灰の中から希望を掴む
1. 静かな崩壊
午前3時。蛍光灯の下、無機質なキーボードの音だけが響く。
佐伯翔は、資料の山に埋もれた自分の指先をじっと見つめていた。
「明日の朝までに仕上げてくれよ、佐伯くん」
上司の軽い声が、頭の奥で反響する。
眠気も、怒りも、すでに越えていた。ただ「はい」と答えて、椅子に沈み込む。
いつからだろう。
休みは月に1日。残業は月200時間を超える。
同僚は一人、また一人と辞めていった。
だけど翔だけは残った。「辞めたら逃げだ」と言い聞かせながら。
そして、ある日。
「……辞めたい、って言ったらさ、あの人、笑ったんだよ」
昼休み、屋上でそうつぶやいた同期の山田は、翌週にはいなくなっていた。
翔はただ笑えなかった。
「なんのために、こんなことしてるんだっけ……」
答えは、返ってこなかった。
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2. 焦げついた心
体調を崩したのは、梅雨入りのころだった。
朝、起きられなくなった。胃が痛い。頭も重い。足が動かない。
医者に「適応障害」と診断されたとき、翔はようやく、自分が壊れていることに気づいた。
でも、会社には「風邪」と伝えた。
そんなとき、ふと思い出したのは、中学のとき夢中になったギターの音だった。
あのころ、学校でつらいことがあっても、帰ってギターを弾いていれば、少しだけ自分に戻れた。
埃をかぶったままのケースを開けて、恐る恐る弾いてみる。
錆びた弦が、ぎこちなく音を返す。
でも――心の奥が、ふっと温かくなった。
「こんな感覚、久しぶりだな……」
その日から、翔は毎日少しずつギターを弾いた。
うまく弾けない。でも、それでいいと思えた。
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3. 灰の中に、灯る火
会社には「辞職願」を出した。何も言わずに、受理された。
空っぽになった心に、ぽつぽつと日差しが差し込んでくる。
翔は、アルバイトをしながら、地元の小さな音楽教室でギターを教えるようになった。
生徒は、小学生の女の子や、定年後に始めたおじさん。
「先生、今日もあの曲教えて!」
笑顔に囲まれながら、翔は自分の声を取り戻していった。
「ありがとう、音楽。ありがとう、あのときの俺」
過去は変えられない。
でも、今の自分は、自分で選べる。
それが、何より自由なことなのだと気づいた。
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4. 再び、光へ
数年後。
翔は、地域のイベントでバンド演奏を披露していた。
ステージの上で見えたのは、笑顔の人々。そして、自分もまたその一人だった。
「生きててよかったな」
そう、心から思えた。
壊れた日々も、無駄じゃなかった。
灰の中から、自分の灯を見つけたから。
そして、翔はまた今日も、自分の人生を奏でていく。