椿説霊異記 中の十五――法華経を写し奉り、供養することに因りて、母の女牛となる因を顕す縁
椿説霊異記――日本霊異記(日本国現報善悪霊異記)に想を得て創作。
中巻・第十五「法華経を写し奉り、供養することに因りて、母の女牛となる因を顕す縁」より
「これ、法師どの。お起きくだされ。法師どのよう」
なんじゃ、五月蠅い。久方振りに酒を喰ろうて気持ちよう寝ねおったに。そう揺するな。酔いが逃げてしまうわ。揺するなと言うのじゃ。
「法師どの。儂とともに来てくだされ」
見ればまだ年端もゆかぬげな童女ではないか。なんじゃ、お前は。
「儂は噉代の里の高橋の連東人なるお方の遣女じゃ。山田の郡いちばんの富貴の殿じゃ。主人が縁師を求めておいでじゃによって、儂に伴うて来てくだされ、法師どの」
待て待て。最前より法師法師と呼ばうが、儂は法師どころか沙弥ですらない。見たままの乞者じゃ。門違えじゃ、疾く去ね。
「聴いてくだされ、法師どの。主人は篤信の方じゃ。このたび、先年罷られたご母堂の御供養に法華経を納められ、願に縁ある師を勧請けて済度せられんと、法会を設けておいでじゃ」
おう、それは立派なこころがけじゃ。さぞ煌煌しい大徳を召されるのじゃろう。去ぬる前に法会の場所を教えておけ。後刻門口に寄って般若陀羅尼を誦んずるによって、強飯ひと掬いと般若湯を下すよう炊処に言うておけ。
「儂を遣るに、門を出て初めに逢うたを縁とす、稍なりと修法の状あらば過ごさずして必ず勧請せよと、主人の仰せじゃ。さりとて儂にこころあたりのあろうはずもない。門を出て右か左かも定めぬまま歩きとおしに歩きとおして、ここ御谷の里に到ってようよう法師殿に遇うたのじゃ。主人の願に適うは法師どののほかになし、どうあっても儂とともに来てくだされ。法師どのよう」
じゃから儂は法師ではないと言うとるのだ。酒に酔うて路に臥せる法師がおるか。
「鉢と嚢を持っておられる」
門門で食を乞うのじゃ。受けるに鉢をもってし、納め保つに嚢をもってす。これが無うては乞いもならぬ。
「袈裟を掛けておられる」
袈裟? 袈裟なんぞ……、や、これはなんじゃ。輪にした藁縄が肩から掛かっておるではないか。わしはこんなもの、知らぬぞ。
「頭を剃っておられる」
なんと(ぺたぺた)……ううむ、このあたりの悪童どもの仕業じゃろう。儂が寝ねおる間に頭を剃り、縄を掛けたに違いない。
「その形で般若経を誦んずるなら、主人の仰せに適う道理じゃ。ただ法師どののほかに縁はない。ささ、早よう起きて。儂とともにおいでませい」
ええい、面倒な。よかろう、副うてやるわい。じゃが、ええか。穢げな乞者を門内に入れたと主人に叱られて泣くのはお前じゃぞ。儂は知らぬからな。
「御坊、大徳。よう参られた。奥へ進まれよ」
これな願主もどうかしておる。儂の形を見ればよもや違えようもあるまいに、急く小女に牽かれて来てみれば門前に待ち構えておって、遠くから儂に向こうて敬礼しおる。小女には叱るどころか褒美をやった。おまけにひと晩のうちに鈍色の法服を誂えてきおって、大層なもてなしようじゃ。のう、願主どの。儂が如きを呼びたる所以は何ぞ。
「昨年に隠れし母が一年の法要なり。我が願に縁ある師を請けて済度せられんことを欲う」
それに相応う法師が居ろう。
「願を立てて第一に遇う法師を我が縁師となさんがためなり。請けて法華経を講ぜしめん」
儂は法華経は識らぬ。ただ般若陀羅尼を門門に誦持して食を乞うて活命うのみじゃ。その陀羅尼にしてから、得度して学修せしものではない。儂は幼き時分より他人に後れてばかりじゃ。立つのも口を利くのも外の子らより遅かったと聞くし、働きも常人が十やるところ儂は一しかできぬ。父が早ように居らんくなって後は母のお蔭で存えたが、その母も随分昔に疫病で死んだ。臥せた母が儂に覚えよと言うて般若陀羅尼を口伝に教え給うた。唱えておればお釈迦さまが儂を救うてくれると言うてな。この鉢と嚢は、今際の母が遺したものじゃ。この禿と縄袈裟は悪童の伎戯じゃ。経も知らぬし、このような穢い形の法師が居るかよ。
「さればこそ我が縁なり。御坊が母上の授けし経を我が母の功徳に賜われ。なお請う。済度せられん」
さてもさても、困じたことじゃ。どう説こうが聴きもせぬ。かくなるうえは窃かに逃るるに如かじと請けた風して下がったものの、願主め、儂の計にこころづいたか守りを副えおった。障子の向こうから儂の立居を窺うて去ぬる気延いもない。こうとなっては是非もなし。明日はひとつ、これなる法衣を著けて陀羅尼を唱えてやろう。願主の母さまの供養になるかならぬかは思案の外じゃが、儂の母への今更の手向けじゃ。そうと決まらば夜居は無用。寝ぬらん、寝ぬらん。
「ごぼーう、ごぼーう」
うお、なんじゃ。牛と紛う太声に呼ばわると思えば、お前は牛か。人語を解すとは、げに怪しの赤牛じゃ。なんじゃお前は。法師を偽る不届き者の懲らしめに現れたか。
