誰も勝たない世界に、静かな愛を
「もし本当に“勝利”があるのだとしたら、どうして涙は止まらないのだろう。
輝きはなぜ、あんなにも簡単に手のひらからこぼれ落ちてしまうのか。
どれだけ戦い抜いても、なぜ魂の渇きは癒えないのか。
――本当の勝利は、外の世界ではなく、自分の内側にずっとあったはずなのに。」
最初に「勝利」とは何かを見つめてみよう。
それは、誰かに勝つことかもしれない。莫大な利益を手にすることかもしれない。
好きな人に想いが届くこと、大会で結果を残すこと、
あるいは、試験で好成績をおさめ、誰もが羨む場所へと進み、名声や地位を得ること。
これらのいずれも、立派で尊い勝利だ。間違いではないし、それぞれに確かな価値がある。
けれど、多くの人がその勝利を追い求めていくなかで、
心の奥底に違和感や、満たされない感情を抱え始める。
勝ったはずなのに、喜びが続かない。
報酬を得たはずなのに、渇きが深くなる。
想いが叶ったはずなのに、心にぽっかりと空いた空洞だけが大きくなっていく。
勝ち取ったはずの優勝が、次には「守るべきプレッシャー」に変わっていく。
高みへと上り詰めたのに、周囲との距離が広がり、孤独だけが募っていく。
いったい、なぜこんなことが起きるのだろう。
勝利は光であり、称賛は絶対だと信じてきた。
他者よりも優れていることは、社会で生きていくうえで最も価値あることだと教えられてきた。
それは決して間違っていない。
競争のなかで努力し、結果を出し続けた人の誇りは、誰にも否定できない。
だが、もし心が苦しいと感じているのなら、
それは「他者に勝つこと」こそが、自分の存在価値だと信じてきたからかもしれない。
周囲の期待に応えることが、生きる活力になっていたのかもしれない。
いつの間にか、勝利の意味が「他者との関係」によってしか成り立たなくなっていた。
もし勝利に、他者の存在が不可欠だとしたら――
それは、永遠に「比較」と隣り合わせで生きるということになる。
比較は、自分以外の存在がいる限り、常に発生する。
極端にいえば、寿命を迎える老人ですら、生まれたばかりの赤子と比較の対象になり得る。
例外はない。
この世界には、たったひとつの冷たい線が引かれてしまう。
「自分」と「それ以外」という、冷徹な境界線が。
その線こそが、あなたを蝕む正体だ。
では、視点を少し変えて、勝利のあり方を見直してみよう。
「勝つこと」に、他者は本当に必要だろうか?
たとえば、筋トレをして理想の身体を目指す人がいる。
目標とする姿を思い描き、それに向かって努力を積み重ねていく。
その過程は、過去の自分と、目指す自分との対話だ。
たとえ誰かの体型を参考にしたとしても、
最終的には「自分自身との戦い」になる。
つまり、本当の勝利とは、
他者との比較のなかで勝ち取るものではなく、
自分自身が掲げた理想に向かって努力し、そこに到達できたと感じる瞬間なのではないだろうか。
それこそが、あなたの苦しみを癒す、唯一の勝利のかたちだと私は思う。
そもそも、他者と競争することに価値を感じられるあなたは、
それだけ他人を深く見つめ、気にかけられる人なのだ。
そんな優しさを持つあなたが、
勝利の定義を狭め、他者との間に境界線を引いてしまい、
孤独に苛まれてしまうことは――この世界にとって、ひとつの悲劇だ。
だからこそ、今日も歩き続けるあなたに、心からの敬意を。
たとえ自分をうまく認められなかったとしても。
どれだけ葛藤にまみれていたとしても。
それは、確かにあなたが生きてきた証だ。
比べなくても、
張り合わなくても、
あなたが、あなたであるというだけで、
この世界には、ひとつの静かな愛が灯っている。
そのことに、どうか、深い敬意を。