから今も一緒に居る。
ちょうど三十年前のある日、私は学校の授業でバレーボールをしていた。
小さな頃から運動は得意ではなかったが、球技は比較的マシだった。
走ったり飛んだり出来なくても、予測とコントロールで多少なりとも補えるからだ。
バレーボールもスパイクは出来なくても、レシーブは出来る、そんな感じで割と好きなスポーツだった。
楽しく授業を受け、自分の試合が終わった後、体育の教官に呼ばれた。
「どうしました?」
「ちょっと、その手、見せて。腕!!」
言われるままにジャージをめくり、腕を出す。
そこには自分では見慣れた、肘から先。赤と紫の大量の小さな痣。レシーブに耐えられなかった私の腕は両腕共にふつふつと粒状に肘から下ほぼ全部が内出血していた。
びっくりした教官はその場で私に保健室に行くように言い、私はそう言われた事にびっくりした。
自分自身ではごく当たり前のことだったから。
そこからは、あれよあれよという間だった。
保健室の看護師さんから、まずは掛かり付けで良いから見てもらうようにと手紙を渡され、親に話して地元の内科医へ。そこから町医者では手に負えないと大病院の紹介状が出て。
当時、都内にも血液内科は三つの病院にしかないと言われたのを覚えている。
その中で、掛かり付け医に繋がりがあった都心の病院に行くことになった。
大病院では年配の先生が診てくれた。当時は血液内科の医師は本当に少なかったから、あの病院には血液内科はその先生しかいなかったのかもしれない。
何本も採血して数日後に検査結果を聞きに行ったその場で、意味も分からないまま胸骨から骨髄検査を受けた。
ごく普通の処置室のベッドで寝ていたら、重たい氷嚢みたいなので胸部を痛くなるほど冷やされて、混乱しているうちに胸に穴が開いた。
麻酔をしてのことだったと思うけれど、詳しい事はもう覚えていない。
日帰りだったからそのまま帰されて、しかも当時吹奏楽バカだった私は帰宅せずに学校に戻り楽器を吹いて、骨に穴をあけた鈍く重い痛みに泣きそうになった。
どん底に落とされたのは、その骨髄検査の結果を聞いた時。
あれだけ痛い思いをしたのに、医者はよく分からなかったと。
しかもその言葉には続きがあった。
「なぜ、動けているのか分からない。いつ急変して死んでもおかしくない」
今思えば、あの先生も本当に分からなかったのだろう。
あれから三十年経ち血液内科も増えた今でも、私の症状は病名も付けられず、原因の特定も、治療もできていないのだから。
とはいえ、その言葉は多感なティーンエイジャーには非常に重く苦しいもので、おそらくその時に、私は今の私に 固定されたのだろうと思う。
その後の私は自暴自棄になるかと言えば、表立ってはそうでもなく。
多分そこは、厳格な父のおかげだったのかもしれない。
母校もそこそこ良い成績で卒業し、氷河期世代だというのに母校の伝手で大手にも入社した。数値解析系に進みたいと駄々をこねたおかげで、某研究所で解析用のプログラムを組んだりしていた。
繁忙期は終電を気にする必要があったが、それ以外は定時上りも出来、良い職場だったと思う。
勤務後に市民吹奏楽団の練習に参加したり、休日にはパラグライダーまでしていた。
傍目には間違いなく充実していた方だろう。
学生時代に付き合いだした彼氏との関係も良く、二十代をしっかり謳歌していたように見えたはずだ。
医者からは定期的に検査を受けるように言われたが、治療はなかった。危ういバランスを崩せないと言われて、手を出せなかったのだ。
検査に行く自分をカッコいいと錯覚しながら、私は病院に行くたびに自分の生きる意味を自分に問うていたし、いつこの生を終えても良いようにと考えるようになっていた。
やりたいことは、今やらねば。一年後はないかもしれない。
仕事も趣味も全力でやろう、いなくなった時に、あれ?いない?じゃなくて、惜しい人を亡くしたって言われるように。
育ててくれた親が死んだ後も自慢できるぐらい、居なくなった時に実感できるように。
この持病が遺伝したら困るから子供は作ったらダメよね。こんなつらいのは私一人でいい。
……あれ、それなのに私は彼氏と付き合っていていいの……?
