07_鏡の中の天宮さん
シャワーを浴び終え、私はひょこひょこと足を引きながらバスルームを出る。そしていつものように洗面台に手をつき、大きく息をひとつついた。
どうにかこうにか、自分の面倒を自分で見ることができるくらいに体は回復した。
つい先月まで付いていた介護役から解放され、私の精神はやっと落ち着いたといえる。
もっとも、落ち着いたといっても、いまでも絶望と苛立ちは心の奥底でチリチリと燻ったままだ。
俯いていた頭を上げる。
正面に見える、鏡に映る自分の顔。
醜く変わり果ててしまった己の顔。
財力はある。顔面の再建手術を受ければ、多少はマシな状態にはなるだろう。そう、多少は。
たとえ現代の整形手術の技術が素晴らしいものであったとしても、ここまで破壊された顔を元通りに、寸分たがわず修復することは不可能だ。いや、たとえ見てくれだけを治すことができたとしても、そこまでだ。
表情をかつてのように魅せることなどできやしない。心の有り様を貌にだすことは、もはや不可能な事なのだ。当然、失明した右目については言わずもがなだ。
女優として大成し、そしてここから女優としての本領の時期。年齢も三十路にさしかかり、まさに役者として脂がのりはじめた矢先に――
ストーカーによる襲撃。
話には聞いていた。命を落とした女優がいることも知っている。でも自身に起きるとは思ってもいなかった。
よりにもよってひとりでいる時に。いや、ひとりでいたからこそなのだろう。
命を存えたことを神に感謝すべきなのだろう。
ストーカーは……犯人はショットガンを2発私に撃ち込み、その後、その凶器で自害した。
私は銃声を聞きつけた近所の住人が通報したことで、命は助かった。
だが、女優としての命は失った。
顔面を掠めた散弾は私の右半面を削り、右腰に直撃したそれは、私の歩行能力に障害を残した。
涙が零れる。
毎夜毎夜、同じことの繰り返し。だが、鏡を見るたびに叩き割っていた昨年に比べれば、マシになったといえる。
いや、それだけ諦観に支配されたのだといえよう。
ため息交じりに再び鏡に視線を向ける。
白いパーカー。ポケットに突っ込まれた両手。フードを被った俯いた顏。
――私の背後に誰かいる!?
慌てて振り向く。だがそこにみえるのは白い壁だけ。
鏡に視線を戻す。
フードを払い、鏡の中の人物が顔を上げる。癖のある黒髪の少女。東洋系の美しい少女だ。
都市伝説の白面の殺人鬼と違うことに安堵するも、なにも安心できるものではないと自覚する。
恐怖に口元が引き攣れる。それに合わせ、僅かな痛みが走る。
その場を逃げようとするも、体が動かない。
あまりのことに涙がボロボロと零れだした。
私がなにをしたというのか。なんでこんなことばかり――
鏡に映る、私の背後にいる少女が泣き出しそうな表情を浮かべた。
《あー……その、申し訳ない。怖がらせるつもりはないんだ。ちょっと取引をしたいだけだ。それで話を聞いてもらうために、少しばかり金縛りにあってもらってるのだが――どうにか落ち着いて貰えないだろうか?》
――彼女はなんと云った?
……。
……。
……。
……。
……。
《おねーさーん。大丈夫? ……あれ? 英語で問題なんだよね? というか、私、喋れてる? あ、問題ない。OK、ありがとオペちゃん》
……日本語?
「あ、あなたは、誰?」
戦きながらも、私は問うた。よかった、喋ることはできる。
《あー。怖がらせてしまったようですまない。申し訳ないんだが、今しばらくそのままで我慢してくれ。いや、美人の全裸とか、私にとっては眼福でしかないんだが、そっちは不本意だな。うむ。だからとっとと本題に入るとしよう》
え、美人? 眼福? こんな酷いことになってしまった顔が? 体が?
《さぁ、ビジネスの話をしよう》
鏡の少女が急に厳しい顔つきになった。
《私は身分がほしい。いわゆる、国籍とか市民権とか、そういうやつだ。だから、そういった方面に力のある人物を探していた。正確には、そういったことができる人物にコネを持つ、弱っている人物を。
そして、あなたをみつけた》
彼女は言葉を切り、真剣に私を見つめる。
私は、身じろぎも出来ず、ただ、彼女を見つめるしかできない。
《そこで取引だ。私はあなたのその“傷”を跡形もなく“元通り”にできる。いいかな? “治す”でもなく“ごまかす”でもなく、“元通り”に。あぁ、でもちょっと変わるか。ホクロなどは消えるやもしれないが、それは些細な事だ。そうだろう?
で、だ。その対価として、あなたの身内の“彼”に取り次いでほしい。
“彼”と、彼の“家族”を、あなた同様に救える手段があると云ってね》
私は彼女がなにをいっているのか理解できなかった。いや、分かりはした。でもそんなことは有り得ない。だから私は再建手術もせず、この醜いままでいたのだ!