「我はこの家長の公の母なり。この家の牛の中に赤き牝牛あり。それを吾と覚れ。我、昔、先世に子の物を偸み用ゐ、所以に今牛の身を受け、もちてその債を償ふ。明くる日我が為に大乗を説かむとする師なるが故に貴みて慇に告げ知らすなり。虚実を知らむと欲はば法を説く堂の裏に、我が為に座を敷け。我まさに上り居るべし」
さて願主どの。そのこころのまにまにこの座に登りおるが、先に告げたるまま、儂は大乗を覚らぬ。よって唯一識る般若陀羅尼を誦し奉ろう。ただ、夢の悟があった。昨夜赤牛が閨に参って、願主の母じゃと宣りおった。生前に子の物を偸盗んだが所以に牸の身に堕ちた、その報で主への債を償うておると言うのじゃ。
「いと奇し。虚実を判別たん。座を延べて牝牛を喚べ」
おうおう、大ぐれなるが未だ喚ばれもせぬに、のっそりぬっそり、いかにも夢の赤牛じゃ。下男が茣蓙を手離すやいなや上って座に伏しおった。夢に言うておったままじゃ。
「実に我が母なり。我かつて知らず。いま我、免し奉らん」
「ごぼーううう……」
さても太く長き牛の大長よ。我が児に免されたを嬉しむか。のう、願主どの。主の免しこそが際なしの供養じゃ。母御どのも浮かばれよう。さてもさても、願主どのと母御どのの済度を欲うて般若心経を誦し奉らん。
かーんじーざーぼーさーぎょーじんはんにゃーはーらーみーたーじーしょーけんごーおーんかーいくーどーいーさーいくーやーくしゃーりーしーしーきふーいーくーくーふーいーしーきしーきそーくぜーくーくーそーくぜーしーきじゅーそーぎょーしーきやくぷーにょーぜーしゃーりーしーぜーしょーほーくーそーふーしょーふーめーつふーくーふーじょーふーぞーふーげーんぜーこーくーちゅーむーしーきむーじゅーそーぎょーしーきむーげーにーびーぜーしーんにーむーしーきしょーこーみーそーくほーむーげんかーいなーいしーむーいーしーきかーいむーむーみょーやーくむーむーみょーじーんなーいしーむーろーしーやーくむーろーしーじーんむーくーしゅーめーつどーむーちーやーくむーとーくいーむーしょーとっこーぼーだーいさったーえーはーんにゃーはーらーみーたーこーしーんむーけーげーむーけーげーこーむーうーくーふーおーんりーいーさーいてんどーむーそーくーぎょーねーはーんさーんぜーしょーぶーつえーはーんにゃーはーらーみーたーこーとーかーのったーらーさんみゃーくさーんぼーだーいこーちーはーんにゃーはーらーみーたーこーとっかーのったーらーさーんみゃーくさーんぼーだーいこーちーはーんにゃーはーらーみーたーぜーだーいじーんしゅーぜーだーいみょーしゅーぜーむーじょーしゅーぜーむーとーどーしゅーのーじょーいっさーいくーしんじーつふーこーこーせーつはーんにゃーはーらーみーたーしゅーそーくせーつしゅーわーぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてーはーらそーぎゃーてーぼーじーそわーかーはーんにゃーしーんぎょーおー
見よや願主どの。牛は死んだぞ。往生じゃ。母御どのの報は果てた。いと安き顔ではないか。形は畜生なれど母御どのの現身の骸じゃ。懇に弔うてやれ。さてさて、乞食坊主の務めも終いじゃ。こりゃ小女、哭き已んで炊処へ案内せよ。強飯と般若湯は言いつけておろうな。
「法師どの。不思議はあるものじゃな」
そうじゃな。主人どのの、母御どのの恩を顧う至り深き信が顕した験じゃ。更に重ねて功徳を修されようし、その度こそは本本の大徳を召されよう。儂が如き牴牾ではのうてな。
「なんの、法師どのは大徳じゃ。牛に堕ちたご母堂を助けたのじゃもの。大徳の上じゃ。法師どのは、これから何処へ向かう」
さてな、どうしたものかな。ほれ、そこの枯れ枝を拾うてくれ。どっちへ行くか、迷うたときはこうするのじゃ。目を塞いでな、陀羅尼を唱えて棒を倒らす。棒の指す方へ向かえば、お釈迦さまの加護がある。ほれ、主人どのがお前を呼んでおるぞ。早よう行かんと叱られるぞ。待て待て、行く前にその強飯の竹皮包みと般若湯の瓢箪を寄越せ。
「法師どのは何処にありや」
「出立せんと門前に」
「いま布施を献じて縁師の契りを固めんとぞ欲う。疾く戻せ」
「はい、直ぐと」
「法師どの。法師どの?」
ほんの瞬きする間に何処へ行かれた。最前の枝が倒れておるな。この指す先を行っておるはずじゃが、真っ直ぐな道にとんと姿が見えぬ。
「法師どのよう、未だ遠くは行っておらんのじゃろう。戻ってこられよう。主人さまが布施を下さるそうじゃあ、法師どのよう」
…………
「主人さまあ。法師さまは、消えられましたあ。すっかりと、消えましたあ」
参考:『日本霊異記』板橋倫行校註/角川文庫/昭和32年1月30日初版発行、昭和46年5月30日12版発行