二十代前半は、めちゃくちゃだった。
表向きはしっかり充実していたのに、夜は一人暮らしのキッチンで包丁眺めて何時間も過ごした。
夜中に当時彼氏だった旦那に電話し、泣いて無理に呼び出した事も一度や二度じゃない。
生きている意味が欲しかった。
生きていていい理由が欲しかった。
どうしていいか分からないまま、ずっと声のない悲鳴を上げていた。
こわい、こわい、誰か、助けて。どうして、なんで? 頑張っても無駄なの?
いつ終わってしまうの? ならいっそ今終わらせた方がいい? こわい、どうしたらいい?
助けてくれたのは、旦那だった。
周りが「十代のうちに初体験してみたい」とか言っている中、「嫌だよ、キスも結婚式までとっておいきたい、本当の意味でバージンロードを歩くのが夢」なんて言っていた、夢見がちな少女だった私。
十代の最後に成り行きでお付き合いをはじめ、半年ぐらいした頃にキスをした。
冗談で言った「キスしたんだから責任取ってね」って言葉を律義に守って、めんどくさい私を大事に守るようにずっと隣にいた。
二十代半ば、進学して院まで行った旦那が就職する少し前にくれたのが、冒頭の言葉だ。
「好きに生きてごらん。俺が見届けるから」
最期の時は手を繋ごう。怖がりな私が安心して逝けるように。
絶対俺が看取るから。先には逝かないから。
この先の人生一緒に歩いて、思うままに生きたその生き様を見せて。
確か、「自分は子どもを産めないから、これ以上縛れない、別れよう」と告げた後だった。
そうしたら、こんな殺し文句がきてしまったのだ。
あぁ、この人は私の弱さも含めて受け止めてくれようというのか、ボロボロになろうとも一緒に歩いてくれるというのか。
旦那が就職した年、私は結婚指輪を左手の薬指にはめた。
いつ逝くことになるのだとしても、かならず看取って貰える。
それはものすごく大きな安らぎを私に齎してくれた。
なら、この人が一緒に居られてよかったって言ってくれるようなそんな人生を歩もう。
この人のくれた言葉に恥じない自分でいよう。
何の因果か、そこから二十年以上経った今も、のらりくらりと生き長らえている。
あちこちガタは来ているが、日に数時間なら健常者のフリもできる。
流石にバレーボールはあれ以来一度もボールにすら触っていないけれども。
病院はあれから二回変わった。
誰でも知っているような大学病院に通っていた頃もあった。
そこでも匙を投げられて、今は近くの総合病院にお世話になっている。
相変わらず治療はほぼ無し。ひたすらに経過観察と対処療法だけ。一度は病名もついたけれど、それも誤診だったと言われ、今も原因は分からない。
病院が変わるたび、担当医が変わるたびにいろんなことを言われた。多分、あちらも困惑していたり、私に気を付けるようにという意味合いだったのかもしれない。
三十代半ばで不妊治療をした時など、自殺願望でもあるのかと叱られた。
バランスが崩れたら三日持たないで死ぬぞって脅されもした。
……その割に、今も生きてる。どうやら、運動の苦手な私だけどバランス取りは得意だったらしい。
今でも振り返った時に思う。
きっとあの時、あの言葉を旦那に言われていなかったら、今の私はなかっただろう。
相変わらず、私は自分の生に意味を探してしまうけれど、それでも、最期の時には手を握り、頑張ったねと言ってくれる人が居る。
あの言葉が、今日も私をこの世に繋ぎとめてくれている。
単なる自己陶酔みたいな文になってしまいました(苦笑)