だけど――
《ねぇ、騙されてみる気はないかい? 対価は後払いで結構。嘘だったら悪い夢だったと思えばいい。真実だったら儲けものだろう? 対価はあなたの身内とのコネクション。まぁ、できればちょっぴりお金も欲しいなぁ、とは思うがね》
そういうと彼女は私の背に覆いかぶさるように左手を肩に回し、そして右手を伸ばす。
視線を左肩に向ける。そこには鏡に写るように掛けられた手などありはしない。
そして驚くことに、鏡から伸ばされた右手が出てきた。その手に持っている小さな三角フラスコが洗面台に置かれた。コルク栓のしめられた三角フラスコは、なんだか妙にシュールに感じる。
三角フラスコに溜められている液体は、まるでゾンビ・カクテルのような赤い色。グラナデン・シロップのような赤い色をしていた。
《内容量は180cc。150ccもあれば十分効果は発揮する。毒と疑うならば、少しばかりを適当な動物なり、魚にでも使って安全を確認するといい。
服用の上での注意は、ベッドの上とか、意識を失っても問題ないところで服用すること。体の復元にはかなりの激痛が伴う仕様なんだ。故に、精神に問題をきたさないように、服用直後は意識を失う。だから倒れても大丈夫な状況で飲むといい。あと、目が覚めたらとんでもなくお腹が空いているだろうから、高カロリーの食べ物も用意しておくこと。それだけカロリーだのを使うからな。できるなら、ハムを丸ごと一本とか準備して置くと良い。血肉も足りなくなるだろうから。いいかい?》
私は小さな三角フラスコと彼女を順に見つめ、何度も頷いた。
《それじゃ、連絡用としてこの子を置いていこう。対価を払う気になったら話しかけてくれ。そうすれば近くの鏡に私が行く。踏み倒すならそれでもいい。その時は、いまの状態に戻すだけだ。ただ、そうなった時と同じ痛みを伴うことになるわけだが、それは対価を踏み倒した罰、ということで甘んじて受けてもらう。いいね?》
三角フラスコに次いで、まるでカタカケフウチョウやウロコフウチョウのように、闇で塗り固めたような足の生えが球体が鏡から出てきた。
《その子はウチの連絡用のクロウラーだ。10日間ほど預けておく。その間に返答がなかったら、その子は姿を消す。では、連絡を待っている》
鏡の中の彼女は微笑み、半ば袖で隠れた手をフリフリとさせると、普通にドアを開けて洗面所から出て行った。
体が動く!
慌てて彼女を追う。だがそこには誰もいない。当然のことだけれど。だって、鏡の中では開け放たれたままの扉は、現実には閉まっていたもの。
洗面所に戻る。洗面台にある、直径20センチほどの足の生えた真っ黒な球体と、小さな三角フラスコ。それが、いまあったことがおかしな夢などではなく、現実であったと示している。
まるで首を傾げるような角度で白く丸い目を向けて来るクロウラーを、私は抱えてみた。
まるでフワフワの猫に触れているかのような感触に、私の頬が僅かにゆるみ、そして引き攣れた痛みを生み出す。
私はクロウラーを降ろすと、三角クラスコを手に取った。
私に失うものなどなにもない。
このまま悲嘆に暮れたまま生きるのも飽きてきたところだ。
この液体は降って湧いた希望だ。もしかしたら悪夢への片道切符かもしれないが、現状も悪夢の中にいるようなものだ。なにが変わるものか。
私は服も着ないままキッチンに向かう。冷蔵庫の中にはそれなりに食材はあるものの、すぐに食べられるような物はない。
そういえばスパム缶があったはずだ。あと飲み物と、チョコバーも準備しておけばいいだろう。
寝室に行き、サイドボードにそれらを並べ、私は緊張した面持ちで赤い液体のフラスコを手に取った。
キュポンと、想像以上にいい音を立ててコルク栓が抜けた。
私はフラスコを掲げる。
「この世のありとあらゆるロクでもないものに――」
乾杯!
★ ☆ ★
猛烈な勢いで大きなスパム缶を空にし、さらにはチョコバーを3本もたいらげ、ダイエットコークを3本飲み干したところで漸く落ち着いた。
飢餓状態というのはこういうことをいうのだろう。異常な空腹で目が覚めるなんて初めての事だ。
そして――
「傷が無い……」
私の右腹部から腰部に掛けての傷が見当たらない。
口元が引き攣れる。
……痛くない? それに――
「右目が……視える?」
私は慌てて洗面所に駆けこんだ。そう、駆けこんだんだ!
鏡に映るのは、あの忌々しいファンを称するストーカーに襲われる前の――あ、あれ?
ストーカーに襲われたのは28の時。なんだか若返ってない?
あまりの事に頬をさするように手を当てていると、いつのまにかクロウラーが洗面台に立っていた。
そしてその頭の天辺にメッセージカードが一枚。まるでクロウラーの頭に突き刺さっているように見える。
私はそのカードを手に取った。
『これを見てるってことは、ポーションを飲んで効果を実感したってことだな。見た目の変化はサービスだ。少なくとも5、6年くらいは若返っているんじゃないかな? 悪いことじゃないだろう? さすがに子供になったら問題だろうが、その程度ならごまかしが利くはずだ。ということで、対価の方を忘れずに頼むよ』
私は思わず快哉を叫んだ。
こんな気分は久しぶりの事だ。
これは夢? 奇跡? そんなのなんでもいい!!
そうだ。対価、報酬、とにかくやらねば! あぁ、彼女は女神に違いない!
少なくとも私にとっては女神そのものだ!!
確か、市民権がどうのということだった。それに、彼女は叔父の境遇も知っていたようだ。
確かに叔父なら、人ひとりをでっちあげることなんて造作もないだろう。
それに、あの可愛くもこまっしゃくれた、年の離れた従妹だって救われるに違いない。私以上にひどいことになったあの従妹も。
私はバタバタと洗面所から走り出ると、電話に手を掛けた。
※理子の口調について。
男性口調、女性口調と別れていますが、前者が英語時、後者が日本語時となります。
杓子定規に無理矢理英語を身に着けた結果、イントネーションや単語選択により男性口調的となっています。
本人はいつもの調子で話しているつもり。