鯛の尾頭と野菜のスープ
なんてことはない、日常の記録。
私は、料理をするのが好きだ。
それも、細々と手のかかっていながら、言わねばそうと知られぬような、そんな料理が。
昨夜の我が家は手巻き寿司だった。
数日前だった義母の誕生日祝いで、分かれて暮らしている家族も集まっての夕餉だ。
時々行く、大きなお魚屋さんで買ったお刺身のセットは活け造り。いや、お店で食べたわけではなく店頭販売品だから活き締めはしていそうだけど、立派な尾頭付き。
我が家は旦那と私の意向から、時々姿の分かる食材を選んで買う。
十歳になる娘の情操教育のためと、自分たち自身が日々何を食べて生きているかを忘れずにいたいから。
綺麗に盛られた料理の、残りの食材はどうなるのだろう。
そんな風に考えるようになったのは、大人になってからだった。
自分で台所に立つようになってから、かもしれない。
とっておいた鯛の尾頭を、流水でしっかり洗う。
刺身のツマが付いていたりするから、手でなぞるようにして丁寧に。
そうしている間に、火をかけていた鍋で湯が沸いてくれる。
鍋の中で入れておいた昆布が踊っている。
ぽこぽこと煮立っている鍋の湯に、とぽとぽと酒を注ぎ、そこにそうっと鯛の尾頭を入れてやる。
鱗もとっていない皮は、茹でられて鮮やかな赤へと変わっていく。
切り口から剥がれた鱗が、水面で踊っている。
透明な小さな鱗は食べる時は邪魔だけど、こうやって見る分にはとても綺麗だ。
鍋だけ見ていては料理が進まないから、尾頭を煮ているうちにジャガイモの皮を剥き、キャベツと一緒に食べやすいサイズに切っておく。
まな板にて暫くお待ちいただいて、また鍋に戻る。
そろそろ良さそうだ。
用意しておいたボウルにザルを置いて、鍋の中身をあける。
ふわっと立ち上る湯気は、しっかりと美味しい香りを含んでいて。
私はそれを嗅ぐと、ちょっと嬉しくなってしまう。
煮汁を鍋に戻し、火にかけて、野菜を煮始める。
義母は歯が悪くなってしまって、ここ数年は食べる時に痛んでいる事も多いようだから、ジャガイモもキャベツもほろほろくったりになるまで、時間をかけて煮込むのだ。
その間に、ざるで待っている尾頭と向き合う。
まだ湯気の立っているそれを、そうっと手で持ち上げて丁寧に鱗と皮を外し、骨から身だけをとってボウルによけていく。
鯛の骨は硬いから一本も残さない。
時間はかかるけれど、手でちまちまとほぐしていく……
なんとなく、この地道で静かな時間が好きなのだ。
料理をすることは、祈ることに似ていると思う。
食べてくれる人が、元気でありますように。
美味しいって笑ってくれますように。
すくすくと育ってくれますように。
そして、
魚や他の生きもの達の命が無駄にならず、私たちの命に無事繋がりますように。
まるで静かな火葬場で家族の骨を拾う時にも少し似た、ちょっとしんみりした気持ちで魚にありがとうと思う。手を合わせる代わりに丁寧に、食べられるところを拾っていく。
ほぐした鯛の身を鍋に戻し、塩で味を調えればスープの出来上がりだ。
なんとなく入れ忘れていたから、食べる時に刻んだ生姜を足してもいいかもしれない。
食卓に並べたら、家族はどんな顔でたべてくれるだろう。
美味しいと言ってくれたら嬉しいなと思う。
今の日本では、手を掛けずとも食べられる物はたくさん売っている。
お刺身に尾頭がついていても、そこも調理しようなんて人はそんなに多くないかもしれない。
昔の私もそうだった。こんな風に魚と向き合って料理するようになったのは、割と最近だ。
手間をかけても気づかれず、コストパフォーマンスで言ったらとても悪い。
それでも思うのだ。
今の自分になれて良かった、と。
いつもなら小説の番外でお話に仕立てて書いたりするのですが、なんとなくそのままの視点を残してみたくなって。
単なる自己満足。でも、私の見えている世界はこんな感じ。
多分、数日おいたらまた非公開にします。