手筈通り婚約破棄していただきました
「で、殿下! なんという事を!」
年に一度、その年の終わりを祝う国家最大規模の夜会。
国内貴族の半数が参加する大祝賀会であり、国外からも客人を迎えている重要行事である。
私——アルティミラ・フォーレスタは、この夜会の最中に結婚の発表をする予定であった。幼い頃から王太子殿下の婚約者として育てられてきたが、来年で二人の年齢は十七を数える。それに際し、籍を入れようという事になっていたのだ。
しかし、随分と遅れて夜会へ現れた殿下の口から放たれたのは、宰相が夜会の席だというのに大声を上げてしまうような言葉だったのだ。
「今更取り消しはせん! フォーレスタ公爵令嬢、其方との婚約を破棄すると言ったのだ!」
「何と愚かな!」
宰相が頭を抱え、それ以上は何も言えなくなった。
「…………」
私が言葉を返す事はない。
その必要性はないと判断したからだ。
殿下の右腕は、もはや見慣れた赤毛の少女の腰へと回されていた。
アドミナ・ノードン。豊かな胸と鳥のように細い身体を持つ美貌の少女である。
その姿が視界に映った時から、私は歯軋りがしたくて堪らなかった。許されるのなら、今すぐにアドミナを殴りつけているだろう。
しかし、公爵令嬢としての矜持がそれを許さなかった。私がこれまで培ってきた教養は、こんな場所で崩されてしまうようなものではないのだ。
「そして! このノードン嬢との婚約を発表する!」
「殿下、ありがたきお言葉ですわ」
アドミナが初めて声を発する。
その所作、振る舞い、ドレスのセンス、声の大きさに至るまで、彼女の中に流れる高貴な血を主張するように洗練されている。
ただ、一つだけ勘違いしてはならないのは、アドミナは貴族ではないのだ。貴族ではないというのに、それほどの教養を身に付けている。
このアドミナ・ノードンという少女は、国内で非常に微妙な立ち位置にある。
アドミナの教養は亡き母から付けられたものらしいが、その母は祖母からの教えなのだという。そして、その祖母はかつて王宮にメイドとして仕えていた経歴を持つ貴族であり、その際に当時の国王と過ちがあったのだと。
すなわち、王家の血が流れている。
税を王国法の定める範疇を超えて民に強いた罪で家は取り潰しとなったが、命までは奪われずに繋がっていた。あるいは王の子を成した事が知れれば処遇も変わっていた可能性もあるが、アドミナの母が産まれたのは家を失った後であった。
そして、親子三代を経て姿を現したアドミナは、その美貌をもってすぐに貴族間に知られるところとなった。
初めは下級貴族の家の屋敷へ使用人として雇われ、信用を得られればそれを足掛かりに次なる家へ推薦を取り付ける。そんな事を繰り返してとうとう王子の元にまで辿り着いたのだ。
そうしてようやく、自らの素性を明かした。
ただ騒ぐだけでは信用などされようはずもない事実だが、初めに信用を得た後ならばその限りではない。
今となっては、アドミナが王家の血筋である事は公然の事実として扱われている。
「殿下、聞き違いではありませんね?」
「くどい! 其方をフォーレスタ公爵令嬢と呼ぶ事が私の意思の表れであると知れ!」
言うまでもなく、一大事だ。
我が国は、決して一枚岩ではない。大国の常であるものの、国内政治の不安定さは王子も知るところだろう。
そんな中に突如として現れた跡目となりうる少女の存在など、反王派閥の貴族が黙っているはずがない。
「殿下が仰るのであれば仕方あるまい」
「然り、然り。それも、ノードン嬢は先王陛下の血を引いておられる」
「このままでは国が二分されるかと思いましたが、王族二人が共にあるというのならば心配はありますまい」
こうして、好き勝手な事を言う貴族が現れる。
王を憂う言葉など、本心であるはずがない。現王が退いた後の布石としようと、今からアドミナに媚を売っているに過ぎないのだから。
政治の事など全く分からない小娘を上手く傀儡とする事ができたのなら、この国の実権を握れるとでも思っているのだろう。その小娘に入れ込む愚かな王子を抱き込む事など容易い。
だが、そんな事がそう易々と許されるはずがないのだ。
「殿下にこの身を捧げる以上の幸福などあるはずがございませんわ」
「なんと愛らしい事を言うのだ。やはり私に相応しいのは其方のような女性だ。市井の民にも優しく、思いやりがあり、淑やかで、聡明である其方のような」
見せつけるように手を握り、顔を近付ける。
もう一度苛立たしく思うが、私から言う事などもう何もない。何も言わずとも、こんなものは解決してしまうと分かっているからだ。
「何をしておるか馬鹿息子!!」
「ち、父上!?」
現王は聡明な男であり、そして思慮深くそれでいて豪胆だ。
愚かな事をする息子から目を背けるほど愚かではなく、腹を立てた際に手心を加えるほど大人しくもない。
「この婚姻はフォーレスタ公爵家との繋ぎなのだぞ! ワシの死後、卿らは未熟な貴様を支える忠臣としてよく働いてくれるだろうと思ってのな!」
「わ、私は真実の愛を見つけたのです! 政略結婚なんてゴメンだ! そうだろう? アドミナ」
「え、ええそうです!」
「何を馬鹿な! 一国の主となる男の言葉とは到底思えんな!」
あまりの剣幕に、アドミナの顔が初めて引き攣った。
王子を丸め込めば解決するとでも思っていたのだろう。
「貴様になど我が愛する国を任せる事はできん! 廃嫡だ! ワシが死んだら王位は我が弟に継がせる!」
