恥ずかしさという名の段差を踏み越えて
「抱いた大望 湧き上がる情景 その傍らで現実が問う それを為すに足る資格の有無を 目前の現実を見据え 大きく息を吸い込む 資格とは いつか人が通り過ぎる現実にすぎない」
人は大なり小なり欲と願いを持っている。この世界を歩く中で欲とは人が生きる原動力であり、願いとは人生という道を歩くための希望でもある。満たされない欲が多ければ多いほど人は求め、願いが遠ければ遠いほど人は現実と理想の間でもがくことになる。
あなたはこのような経験をしたことはないだろうか。百点満点のテストで六十点をとろうとした。苦手な科目で普段は避けていたが、一意専心して取り組んだ結果、六十点を超えることが出来た。喜んでいたあなただったが、次は同じ難易度のテストで百点をとる必要に迫られた。六十点をとることと百点をとること。点数をとるという意味では同じではあるが、目標とする理想への道のりは遥かに遠く見える。
なぜこのようなことが起きるのか。点数をとるために勉強をする。理想を達成するために必要なことはこれだけだ。何か特別なことを要求されたわけでもない。しかし、ただ一つ変わったものがある。それが理想に対する認識。理想とは高くそびえたった山のようなもの。同じ人たちに数十メートルの丘と数千メートルの山を見せたとする。当然、返ってくる反応は全く異なったものとなる。山が大きくなればなるほど人はそれを自分が登る山だと認識できなくなる。
ここで間違えて欲しくないことは高い山を否定しているわけではないということ。高い山は人にとって過酷なものだ。だが、過酷なだけのものではない。高い山を登る過程、山の上から見る景色、その先に広がる世界、その全てが瑞々しく私たちの世界を広げてくれる。得るものの中には良いものも悪いものもたくさんある。その全てがあなたを幸せにするとは限らない。中には、あなたを傷つけるようなものもあるだろう。しかし、その全てが山を見上げたことによってあなたが手に入れたもの。これは移り変わりやすいこの世界において信じることができる一つの事実でもある。
人は生きるなかで目を伏せることを学ぶ。目を伏せることによって人はこの世界を生きている。目を伏せるという機能は誰もが持ち得るもので、私たちは日常的にこの機能を活用して生きている。それでも人は、山に出会ってしまうことがある。山は私たちに問いかける。いや、山が私たちに問いかけるわけではない。私たちが私たち自身に問いかけることになる。心の中は大荒れだ。それでも求められている問いはシンプルなもので。向かうか向かわないか。大きな葛藤の前に突き出された問いかけは残酷なほど簡潔だ。
ひとつの山に出会ったからといって必ずしもその山に向かう必要があるわけではない。山とは無数にあるものだ。だからこそ、人は選択をする必要がある。自分が登りたいと思う山を見つけるために。山が放つ引力を振り切るために。目を伏せるということは、それを選択しないということ。その行為は無意識にせよ、能動的にせよ、その人の魂に根付いたものだ。目を伏せることによって人は本当に大切なものを識別することができる。目を伏せたうえでそれでも瞼の裏から輝きが離れないもの。振り切ろうとしても足がその方角へ向かってしまうもの。それこそがあなたが登るべき山かもしれない。
多くの鉱脈と切り立った山々が乱立するこの世界で懸命に生きるあなたに敬意を。あなたが歩むこの世界にあなたを満たす山がありますように。目に映った山があなたの世界に色をもたらしてくれますように。今日もあなたという色が、世界を確かに彩っている。