「はぁ!?」
この言葉には、集まった貴族や来賓も息を呑んだ。
まさかこんな勢いで、大変な事が決まっていやしないかと。
しかし、一番焦ったのはアドミナである。せっかくの美貌も、大きく開けられた口の前には台無しだ。
「お、お待ちください陛下!」
「貴様らは真実の愛とやらを見つけたのであろう? だったら田舎で愛する者と土いじりでもしておれ。土地はやろう。小さい土地だが」
「わ、私は無実ですわ! この男の口車に乗せられただけですの!」
「あ、アドミナ!? なんて事を! 永遠の愛を誓い合ったじゃないか!」
「知りませんわそんな事! 私と貴方とは何の関係もありませんわ!」
醜い争いに、会場中が苦笑いをする。
しても仕方がないだろう。国の恥なのだから。
「しかしおぬしは我が王家の血筋を名乗っておるはず。跡目争いも面倒じゃし、やはりこの愚息と追い払ってしまった方が良かろう」
「それ! 実は嘘なんですの! この馬鹿王子が冗談を真に受けただけでして!」
その言葉を聞くと、王の顔からスッと感情が消えた。
燃え上がるような怒りはなくなり、そこには一国の主が姿を現したのだ。
いや、それだけではない。つい今まで泣きそうだった王子も、初めに王子を糾弾した宰相も、すっくと立ち上がって皆アドミナを見ている。
「我が息子よ、よくやった。其方の働きに感謝しよう」
「いえ、陛下。それより、私は愛する者のところへ行っても?」
「構わぬ。フォーレスタ公爵令嬢にもすまない事をした」
「いいえ、この国のためを思えば辛くなどありませんわ」
この事態を把握しているのは、私を含めてたった四人。
その中には、当然アドミナは含まれていない。
「ど、どういう事……!?」
「どうもこうもない。其方は今『自らは王家と関わりがない』と言い、我々はそれを聞いた。それだけの事なのだ」
「……っ!」
その言葉の意味がわからないアドミナではない。つまり、言質を取ったのだ。
アドミナの存在は、放っておけば国を二分しかねないものである。事実、アドミナは国の中枢にまで自らを入り込ませ、曲がりなりにもこの夜会にも出席するだけの立場を確立した。
なので、その口から言わせたのだ。王家と何の関わりもないのならば、アドミナの存在価値はそこらの平民と何ら変わりない。
「で、殿下! 先程私と婚約をしてくださいましたよね!?」
「いや、私の一存でそんな事ができるわけあるまい。当然アルティミラとの婚約も破棄できん」
「殿下、演技とは分かっていても辛うございました」
「すまぬ、アルティミラ……。このような手しか取れなかった私を許しておくれ……」
演技とはわかっていても、歯軋りしそうなほど悲しかった。
愛する殿方が、別の女性に手を差し伸べているのだから。しかし、それが仕方のない事だとも理解している。私にできる事など、あの場では何もなかったのだから。
「ですが殿下。腰に手を回す必要はなかったのではありませんか?」
「いや……それは……確かに。すまなかった……」
「許します。なので、私を愛すると言ってください。いつものように」
「ああ、愛している……」
「殿下……」
「自分たちの世界に浸るのはやめてくださる!?」
殿下を見つめていると、アドミナが騒ぎ始めた。
「その娘を連れて行け。沙汰は追って伝える」
「いやぁ!! 私は王族よ! 本当なのに!」
「あと、その小娘に賛同した者どもは領地を国へ返還するように」
「は!? 我々も!?」
「そんな!?」
「陛下! ご慈悲を!!」
この計画の肝はここだ。
アドミナだけでなく、その賛同者まで炙り出せる。国家を一枚とするための布石なのだった。
アドミナと貴族たちは、これ以降私の前に現れる事はなかった。
聞けば、他国へと亡命したらしいが、その後の消息は不明だ。
◆
「貴方、何をしてらっしゃいますの?」
「ん? いやなに、少し懐かしくてな」
王位に就いた愛しい人が、見覚えのある物を差し出した。
「こんな物……まだ残っていましたのね……」
「そう怒らないでくれ。私も驚いたのだ」
それは、王家の紋章が刻まれた指輪である。アドミナが捕まった後、王家の血筋の証拠として提示してきた物だった。
当然、偽物である。そもそもこんな物があるのなら、捕まる時に出さないはずがない。
「あの女の物は全て廃棄したと思ったが、部屋の隅に転がっておったわ」
「この部屋にあの女が……?」
「ああ、『素敵な部屋ですわ!』と大喜びだった」
「……使わない家具を置いてある物置ですわよね?」
「なんなら廃棄待ちのな。あの女には上等に見えたらしい」
自分の眉間に皺がよるのを感じる。
あまりに滑稽であり、教養がない。
「どうやら私の部屋だと思ったらしい。あんな女を、私の部屋に入れるはずがないというのに」
「まあ、図々しい方ですのね」
「全くだ。私の心が其方以外に向くはずがないと理解できなかったようだな」
陛下は、こんな言葉を平気で吐く。
多少は慣れたつもりだったが、不意を打たれるといつも返答に迷ってしまう。
「どうした? アルティミラ」
「……こっちを見ないでくださいまし」
「な、なんだ……!? 何故怒っている!?」
「怒ってなどいません、見ないで!」
「そ、そんな顔を真っ赤にするほど……っ!」
陛下はいつもこんな調子だ。
王太子時代から何も変わらない。
そして私も、そんな陛下に変わらない愛を感じているのだった。